――いつか親父が言っていたことを思い出す。
あれは珍しかった。酒を飲んでいることも珍しいと思ったが、それ以上に酔っぱらっている親父の姿が何より記憶に残っている。……まぁ切っ掛けは藤村の爺さんが持ってきた大量の酒瓶なわけだが。
縁側に座り、日本酒をちびちびと飲む切嗣。ぼんやりとそれを見ているだけの俺。
〝……僕は、目的のために、自分を殺した。どうしてもやりたいことがあったからね。そのために色んなモノを捨ててきたよ〟
切嗣は、突然、本当に突然、そう切り出した。
〝友達も、家族も、故郷も、自分という感情も、全部ね。大切なモノを切り捨ててでも、やらなきゃいけないと思ったから。だから、士郎には、そうなって欲しくないんだ〟
くしゃくしゃと俺の頭を撫でる切嗣。どこか乾いたような笑顔が印象的だった。
〝士郎にはね、大切なものを一杯作って、それを守れるような人間になって欲しい。大切なもの。ああ、こういう暮らしをして実感した。その重みを、その輝きを、それがどんなに、美しいものかを〟
俺は、結局、切嗣のような正義の味方になると決めてしまったけど。それでも大切なモノの重さは分かった。決して裏切れないモノ。……きっとそれは、凛が教えてくれたんだ。
凛と出会ったから、切嗣とは違う形で、正義の味方を追っていけるんだ。凛は、冷たい非日常から暖かな日常に力ずくでも引き戻してくれるから。
だから、俺はアーチャーとは違った形で、正義の味方という理想を追い続けることが出来る。
切嗣はぼんやりと月を見上げる。胡乱な瞳は、何を見ているのだろうか。
〝大切な何かと共に自分を切り捨てる。そんな強さに意味はない。歪んだ強さはいつか必ず破綻する。機械は夢を見ない。ああ、僕は――〟
その最後の一言は、声が小さすぎて、俺には分からなかった。
何となく、俺は。
――切嗣は、此処にいない誰かを見ているのか。
と、そう思った。
その言葉は確かに衛宮士郎の耳には届かなかった。
……だけれども。
きっと、その声は闇に埋没せず、いつかの誰かに届いただろう。
世界はただあるがままに、全てを受け入れる。
叶わない願望。切嗣は、世界が無情で残酷なことを痛いほど良く理解している。
それでも願わずにはいられないのは――こんなにも星空が綺麗だからだろう。
ああ、僕は――
――――僕は、もっと早く君に会いたかったよ。アイリ……
6 / 星空に誓う (1) human_traffic
新暦81年 四月三十一日 ミッドチルダ 中央区画 湾岸地区 対〝黒い影〟部隊機動六課隊舎
証明に照らされた広い部屋。スクリーンが幾つも立ち並び、そこに向かって沢山の椅子が並んでいる。
椅子に座っているのは十人と少し。なのはにフェイト。スバル、ティアナ、エリオ、キャロ。そしてヴォルケンリッター、リンを中心にした1039航空部隊の面々だ。スクリーンに写っている〝黒い影〟、そして危険敵対個体<サーヴァント>を固唾を呑んで見ている。
スクリーンの前に立つのは部隊長、八神はやてとリィンフォースⅡ曹長だ。はやての指示に従い、リィンは部隊員達にある用紙を配っていく。受け取っていく隊員達。だが、その目はスクリーンに釘付けだった。
それを遮るように、はやてはこつ、と靴音を鳴らしながら、前に出た。
「……六課の正式な設立の前やのに、わざわざ前線メンバーに集まって貰ったのは他でもない。――現在分かっている〝黒い影〟の情報を、皆に見て貰おうと思てな」
かさり、と手に持ったのは、先ほど皆に配った紙だ。
「これは現在分かっている〝黒い影〟と――サーヴァントの情報や。後で武装隊員らにも説明するつもりやけど、現状ではトップシークレット扱い。頭の中に叩き込んだ後、焼却処分すること」
こくり、と皆一様に頷いた後、手に持った紙に目を落とす。
そこに書かれているのは〝黒い影〟の中でも危険戦闘個体と称されたサーヴァントのことだ。各サーヴァントの概要が、写真や図と共に記載されている。
その内容は以下のようなものだ。
・・・
○セイバー――真名、アルトリア・ペンドラゴン
・特記事項:〝風王結界〟による不可視の剣を使う。その正体は〝約束された勝利の剣〟と呼ばれる聖剣である。その威力は、先のミッドの被害から鑑みて、対人ではなく対艦級であると推察される。なお、AAAクラスの魔法は全て弾かれていることから、恐らく魔法そのものが通じないことが予測される。
○ランサー――真名、クー・フーリン
・特記事項:〝刺し穿つ死棘の槍〟と呼ばれる紅い槍を使う。全力で使用される場合、必ず相手の心臓を貫く、因果逆転の一撃である。阻止するには、発動を妨害するしかない。
○アーチャー――真名???
・特記事項:投影と呼ばれる特殊な魔術※1を使用する。数多の刀剣類を撃ち出すことを主な武装とする。また近接戦も可能。
○ライダー――真名???
・特記事項:釘剣と呼ばれる特殊な刀剣を使う(添付した動画・画像を参照)。二つの宝具が現在確認されている。〝他者封印・鮮血神殿〟と呼ばれる結界。結界内に取り込んだ人間を溶解し、使用者に魔力を吸収する。極めて高度なAMFに類似した現象である。もう一つは名称不明、そして詳しい能力も不明である。恐らく極めて速い突進技であり、オーバーSクラスの威力を持っていると推察される。
○キャスター――真名、メディア
・特記事項:魔術※1の使い手。魔導師ランクに換算するとSS+クラスと推察される。襲撃の現場に居合わせたエリオ・モンディアル一等陸士によって撃破が確認されている※2。
○アサシン――真名、佐々木小次郎。
・特記事項:カタナと呼ばれる特殊な剣を使う。注意すべきは〝燕返し〟と呼ばれる技である。列なる並行世界に隙間を空けることによって、相手を三つの円で『同時に』断ち切るという剣閃である。これを回避することは実質不可能。
○バーサーカー――真名???
・特記事項:巨大な斧のような剣を使う。AAA、Sランクの魔法が弾かれていることが確認されている。エリオ・モンディアル一等陸士によって、致命傷と思われる一撃を受けたが、直ぐさま回復した。このことから、一度の致命傷では撃破は不可である。どの程度のダメージを与えれば撃破できるかは不明であることも記しておく。
○アーチャー――真名、ギルガメッシュ
・特記事項:〝王の財宝〟と呼ばれる宝具を使う。空間を歪ませ、背後から数多の宝具を撃ち出す。その総数は不明であり、実質無限であると見て行動することが懸命である。その他にも、XV級次元戦闘艦及びL級二隻を壊滅させた剣のような武装が確認されている。同時に時空断裂も確認されている。現在確認されている危険戦闘個体<サーヴァント>において、最も戦闘力が高い。
○〝黒い影〟
・特記事項:先兵。魔法吸収と物理攻撃の二属性を使い分ける。黒い光による攻撃は、精神ダメージの類であることが確認されている。内部構造は脆いため、熟練された魔導師ならば撃破は比較的容易である。しかし、出現反応が全く観測出来ず、その予測は不可能なことから、危険度は高い。また総数も不明であり、大量に出現した場合、相当の被害を想定しなければならない。
※1 魔術とは魔法とは別体系で括られたシステムである。現在解析中だが、原理はどうあれ、放たれた魔術は魔法にて対応が可能であるという結果が出ている。
※2 一度撃破が確認されたが、その後〝黒い影〟がキャスターのようなシルエットに変化したことが確認されている。その能力は、AAランク相当の防御壁、AAAランク相当の砲撃魔法、そして飛行だと予測できる。
…
サーヴァントについては、既にはやてから説明があった。異世界からの来訪者ということ、英霊と真名について、宝具とその発動条件について、そして概念じみたスキル――それらを深く知るにつれて、皆の顔から血の気が引いていくのを、静かにはやては見ていた。
無理もない、とはやては思う。
信じられない、という気持ち。しかし実際にこのような出鱈目なモノが存在しているという現実感。その齟齬が、圧倒的な絶望として襲いかかっているのだ。
これだけの戦力。恐らく本局のSSSランク魔導師を内包した部隊でも対抗することは厳しいだろう。戦力不足の地上本部でどこまで拮抗出来るか。そして、その中核を為すのが自分達なのだ。
重圧。不安。何より、それを遥かに上回る〝死ぬかも知れない〟という恐怖。
皆が皆、ある程度の自負はあった。J・S事件の解決、今まで積み上げてきた功績と経験。それらは確かな実力と自信を彼らにもたらしていた。
が、今回の相手はあまりにも強大すぎる。なのは達は、それぞれが実際に手合わせしたサーヴァントを思い浮かべた。手ひどい傷を負った者も居る。戦いとは呼べないほどの一方的な蹂躙もあった。アレに勝て、など悪い冗談にしか聞こえない。
――だが、そんなことは知らないとばかりに、はやては言った。
「見ての通り、敵は強大。それは直接サーヴァントと対峙した皆が一番分かってると思う。そうでなくとも、ミッドの被害状況を見て貰えば、〝黒い影〟がどんなに危険か理解できるやろ? 保有制限で渋っていた本局も重い腰を上げた。……逆に言えば、そこまで状況は悪いということや」
皆が一様に思い浮かべたのはミッドチルダの大地に刻まれた大断層だ。サーヴァント・セイバーがもたらした圧倒的なまでの暴力の傷痕。市街の復旧は進んでいるが、その破壊の残滓は恐らく癒えることは無いだろう。
転移反応が観測されない故に、後手後手に回らなければならない現状。圧倒的な戦力。――絶望的な戦況。
はやてはそれを払拭するように、厳として言う。
「そやけど、私らは負けるわけにはいかない。そのために私は最高のスタッフと最高の機材を用意した。負ける道理なんて、これっぽちもあらへん。後は皆の心構え一つ」
一瞬だけ目を閉じ、そして開ける。
目の前には、今までスクリーンに釘付けだった皆の瞳があった。
「――私らは、世界を背負って、此処にいる。そのことを忘れないように」
はやての言葉に、皆は静かに頷いた。そこには〝世界〟という重責を背負うに値する表情があった。
経験と自信がもたらす歴戦の勇士の如き、厳然とした顔。――だが、例外が三人存在した。
一人はヴィータ。
皆が真剣にはやての言葉を聞いている中、ヴィータは一人俯き――嗤っていた。
脳内にあるのは、あのランサーというサーヴァントのことだ。
ギガント・フォルム。鉄槌の騎士の渾身を、あの男はたった一本のか細い槍で耐えきった。耐えきってしまった。
それだけではない。用紙に書かれている宝具の能力――因果の逆転。放てば必ず心臓を貫く魔の槍。文字通り怪物だ。
心が、震えた。歓喜と愉悦と、恐怖と不安――そして何より決意の震え。
思う。
こいつは、危険だ。戦えば必ず誰かが命を落とす。そんな奴をはやてや他の奴らに任せるわけにはいかねぇ。ならば――
嗤う。嗤う。張り裂けるような笑みを浮かべて、嗤う。
別に、ヴィータが戦闘狂であるというわけではない。だが、強固なるプライドがあった。
――我が鉄槌は全てを砕く。
故に、自分は鉄槌の騎士として存在している。それが自分の誇り。譲ってはならない信念。はやてのため。守るべきものため。この鉄槌が砕けぬモノなどあってはならない。『闇の書』時代から積み上げてきた戦闘経験――屠ってきた幾つもの命に報いるためにも。
――お前が、あたしの存在意義を脅かすというのならば。
「……ぶっ潰す」
この、命に代えても。
ヴィータは誰にも聞こえないほど小さな声で、凄惨な笑顔が貼り付けたまま、呟いた。
二人目はスバルだ。
はやての視線を受け止めた後、しかしその目は自らの右手に落ちた。
その表情には何も刻まれていない。心中にあるのは、何故という疑問だけだ。
――何故自分は此処にいるんだろう?
戦う意味のない自分。意義を見出せない右腕。宿っているのは、ただ破壊の力。
〝傲慢者〟。そんなものでしかない自分が、本当に此処にいて良いのだろうか。周りにいるのは自分と比べるのも愚かなほど立派で強い人達ばかりだ。
世界を背負った部隊。機動六課。
背負えない。自分には、あまりに重すぎる。重圧に潰されそうだ。
対峙したサーヴァント、アーチャーとアサシン。あんなものに勝てるとは到底思えない。そして更にその後ろには未だ五体ものサーヴァントが居るのだ。
馬鹿げている、とスバルは思った。アレに勝て、と言われても、無理難題でしかない。むしろ今の自分では、部隊の足を引っ張りかねない。
辞退しよう。そう思い、す、とスバルははやての方を向いた。
言えばいい。この任務は自分には向いていないと。自分には無理だと。
そうだ。はっきりと口に出せば楽になれる。こんなことを悩まなくても済む。そう、口にさえ出せば――
〝――せっかくお前には力があるっていうのに、どうしてそれで人を救わない!?〟
「――っ!」
止まった。自分でも分からない。しかし、凍ったように口は動かなかった。
どうしようもないほどの無力感、自己嫌悪。何も出来ない。何をしたらいいのかも分からない。なのに、これは何だ。
脳裏に過ぎる鋼のような、あの背中。
〝――――――――俺が、正義の味方だからだ〟
心の中に燻る、何か。
右手を見つめる。意味も理由もない、人を殺す力のみを宿す拳が、そこにあった。
しかし、それだけではない何かが、心の中に燻る何かがあるような気がして。
拳を、握り、開いた。
何も掴めない。それが何であるかも分からない。
それでも――きっと、それは綺麗なもので。
今の自分には無いものだ。
だから求める。だから伸ばす。
この世界に幾千、幾万もある戦う理由。それが欲しくて手を伸ばす。
出来るなら、あの少年のように輝かしいものを、と思いながら。
だが、掴めない。今の自分には遠すぎて、その輪郭すらはっきりしない。
ただ輝いて、自分を照らし続けるだけ。
ああ、まるで――彼方にある、星のようだ。
スバルは思い、その掌を見つめ続けた。
そして、三人目ははやての言葉を受けた後も、スクリーンを見つめ続けていた。
高町なのはだ。
その瞳は一点に注がれている。
――英雄王、ギルガメッシュ。
黄金色の暴力の化身。サーヴァントは全て異常なほどの力を持っているが、アレは別格だ。立ちふさがるモノは全て破砕する。
本局の方では、次元を切り裂いた斬撃ばかりを特別視しているが、真に恐ろしいのは、その異常なほどの面制圧力だ。宝具の一斉射撃は、反撃の暇すら与えない。避けることなど、実質不可能に近い。
まず接近戦は論外だ。近づいている間に串刺しにされるのがオチである。
やるならば、遠距離だ。それも超々遠距離による艦隊からの射撃。大地に与える影響を鑑みないアルカンシェルのような特大砲撃ならば――あるいは。だが、仮にそれが通じないとしたらどうする。超々遠距離からの攻撃ということは、同時に、相手に長い時間隙を見せるということだ。
超々距離に対応する宝具があったらどうする? 亜空間を歪ませ、一瞬で距離を縮められるような宝具があったらどうする? 物理攻撃を一切遮断するような宝具があったらどうする?
そう、相手の最大防御力が、艦隊を上回っているとしたら。仮にその全てが無いのだとしても、時空断裂を引き起こした斬撃がある。あれは程度の差はあれ、時空震を引き起こすアルカンシェルと同質の兵器だろう。時空震と時空断裂のぶつかり合い。それは最早どちらが強いか弱いかの次元ではない。恐らく、時空そのものが崩壊するか、もしくは相殺されるか、だ。
それでは駄目だ。対抗、と呼ぶにはあまりに薄弱。
ならば、残された選択はただ一つ。
――防御させる暇もないほど苛烈な、ミドルレンジからの、撃ち合い。
ぶるり。
なのははその思考に行き着いた時、体が戦慄で震えるのを感じた。
なのはは考える。現状分かっているギルガメッシュについての情報――衛宮士郎からもたらされた情報を踏まえて、対抗策をひねり出す。
――ギルガメッシュにダメージを与えるのならば、一時的にであれ、対等な立場にならなければならない。放出される宝具と同等の攻撃をこちらが仕掛け、その間隙を突く。またはギルガメッシュの宝具を上回る弾幕を張るか、だ。まず後者は話にならない。SSSクラスでも、恐らくアレを上回ることは余程のことでもない限り無理だ。ならば、前者しか有り得まい。
対峙して分かった。ギルガメッシュは全てを見下している。傲慢さ故の油断。初めから全力放出は無いと見て良い。ならば、撃ち出される宝具の無効化は可能。それは先日の交戦からも分かる。隙を見て、大威力砲撃を撃ち込めば、あるいは。
そして、そんな芸当が可能なのは、六課メンバーにおいて――自分しかいない。
「――」
だからこそ、なのはは震える。あの絶望。あの暴力の嵐の中に、もう一度身を投げ出すことが恐ろしくて堪らない。何より――――
宝具の無効化。ミドルレンジでの撃ち合い。弾き出される勝算。
――馬鹿げている。自分の技量でも不可能だ。確かに一度、ダメージを入れることは出来た。だが、そこまでだ。あんなかすり傷では話にならない。少なくともアクセルシューターではなく、ディバインバスターレベルが必要だ。仮にディバインバスターを直撃させたとしても、それがどの程度通じるかのかすら見当が付かない。もしかするとノーダメージということも有り得る。打倒など、単なる希望的観測からなる夢想に他ならない。
――けど、それは本当に? 本当に、高町なのはは、拮抗も対抗も何一つ不可能だと――――
そうだ。何より。
――――何より恐ろしいのは、何もかもをかなぐり捨てた、文字通り全力全開ならば、奴を倒せるかも知れないということだ。その代償は――――
「だけど……やるしかない」
なのはは、一人、その決意を呟いた。
◇
各々の表情を見渡した後、何か思うところがあるのか――はやては少しだけ目を泳がせた後、しかしすぐに前を向いた。どんなことがあろうとも、この任務はやり遂げなければならない。
はやて自身のためにも。六課の皆のためにも。そして――世界のためにも。
「――さて、これで一通りの説明は終わりや。何か質問は、と言いたいところやけど。その前に紹介したい人が居る」
それに反応したのは、第1039航空部隊の一人――リンだった。
ぴくりと肩が震え、怯えたような顔をする。同じ航空部隊のロイドは不審に思ったその時。
「サーヴァントについての情報を提供してくれた、新しい新人メンバーや」
衛宮士郎が、緊張の面持ちで、作戦司令室に入ってきた。
六課設立、その承認の一押しとなった少年であり、無茶な取引を要求してきた無謀な少年でもある。
――まぁ、それを受けた私も……どうかしてるかもしれんな。
はやてはそう思いながら、士郎の横顔を見る。
そして、もう一人。
「あの人――」
と、呟く者が居た。
スバルだ。
脳裏に映る、鋼のような背中。セイバーのサーヴァントがミッドに現れたとき、自分と言い争った、あの少年だった。
スバルが、そう思った瞬間――
「っつ――――!!」
がたん、と大きく椅子を蹴飛ばしながら、リンは部屋を飛び出した。
蹴飛ばされた椅子の残響音が室内に響く。
「リン!?」
そう叫んだのは、リンの同僚であり、誰より近くで彼女を見てきたシェルドだった。しかし、そんなシェルドでも何故リンがこのような行動に及んだのか分からなかった。
ざわめく六課メンバーの中、しかし、それでも表情を変えなかったのは――シグナムとはやて、そしてなのはだった。
「……なのは」
「うん。分かってる。皆はそのまま続けて」
そうシグナムになのはは答え、リンの後を追う。
訳が分からず困惑する面々の中、はやては仕切り直すために、少し大きめの声を出す。
「はいはい、静かに。リンについては大丈夫や。高町隊長に任せとけばな。……士郎君、自己紹介、お願いしても良いかな」
「え――あ、はい」
……何なんだろうか。
訝しげに思う士郎。
リンの突然の行動。ソレに対する三人の態度。
――まるでこうなることが分かっていたようだ。
そう思いながらも、とりあえずは言われたとおりにしようとする。
考えるには、情報が足らなさすぎた。
「え、と。地球出身の民間人で、六課にはアドバイザーとして入隊しました――
――衛宮士郎です。よろしく」
はやての言葉に疑問を持ちながらも、ひとまずは士郎の言葉を聞こうとした面々。その一角が、突然崩れた。
息を呑む音が、空間を支配した。
驚き、皆は見る。その一角を。
驚愕に目を見開きながら戦慄くのは――第1039航空部隊の面々だ。
全て繋がった。リンがあの少年を異常なまでに気にしていた理由を。あの少年が名乗る瞬間に部屋を飛び出した理由も。
それは――
「エミヤ――シロウ、だって?」
きっと、その名前を認めたくなかったからだ。
「――リン」
なのははその背中に声を掛けた。
一直線に伸びる白亜の廊下。その中で、リンは肩を抱きながら震えていた。
「……分かってるんです。一目見たときから、そんなことは分かっていた……!!」
全ての始まり。
あの時、あの場所で。
――何故、自分は、見も知らずの赤の他人に声を掛けたのか。
「でも、そんなこと認められる訳がないじゃないですか! 振り払ったのに! 振り払った、はずなのに……!」
肩を握りしめる力が強くなる。
ぎり、と軋むのは、彼女の体か、それとも彼女の心か。
「怖いの? 彼の名前を、彼の名字を、誰より、彼の口から聞くことが」
なのはは声を投げかける。その顔は酷く、無表情だ。
本人にとって、それは何気ない一言のつもりだった。
他人をよく知ろう。もっと話を聞こう。
いつもやっている、なのはのやり方だった。
だが。
「――っ!」
それはリンにとって、激情の引き金となった。
振り向く。
刻まれている表情は――理不尽な怒りだった。
「そんなこと言って! 分からない! 貴女には分からないよ! いつもそうだ! 貴女はいつもそうだ!!」
言葉になっていない言葉。それが、矢継ぎ早に吐き出される。
八つ当たりにも近い言動だった。感情が理性を凌駕し、迸る。
なのはの正当性、正しさ。それは十分理解している。しかしそれでも言葉は止まらない。
俯き、それでも瞳だけは真っ直ぐなのはを見つめ。
「そうやって上から見下ろして! みんなみんな分かっているような顔をして! ――そんな傲慢な言葉で!」
涙。
リンは泣きながら咆吼する。
確かにソレは理屈の通ってない、八つ当たりの言葉だったかも知れない。
だが――
「――――皆が皆、貴女のように強いって思わないで!!」
――それは何よりも的確に、高町なのはの人間性を捉えていた。
だ、と駆け出すリン。その背中は、あっという間に見えなくなった。
涙が軌跡を描き、白亜の廊下に落ちた。
「……」
後に残されたのは、叫びの余韻と――僅かに眉を下げたなのは一人。
その視線はもういなくなったリンの姿を、今も見ているかのようだった。
掌を見つめる。
自嘲する。
私は何をしているんだろうか。本来なら、リンの後を追うべきなのに、こんなところで何を黄昏れているのだろうか。でも――それも仕方ないことか。私は……
なのはは、ぽつりと。
「……私は、一度も自分が強いだなんて、思ったことはないよ」
何かに弁解するように、そう呟いた。
――私は、何でリンが怒ったのか。理解できないのだから――
◇
新暦81年 四月三十一日 ミッドチルダ 中央区画 湾岸地区 対〝黒い影〟部隊機動六課隊舎
周りを見渡す。一瞬で状況を脳内に取り入れる。
――右から一機。左から二機。直上に一機。
「はぁ――!」
ソニックムーブ。
体が残像を残しながら、空間を疾駆する。
雷撃が迸る。
薙ぎ払い。左から来た、訓練用のガジェット二機はそれで沈黙した。
だが、それでも止まらない。魔力の奔流が、槍に叩き込まれ、更なるスピードで加速する。
「おおぉおおおおお!!」
体が軋む。治りきっていない傷が開きそうになる。血が口内から吹きだし、それでもなお加速する。
――足りない。もっとだ。もっと、強く。更に強く。あの時のような、速さと鋭さを。
けれど、記憶の通りにはいかない。『我が閃光は全てを貫く』。あれと比べたら、この一撃の何と凡庸なことか。
思考する。
――あの時にあって、今無いものは何だ。足りないモノは何だ。何もかもを貫く、あの白い弾丸になるには、何が必要なのか。あれを再現するには。
「――リンカーコア、吸気、」
「エリオっ!!」
そこで、エリオの周りを囲んでいた訓練用のガジェットが、全て沈黙した。辺りに仮想空間を投影していたジェネレータの電源が切れ、白い証明が照らす無機質な部屋に戻っていく。
「何で」
呟くエリオだが、その言葉は続かない。
ふらり、と足が蹌踉めき、地面に這い蹲る。
一度止まってしまったら、後は雪崩れのように後遺症が来た。治りきっていない怪我で動いた代償だ。
呼吸が出来ない。痛みが全身を貫き、指一本も動かせなかった。
がらん、とストラーダを落とす。ごしゃり、と完全に地面に倒れ伏す。
それを見下ろすように立っているのは、シグナムだ。
「お前……何をやっていた」
「――」
エリオは答えない。ただまともに動けないような体で、それでもストラーダを持とうと懸命に腕を伸ばす。
それを断ち切るように、シグナムの怒号が響き渡る。
「お前は、何をやっているかと聞いているっ! 答えろ! エリオ・モンディアル!」
エリオは立ち上がる。痛覚が全身を支配したかのような感覚の中で、それでも立ち上がる。
胡乱な瞳。真っ黒な虚無のような色。
それは自己嫌悪が渦巻いているが故だ。
エリオは、その闇を吐き出す。
「……もう、嫌なんだ。――俺は」
「――」
俺、という一人称。こんな言葉遣いをする子だったろうか、とシグナムは訝しむ。
……エリオの中で、一体何が起きている。
ストラーダを握りしめ、ふらふらになりながらも、その言葉を口にする。
「嫌だ。もう弱いのは。あんな想いをするのは。何も守れず、ただ這い蹲るだけの自分は。……ああ、そうさ」
吐き出す。今のエリオの全てを。エリオが望む、そのどうしようもない願いを。
虚な瞳で。
「俺は――何よりも、誰よりも……強く、なりたいんだ」
「――お前」
シグナムは目を見開く。
違う。此処にいるのはエリオではない。あの優しい少年の面影は何処にもない。
知っている。この瞳を。かつて幾度も対峙したことがある。
『夜天の書』として。『闇の書』として駆け抜けたあの時代に。この手で屠ってきた、あの人間達に、そっくりだ。かつて古代ベルカに当たり前に存在した、人とは呼べないほどの狂気に彩られたモノ。
――〝強さ〟という妄執に駆られた幽鬼そのものだった。
あまりの出来事に頭が真っ白になる。まさか今という時代、見知った人間が、こんな瞳をするなど――思っていなかった。在ってはならなかった。
硬直する体。エリオは無言で歩き出す。止められない。驚愕に打ちひしがれた今のシグナムでは止められない。
だが。
「――」
「テスタロッサ……?」
フェイト・テスタロッサ・ハラオウンが、その歩みを止めた。
無言でエリオを見つめる。どこか悲しげな瞳で。
エリオはそれすらも無視するように、横からすり抜けようとする。
す、と擦れ違う両者。
――それが、決定的な隔絶だった。
「エリオ」
声を掛ける。振り向く。妄執に取り憑かれた瞳がそこにあった。
その全てを否定するように。
ぱしん。
フェイトがエリオの頬を叩く音が、辺りに響いた。
「駄目だよ、エリオ。それだけは――駄目だ」
その声は、叱るでもなく、怒るでもなく、否定の色のみに彩られていた。
初めてだった。フェイトに叩かれたことも、ただ否定されることも。
けれど悲しいだなんて思いは無かった。あるのは、ただ、理不尽に対する怒りだけ。
エリオは、それを吐き出す。
「……ずるいですよ、フェイトさんは。強くなるためには、努力するしかないじゃないですか。こんな自分が嫌で、誰よりも強くなりたくて。そのためには――誰よりも頑張らなきゃ、駄目なんだ」
弱い自分が嫌いだ。何も勝ち取れない自分が嫌だ。今すぐにでもそんな自分とは別れたい。だから動く。だから否定し続ける。強くなるためなら、何だってする。強くなるためなら――
〝強くなりたい〟。
守る強さではなく、勝ち取る強さを。胸を引きちぎるような切実なる少年の思い。
だが、それをフェイトは真っ正面から否定する。
「それは誰のための強さ? そんな怪我を押し通して、無理矢理体を痛めつけて、それで本当に強くなれると思うの? そんな思いで得られる強さは――本当に正しいの?」
ぎり、と奥歯を噛み締める。
そんなことは知っている。そんなことは理解している。
けれど、ならば正しい強さとは何だ。強さとは須く自分のために存在し、そして動かなければ勝ち取れないモノなのだ。それが、あの時。〝僕〟が死に、〝俺〟が生まれた瞬間に理解した、世界の真実。
――――世界はこんなにも理不尽に満ちている。だから、俺は――――
「ストラーダは預かっておくよ。今のエリオには……これは危険すぎるから」
フェイトは碌に力が入っていないエリオの手からストラーダを取った。それに反抗する力すら、今のエリオには無かった。
エリオは、ソレが悔しくて堪らなかった。
「フェイトさん……貴女はいつも正論ばかり口にする。だから分からない。いつだって正しい貴女には――俺の事なんて、分からない……!!」
体を引きずりながら、エリオは部屋を出て行く。
その瞳に虚な色を宿しながら。
シグナムは無言でそれを見届け、そしてフェイトに声をかける。
「――アレは危険だぞ、テスタロッサ。私は、今まで何人もあのような人間を見てきた。どうしようもない、〝強さ〟に魅入られた人間をな。そして、その結末は――いつだって、無惨なものだった」
過剰に強さを求めるということは、それはつまり過剰に戦いに身を置くということだ。感情も自我も薄れ、ただ戦いを。
――それは最早人間ではない。まともな終わり方があるはずもない。
フェイトは頷き。
「分かってる。でも、こればっかりは、エリオが自分で解決しなきゃならない問題。……大丈夫。絶対にシグナムの言ったような結末にさせないから。私には、そうするだけの責任がある」
その決意を口にした。
今のフェイトには目標がある。かつてのエリオやキャロのように笑えない子供達を引き取り、育てる孤児院を作ること。皆が笑っていられるような世界を作ること。
だが、それは今すぐではない。現状管理局を襲っている〝黒い影〟の問題もあるが、それだけではない。自分という存在のせいで、魔導師になってしまったエリオやキャロが、精神的にも社会的にも独り立ちするまで――フェイトは見守らねばならない。
それが二人を引き取った責任というものだ。
決意に満ちた表情。
それを見ながらも、シグナムは痛々しい表情で、呟く。
「それでも――エリオが立ち直るという保証はない。それでいいのか? お前は……」
「大丈夫だよ」
フェイトは言った。それは確信の言葉。
信頼でも予測でもなく――確実にそうなるという現実だった。
何故ならば――視線の先に。
「――大丈夫。エリオは、一人じゃないから」
――エリオを追いかける、その小さな背中があるのだから。
◇
新暦81年 四月三十一日 ミッドチルダ 中央区画 湾岸地区 対〝黒い影〟部隊機動六課隊舎
こつこつ、と音を立てながら歩くのは、高町なのはだ。
少しだけ陰鬱気に、俯きがちに歩いていた。
リンに言われたことが心の中で渦を巻く。どうしても、それが気になって仕方なかった。
その時。
「ちょっと待って下さい、なのはさん」
それを追うようにして、後ろから声を掛けられた。
士郎だ。
なのはは振り向く。
少しだけ眉を下げながら。
「……どうしたの」
駆け足気味の足が止まる。ふぅと息を吐いて、士郎は言葉を紡ぐ。
「リンは、どうしたんですか? 急に部屋を出て行くなんて……もしかして俺なんかしましたか?」
どうにも、士郎にはそれが気になって仕方がなかった。
これから一緒に働くのだから。出来る限り仲良くしたい。いがみ合うのは勘弁だった。毎日一緒に顔合わせるのだから、なおさら。
それでなくても、遠坂凛と瓜二つの少女が、あんなにも辛そうにしている所なんて見たくない。
なのははふ、と笑い。
「大丈夫だよ。士郎君は何もしてない。きっと――あれはリン本人の問題だから」
そう言った。
しかし、と思う。なのはは俯く。
――本人の問題? 嫌だなぁ。私、もしかして逃げてる?
〝本人の問題〟という枠にはめ込み、考えることを放棄している。本来ならば、相談に乗ってあげるべきなのだ。少なくとも何か安心させるような言葉をかけてあげるべきだ。それが部隊長として当然やるべきこと。
しかし、今のなのはにはソレが出来ない。あのリンの一言が、どろりという感触を胸にもたらしている。まるで呪いだ。
――――皆が皆、貴女のように強いって思わないで――――
「……なのは、さん? どうかしましたか?」
士郎にそう尋ねられ、なのははやっと我に返る。
「え、ああ。ごめんね、何でもないよ。ちょっと考え事」
そう言って笑う。どこかぎこちない笑みだった。
と、そこでなのはは気付いた。言おう言おうとしていたことだったが、出会ってからここ半月、まともに会う機会もなく、ずっと言い逃していた。
「士郎君、ずっと言おうと思っていたのだけど――あまり無茶はしないでね。情報をくれたことには感謝するけど、でも君は魔導師じゃない。戦うのは私達の役目なんだから……この前みたいに無茶をするのは止めて。君、危なっかしくて見ていられないよ」
サーヴァント、セイバーがミッドを襲撃したあの時、士郎は〝待っていろ〟と言われたのにも関わらず、戦場に飛び出し、大怪我をした。
幸い命に別状はなく、しかし、今でも包帯は取れていない。
それでなくとも、初めて会ったとき、なのはを庇ってランサーの槍を腹に受けたのだ。その傷もまた完治していない。
こんなことを繰り返せば、いつか必ず命を落とす。なのはには、そんなこと認められるはずはない。
これは間違いなく正論であり、普通ならば従うべき言葉。
しかし。
「――すみません。でも、その言葉は聞けません。戦う力を持っていないんだから、なおさら無茶でもしないと、誰かを助けるなんて出来ないでしょう?」
士郎は、いつもと同じように笑いながら、それを否定した。
「――」
なのははその言葉に目を見開く。
今、士郎は当たり前のように、こう言ったのだ。
――自分の命よりも、他人の命の方が大事だと。それが当たり前のことだと。
破綻した常識。士郎は、笑いながら、それを口にする。
歯車が噛み合った気がした。
何故あの時なのはを庇ってサーヴァントの一撃を受けたのか。ランサーがどれだけ強大で、生身の人間が対峙したらどうなるか、この少年が一番理解しているはずだ。なのに、そんなこと露とも気にせず、なのはを庇い、そして致命傷に近い傷を負った。
何故対抗すべき力もないのに戦場に出て、スバルを止め、シグナムを庇ったのか。
それらが、全て、一つの線に繋がった。
恐らく、この少年は。
――前提として、〝他人を救うこと〟が何よりも高く設定されているのだ。他人を守るために、自らの命を度外視している。なんて壊れた生命倫理――
危なっかしいというレベルではない。この少年はいつか必ず――命を落とす。理不尽に。戦場で。誰かを守りながら。
身の内側から、何かよく分からない激情がこみ上げてくるのを、なのはは感じた。
「……そんなこと許せるはずがないでしょう。君は魔導師じゃないんだよ? 前の世界ではどうだったか知らないけど、ここでは何の力も持っていない一般人に過ぎない。六課に入ったのもアドバイザーとして。仕事はそれだけ。前線に出ることなんて許可出来ない」
その言葉に、む、とした表情で士郎は返す。
「それじゃ契約違反だ。俺はサーヴァントについての情報をあなた方に渡す。その代わり、俺を戦場に連れて行く。それが取引の内容だったはずです。今更それを覆すつもりですか?」
「戦場に連れて行くことと、前線に連れて行くことは同義じゃない。何の力を持っていない民間人を前線に連れて行くほど、管理局は甘くないよ。いや、そんなこと私が許さない。――ただの足手まといになるからね」
「足手まといなら、俺のことはほっといてくれてもいい。ただ、前線に連れて行ってくれればそれでいい。俺は、この世界で何が起きているのか、見極めなきゃいけないから」
――それにセイバーやアーチャーのことも、放っておけない。二人とも、こんな無差別に世界を荒らすようなことはしないはずなのだから。
二人の間に、緊迫した空気が流れる。互いの譲れないもののために、なのはと士郎は此処に対立する。
ふぅ、となのはは溜息を付き、そして士郎を睨む。
「……別に関係ないじゃない。士郎君は確かに他の世界から来て、そしてサーヴァントも同じ世界から来た。だからといって、全部士郎君が責任を負うことない。私達の世界のことは私達が何とかする。情報を教えてくれるだけで十分なの。そこから先は私達の役目。無理して戦場に出ることなんてない」
それは紛れもなく正論だった。分相応という言葉がある。今の士郎には、それが足りていない。力もないのに戦場に出る。――そんなの、ただの自殺願望に他ならない。
それでも士郎は頷かない。頷けない。
「それはそちら側の事情だ。責任とか役目とかそんなんじゃないんだ。俺は……ただやりたいから、誰かを救いたいから。それだけなんだ。それが俺なんだ。それを止めたら俺が俺でなくなる。だから――俺はなのはさんの言うことは聞けない。頼む、分かってくれよ。なのはさん……」
赤い光景。黒い太陽。助けて、と呼ぶ声を踏みつけてここまで来た。だから――それを揺るがすことなど、誰にも出来ない。させてはならない。
士郎はそのために未来の自分をも否定したのだ。やり直しを否定し、理想を追い続けると誓ったのだ。
戦場に立って、一人でも救えたならそれでいい。衛宮士郎に在るのは、それだけだ。
――この想いは間違いなんかじゃないんだから。
「どうして」
壊れた論理。衛宮士郎は誰にも理解されず、ただ剣の丘で鉄を打つ。
故になのはは問うた。その存在意義を。何故、と。疑問の声を、穿つように。
「――どうして、君はそこまでして、戦おうとするの?」
〝どうして――君は、そこまでして人を救おうとするの?〟
いつか誰かに、似たようなことを言われた。だから士郎は口にする。あの時と同じ言葉を。宣誓のように。
「俺が――正義の味方だからだ」
ひく、と息が止まる音がした。
「そ、んなこと」
なのはが肩を抱き、震えていた。
――止まらない。この少年は、自分の言葉なんかじゃ止まらない。
それが恐ろしかった。その事が何より恐ろしいと感じてしまった。
駄目だ。死なせてしまう。きっとそれは私の目の前で、それは私の責任で――
でも、この子は止まらない。私では……止められない。
恐ろしい。恐ろしい。
自分以外の誰かが、知っている誰かが、死んでしまうこと。そのことが、どうしようもなく恐ろしい――
その恐れ。それを士郎は感じた。感じてしまった。
今まで誰一人として感じ取れなかった、高町なのはの、その闇を。
故に士郎は問う。その存在意義を。何故、と。疑問の声を、穿つように。
「――なのはさんは、どうしてそこまで――人を死なせたくないのですか」
士郎にしてみれば、それこそが異常だった。士郎だからこそ感じ取れた異常だった。
〝人を助けなければならない〟ことと、〝人を死なせたくない〟ことは同質ではあるが同義ではない。
高町なのはという人間は、過剰なまでに〝人を死なせない〟ことに執着する。教導の基本方針も、それが根底にある。誰もそれを疑問に思ったことはない。客観的に見れば、それはエースの思考で、紛れもない英雄の考え方で、そして高町なのはは不屈のエースだった。
しかし、ここに来て、それが浮き彫りになった。相対するのが士郎だからこそ発生した現象だ。
普通に考えるなら、士郎のことなど放っておけばいい。戦場に立ちたいというのならば、そうしてやればいい。情報を引き出すだけ引き出して、後はポイ捨て。それで十分。そしてそれこそが士郎の狙いでもあった。
取引を受けた八神はやても、そう考えた。例えそれがどんなに非情でも、やはり部隊長として、そう判断を下さざるを得ない。綺麗事だけでは部隊は回せない。
だが、なのははそれが容認できなかった。だからこそ、士郎となのはは対立した。
その想い。根底にある、存在概念。
なのは自身も気付いていないその闇に、衛宮士郎は気付いたのだ。
――人を救う正義の味方。なのはは限りなくソレに近い存在だが、同時に。限りなく遠い存在だと。
「私……私は――」
言葉が出てこない。明確な形として、自身の想いを口に出来ない。
ずっと人を助けるべく、なのはは動いてきた。しかし、それは何故なのか。自分でも分かっていなかった。
ただ助けなければ、と。殺したくないから、と。
それだけを思い、管理局で我武者羅に働いてきた。だが、それは、一体――何のために。
「責めるようなことを言ってすみません。でも」
――アナタに、俺を否定することは出来ない。
士郎はなのはを置いていくように歩き出す。擦れ違う二人。それはまるで二人の立ち位置を現しているようだった。
正義の味方になりたいと思って。しかしそれは未来の自分と出会い、戦い、否定され、それでも間違いじゃないと知った士郎。そして未だ何をしたいのかが明確に分からないなのは。その差異は絶対的で、両者の間に覆せない何かをもたらす。
擦れ違う一瞬、なのはは震えながら。
「――ただ人の役に立ちたいから、じゃ駄目なのかな……」
自身の闇を覆い隠すように、そう呟いた。
「それに答えるのは、答えられるのは、俺じゃない」
士郎は振り返らず、言った。言いながら、何故か。
〝大切な何かと共に自分を切り捨てる。そんな強さに意味はない。歪んだ強さはいつか必ず破綻する――〟
いつか切嗣が言っていたことを、思い出した。
歩みは止まらず。去っていく士郎。それを追いながら、なのはは思う。
……最近考えることが多すぎる、と。
ふぅ、と肩を抱きながら、溜息を付く。恐怖を吐き出すように。
〝――――皆が皆、貴女のように強いって思わないで!!〟
〝――なのはさんは、どうしてそこまで――人を死なせたくないのですか〟
全く何だというのだろう。あの衛宮士郎という少年に出会ってから、何だか調子がおかしい。
今まで何の問題もなくやってこれたのに、どうしてこんなにも揺さぶられるのだろう。
ああ――全く。
「……壊れちゃいそうだよ。
ああ、誰か――――」
――――助けて。
しかしその言葉は何処にも届かず。そして縋ることの出来る相手がいないことに、なのはは気付かない。それが正しいことか、間違いなのか。それすらも気付かずに、肩を抱き、震える。
残されたのは沈黙。
そして。
「……士郎君、なのはさん――」
影で二人を見ていた、スバル・ナカジマの姿が一つ。
二つ、分かったことがある。
士郎は強い。魔法は使えないけど、それでもその精神は誰よりも強固だ。その事がさっきの話でよく分かった。
そして――なのはも人間なんだということも、また。
……ずっとずっと英雄だと思ってた。手の届かない所にいると。不屈のエースオブエースだと。だけど、その中身はただの女性なんだ。なのはさんも悩み、苦しみ、動かせないモノも、確かに存在しているんだ。それは当たり前のことで、でも今まで気付かなかったのは、きっと自分がなのはさんのことを半ば神聖視していたからに違いない。
なのはさんは間違えない。なのはさんはいつも正しい。
でも現実では、決してそんなことは有り得ない。万能な人間なんていないのだから。
――ああ。なのはさんも、ただの、人間なんだ。
スバルは何だか無性に、星空を見上げたいと。
そう、思った。
◇
新暦81年 四月三十一日 ミッドチルダ 中央区画 湾岸地区 対〝黒い影〟部隊機動六課隊舎
夜。衛宮士郎が、六課の主要メンバーと出会い、なのはと口論した、そんな一日の終わり。
結局リンが部屋を飛び出した理由も分からず、なのはとは仲違いをしてしまった。
「はぁ、こんなことでやっていけるのかな。俺」
とりあえずは皆いい人そうで良かった。何とかやっていけそうではあるが、それでも不安は山積みだ。ここに来て一番仲良くなったのが、まだ小さいヴィヴィオ、というのはどういう了見なのか。いや、別にそれが悪いこととは思わないが。
そんなことを思いながら、士郎は空を見上げる。
中庭。六課隊舎の屋上で、一人、芝生の上に寝転がっていた。
無論、部屋は用意されている。しかも結構上等な。こちらが申し訳なくなるくらいだ。
でも士郎は今、無性に月が見たかった。
「……凛。今頃、何しているのかな」
そんなことを思いながら、月を見る。凛や藤ねぇ、桜も同じ月を見ているのだろうか、とも。
――いつ帰れるんだろう。
そう呟き、少しだけ泣きそうになる。その懐かしさに、胸が締め付けられそうになって。
「でも、その前にやらなきゃいけないことがある。俺は……正義の味方だから」
セイバーを、アーチャーを、サーヴァントを、止めなければならない。この世界で何が起こっているのか、それをきちんと見極めたい。
士郎は、月を見上げながら、決意を新たにする。
そうして部屋に戻ろうと立ち上がった時――
「おや……先客かな?」
――ひょこ、とユーノ・スクライアが煙草片手に現れた。
◇
「……そっか。君が士郎君かぁ。うん、話はなのはから聞いてるよ」
紫煙を燻らせながら、ユーノはそう言った。
月を見上げながら一服するのが趣味なんだ、と苦笑する。
ユーノ・スクライア。巨大データベース『無限書庫』司書長であり、ミッドチルダ考古学士会所属の学士でもある。今回の〝黒い影〟事件に対する機動六課の設立に際し、声を掛けられた人間の一人。
「アドバイザー、という点では、士郎君と同じだね。ただ全くの異世界のことだから、あんまり僕の知識は役に立たなそうだけど」
と、先ほど士郎は聞いた。それが謙遜であることは、士郎以外の六課メンバーは知っている。その柔軟な発想により、〝黒い影〟の構造把握、そして打開策を打ち立てたのは、誰あろう、このユーノなのだから。
なのはやフェイト、はやての十年来の幼なじみと聞いたときは流石に驚いた。そして現在、なのは、ヴィヴィオと暮らしているということにも。
「……恋人、なんですか。なのはさんと」
無粋かと思ったが、それでも士郎は尋ねた。ユーノはどこか人懐こい笑顔で、それに答える。
「どうだろうね。多分、そうなんだろうと思うけど……少し自信無いな」
「――え」
それはどういうことなのだろう、と思い、尋ねようとしたとき、士郎の隣に座っていたユーノは立ち上がった。
煙草を一息吸い、そして吐き出す。
「僕はなのはのことが好きだし、きっとなのはも――僕のことが嫌いじゃないと思う。でもね、時々分からなくなる。僕たちは、何で共にいるのだろうと」
思えば不可思議な関係だった。なのは、ユーノ、ヴィヴィオの三人の関係は。
母、父、娘。そう定義づけるにはあまりに複雑すぎる。
「……なのはは強い。僕なんかが支える必要もないくらいにね。若手トップ、航空部隊のエースオブエース……なのに、僕は、どうしようもなく弱い。こんなにも」
だから、一緒にいていいのかと、迷ってしまう。
そう最後に付け足しながら、ユーノは遠くを見た。
士郎も同じ風に、遠い空を見る。夜風が吹き上げ、二人の髪がなびいた。
「それは違いますよ、ユーノさん」
「え……」
ユーノは振り向く。そこに映るのは、叶わぬ何かを見つめ続ける瞳だった。
「――なのはさんも変わらないですよ。話してみて、よく分かりました。彼女は、俺のこと危なっかしいって。そう言ったんです。でも、それはなのはさんも同じだ。似ているんです、彼女は――俺の親父に」
士郎に映る風景は、あの時の光景だ。
切嗣が珍しく酒に酔い、そして自分のことを話した、唯一の光景。
「なのはさんは自分を切り捨てて、他人を救おうとしている。誰かも死なせまいと必死に抗っている。多分、あの人はほとんど弱音を吐いたことがないんじゃないかな」
〝大切な何かと共に自分を切り捨てる。そんな強さに意味はない。歪んだ強さはいつか必ず破綻する。機械は夢を見ない。ああ、僕は――〟
きっとそれが自分との一番の違い。〝自分〟というものが初めから無い衛宮士郎と、〝自分〟というものを切り捨てている高町なのは。弱音がそもそも発生し得ない衛宮士郎と、弱音を吐かないように偽装している高町なのは。虚無――瓦解するモノがそもそも存在しない衛宮士郎と、脆弱――瓦解するしかないモノしか存在しない高町なのは。それは似ているようで――何もかもが違う。
「でもそれは強さじゃない。歪んでいるんだ。――歪んだ強さはきっと……壊れてしまう」
切嗣は、あの時確かにそう言った。
子供の自分はその事がよく分からなかったけど。凛に会うまで、アーチャーと闘うまで、きっと気付かなかっただろうけど。
だけど――今はよく分かる。
誰よりも近くで切嗣を見ていたから。
そうだ。
あの笑顔。なのはの、静かな乾いたような笑顔。あれは――切嗣のソレに、そっくりだ。
だから分かる。その先のことを。その終焉を。
〝ああ――安心した〟
切嗣には寄り添うべき何かがあった。それは自分であり、藤ねぇであり、藤村の爺さんであり――かつての誰かなのだろう。
もしそれが無いのだとしたら。寄り添う何かも、誰かも無く。己の正義を突き進んだ先に待ち受けるのは……きっとあの赤い背中。誰にも理解されず、ただ一人剣の丘で倒れた、あの男。
「君は――本当に成人していないのかい? その達観ぶり、僕よりも年上に感じるよ」
携帯灰皿に煙草を押し付けながら、ユーノは苦笑した。
士郎も肩を竦めて、苦笑いする。
「どうなんでしょうね。……色々ありましたから」
「でも……きっと、君の言うとおりだ」
言いながら、ユーノは二本目の煙草に火を付ける。紫煙が夜風に流れ、月が雲に隠れる。
「五年――か。僕も、覚悟を決める時かも知れない。そうだ――僕は」
ふぅ――と一つ、長く煙を吐く。
そして。
「僕は、なのはを支え続けたい。だから――」
その決意を口にした。
士郎は静かにソレを聞く。何も言わない。他人の決意に口を出せるような人間ではない。
雲が流れ、月明かりが二人を照らし出す。
穏やかな風が流れる。二人の間を月光と夜風が吹き抜ける。視線は遠く。何か、届かない幻想を見ているようだった。
「煙草」
「?」
士郎は遠くを見ながら言う。ユーノは首を傾げながら、それを見る。
「止めた方がいいですよ。――体に、悪いですから」
似たようなことを、親父にも言ったな。そんなことを、士郎は思った。
ユーノは目を丸くして。
「ああ――本当に、君には叶わないな」
笑いながら、灰皿に煙草を押しつける。
そして、くしゃりと。煙草のソフトパッケージを握り潰した。
月が綺麗な、夜だった。
◇
新暦81年 五月三日 ミッドチルダ 北部 聖王教会
こつこつと聖王教会の廊下を歩くのは高町なのはだ。
最近悩むことが多すぎて、寝不足の痕が、目の下に隈として出来ている。
とはいえ、仕事が疎かになっては局員としては失格だ。体調管理も仕事の内。いつも教導の時そう教えている。なのに肝心の教導官が、寝不足でふらふらだったら笑い話にもならない。
だけど、どうしても――溜息は出てしまう。
「はぁ。カリムさんもシスターシャッハも居なかったし、本当最近休める時間がないなぁ」
ここに来ているのは、六課承認における書類手続き。はやての代わりだった。
六課正式設立の雑事で、はやてやヴォルケンリッターは大忙し。そんなわけで丁度手の空いている自分が、聖王教会まで来たのだが。
生憎、目的の二人は本部に出払っていて留守とのことだった。踏んだり蹴ったりである。
二人と話せば、少しは気が楽になると思ったのだけれども。
はぁ、と今日何回目か分からない溜息を付いた。
――気分転換に中庭でも行こうか。
そう思い立ち、なのははその足を中庭へと向ける。
中世の城のような廊下を抜け、視界に一杯の花園が映った。
色鮮やかな花。茂る緑。突き抜けるように晴れた青い空。
「うん。気分転換には丁度良いか」
幸い時間は少しある。ここで昼食を取るのも良いかも――
そんなことを思いながら中庭を歩く。
いつ来てもここは手入れが届いている。カリムが余程大事にしていることがよく分かった。
と、そこでなのはは気付いた。
視線の先に、花を見つめ続けている人がいるのを。
――先客がいたのか。
邪魔したかな、となのはは思う。
立ち去ろうかどうしようか悩んでいる間に、自分に気付いたのか、その人物は立ち上がった。ゆっくりと振り向く。
「花を、見に来たのですか」
静かな声だった。その声はあまりに周囲に溶け込んでいて、一瞬、その言葉が自分に向けられていることに、なのはは気付かなかった。
「え、ええ。此処の花は綺麗ですからね。気分転換に、ちょっと」
――何だ。この感覚は。
何もかもを見抜かれるような視線。別に変わったことは一つもないのに、どうしてかその視線は、なのはの胸に黒々としたものをもたらした。
見たこと無い顔だった。服装こそ聖王教会のものだが、結構な頻度で出入りしているなのはにも、その顔は記憶にない。
その事に気付いたのか、相手は笑った。
「ああ――私は最近ここに厄介になっている者です。まぁ、居候みたいなものですね」
「はぁ。道理で見たこと無い顔だと……」
普通のやり取り。普通の会話。
だが、何故かなのはの心はざわついた。
――此処にいてはいけない。
そんな警告じみたざわつきだった。
「……高町なのはさん、ですね。貴女のことはカリムさんから、聞いてます。何でも、管理局の英雄だとか」
突然名前を呼ばれ驚くが、しかしすぐに元の表情に戻る。
初見の人に名前を呼ばれたことは一度や二度じゃない。
「――それは過大評価ですよ。私は、そんな強い人間じゃない」
リンに言われたこと。士郎に言い返せなかったこと。
頭の中でそれが過ぎり、なのはは自嘲するように言った。
「……ほう」
その言葉をどう取ったのか、その人物はニヤリと。
「何か悩みがあるようですね。聞かせてくれませんか。これでも私は――人の相談に乗るのは、得意なんですよ」
ちぐはぐな笑顔で、そんなことを言った。
なのはは、気付かない。
――その違和感こそが、最大の警告なのだと。
→EP:7
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