......Prelude of Pandra's song
Episode.2<
Side:月姫>

 

 自らが、かつて歩いてきた道とこれから歩いていく道。
 『かつて』と『これから』、その軌跡のことを運命と呼ぶならば。
 ――この奇跡(であい)も、始めから定められていたのだろうか。

 「ねぇ志貴、運命って信じてる?」

 そう問いかけられた時、俺はなんて答えただろう。
 ああ、そうだ。
 俺は――

  * * *

 輝く月光の下、その舞台は在った。
 静謐にして壮大、荘厳にして美麗という、ありがちな演劇(ドラマ)の舞台。
 その風景には最早、日常感など微塵も感じられない。。
 コインの表と裏。日常と非日常。境界線は溶け、日常(おもて)非日常(うら)は互いに喰らい合う。
 かつての暖かな日々は遠く、遠く。まるで彼方にある星のよう。
 胸に宿るは悔恨。引き返せる時間は、とうに過ぎ。
 あの日の風景が罪科のようにフラッシュバックする。
 ――俺は涙を流しながら、彼女を殺した。

 パンドラの唄〜前奏曲 第2話

 「風景残滓」


 かつん、と硬い音を立てながら、シオン・エルトナム・アトラシアは廊下を歩いていた。
 眼鏡をかけて白衣に包んだその姿は、正に研究者という風貌だ
 ここはエジプト、魔術協会――通称「巨人の穴倉」。シオンの古巣、ともいえる。
 ここでシオンはある研究――吸血鬼化における治療――をしていた。
 三年前の通称「ワラキアの夜事件」以来、彼女はその研究を続けている。だがその成果は、いまいち芳しくないものだった。
 「…何とか吸血鬼化の進行を抑える薬は開発したのですが……。まだまだ完成には遠いな」
 思わず愚痴を漏らす。三年もの研究の結果がこれでは完成するのはいつになるだろうか。
 (けど、諦めるわけにはいかない……!)
 シオンは密かな闘志を燃やす。友人たちのためにもこの研究は続けなければいけない。そう決意したとき、ふと思い立つ。
 (そういえば、ここしばらく彼らの顔を見てませんね)
 確か最後に会ったのがエジプト旅行の時だから、かれこれ二年は会ってないのか、とシオンは思考を巡らす。
 (……息抜きに日本旅行もよいかな。ほら何事にも休養は必要ですし)
 何だかそのアイデアは至極魅力的に思えた。
 色々と論理的に思考した結果――まぁ、言い訳ともいうが――その、日本に遊びに行くという答えに行き着くのにさして時間はかからなかった。
 (まずは航空便のチェック、さてどのルートが一番効率良いのか――)
 シオンにとって、こういう何でもない事柄でも論理的に思考、計算してしまうのは体に染み付いた習慣の一つ、癖のようなものだった。
 まぁ要するにけち臭いだけなのだが。もちろんそんなこといったら逆鱗に触れると同時に、その事実を否定することは確実だ。
 諸々、そんなことを計算していた矢先、突如慌しい声が後ろから聞こえた。
 「せんぱい、せんぱ〜い!手紙がとどっ――――あぶっ!!」
 ――聞こえてきた駆け足の音が、盛大に廊下に転ぶ音に変わるにはさして時間はかからなかった。
 シオンはそんな後輩の姿を見て、思わず苦笑する。
 「クリス……どうしてあなたは障害物も無い廊下で、そうも派手に転倒することが出来るのです……」
 クリスと呼ばれたシオンと同じ白衣を着た若い女性は、痛そうに鼻頭を擦りながら立ち上がる。
 栗色の髪の丸っこい少女は、まるで小動物を連想させられた。
 「いやそれは永遠の命題というか私に課せられた宿命というか。まぁ、それはともかく先輩にエアメールが届いてますよ」
 そう言うなりクリスは懐から一枚の葉書を差し出した。差出人の欄には『遠野』と書かれている。
 「あら、丁度いいタイミングですね」
 先ほど彼らのところに行こうと考えたばかりだ。そのタイミングの妙にシオンは思わず感嘆を漏らす。
 「――?」
 そんなことを露も知らないクリスは疑問符を頭の上に浮かべる。
 「あ、いえ。何でもないです。ただちょっと先ほどこの差出人のことを――」
 言いながら葉書を内容を確かめるため引っくり返す。
 「――――」

 刹那、呼吸も思考も全て停止した。

 「……先輩?急に固まってどうしたんですか?」
 彼女はこのアトラス寺院における主席という実力ある錬金術師である。その錬金術師の命ともいえる思考を停止させるのは只事ではない。
 思わず葉書を覗き込む。
 眼鏡をかけた温和そうな黒髪の男性と超をつけても良いぐらいな美貌の快活そうな金髪の女性が、どこかの屋敷の前で仲良く笑って二人で写っている。
 そして一言。

 私たち、結婚します

 ――遠野志貴とアルクェイド・ブリュンスタッド、二人の結婚式の招待状だった。

 「――――私は、ぜっっっったいに、反対です!!」
 だんっとテーブルを叩く我が妹こと遠野秋葉は、まるで鬼神のごとき表情で、俺に迫る。
 「秋葉さまー、あんまり怒りすぎると血圧上がっちゃいますよー。抑えて抑えて」
 と秋葉の隣で控えていた琥珀さんが、宥めにかかる。ナイスだ、琥珀さん。
 「これが抑えてられますかっ!! いいですか兄さん、由緒ある一族たる遠野の長男が、吸血鬼との結婚(・・・・・・・)だなんて本気で思っているのですか!?」
 だがしかし、その行動も今の秋葉には火に油だった。ああ、敵は難攻不落。壁は高く、厚い。
 「翡翠も! 兄さんを説得して!! 兄さんの侍女だからといって、気にしなくとも良いのですよ!?」
 俺の後ろで待機している翡翠に振る秋葉。
 だがその返答は。
 「志貴様が悩んで、お決めになったことです。だから私は志貴様に仕える身として、そのご意思に従います」
 ――メイドの鏡とも言える、何とも主人思いのものだった。
 きっぱりと俺に従うという翡翠のその想いは、とても嬉しいものだ。
 だが、その態度をもってしても、秋葉の怒りは収まらないようだ。
 「――っ! とにかく、結婚なんて、遠野家当主である、この私が許しません!! 兄さんはまだ大学の卒業試験が残っているでしょう! 変なことを考えてないで勉学に励んでください!!」
 遠野家当主、という普段は使わない肩書きを持ってくるあたり、秋葉は本気なのだろう。
 侍女の二人が肩をすくめる。
 良かった、彼女たちにはわかってくれた。
 だから後は、秋葉を説得するだけだ。……いや、まぁこの展開は十二分に予測できたのだが。
 「秋葉、悪いけど俺は本気だ。遠野家の長男だとか、そんな肩書きは関係ない。
 ――俺は、遠野志貴は、アルクェイド・ブリュンスタッドと結婚する。もう決めたことだ」
 きっぱりと秋葉の両目を見据えて言う。
 考えに考え抜いた結論だ。曲げる気は、無い。
 「……どうして、兄さんは、そう自分勝手なのですか……。人の気持ちなど、知りもしないで――――」
 秋葉が俯いたまま、肩を震わせ、言葉を紡ぐ。
 ――泣いている。俺が、泣かせた。
 その姿に罪悪感を覚え、心が痛んだ。
 だがこれは避けては通れないことだ。だから、しっかりと言い放つ。
 「――お前の気持ちは知っていた。それでも俺はアイツと結婚する。
 俺は、何よりアルクェイド・ブリュンスタッドを愛してるから。誰より、何より、幸せにしたいから」
 それは決定的な、別離の言葉。
 遠野志貴の、嘘偽りのない本心からの言葉。
 「――――っ」
 「秋葉さまっ」
 それからは早かった。
 どんっと音をさせて、琥珀さんを押しのけ、秋葉は部屋を出て行った。
 その顔に刻まれた表情は、もちろん、涙。
 「あき――」
 それを追おうと立ち上がる。が、それは更に早く行動していた琥珀さんに止められた。
 「秋葉さまのことは、私に任せてください」
 彼女はいつもの笑顔で、そう言って、秋葉を追って駆けていった。
 「……傷つけちまったかな。俺、不器用だから他に言い方、わからなかった」
 少し、後悔する。
 俺は決していい兄貴じゃなかった。
 何年も何年も彼女を待たせた挙句、出した結論がコレだ。恨まれても仕方が無いかもしれない。
 「いえ、志貴様は悪くありません。ただ、受け入れるのに時間がかかる、ということだけです」
 そんな俺を見かねたのか、翡翠が励ましの声をかけてくれた。
 「ありがと。……翡翠は、あんまり驚かないんだな」
 「はい。十分に、予測がついたことですから。先ほど申した通り、私は志貴様に仕える者として、ご意思に従います」
 「――サンキュな。俺、翡翠がメイドで本当助かったよ」
 翡翠には何度も助けられた。
 その恩は、簡単には返せないものだ。
 「思えば俺は至らないご主人様だったな。色々迷惑かけたな、翡翠」
 俺がそう言うと、翡翠は極上の笑顔で。
 「いえ、私も志貴様がご主人様で、良かったです。
 ――ご結婚、おめでとうございます」
 なんて、本当に嬉しいことを言ってきた。
 そんな一言で、俺はやっと、結婚の実感をかみ締めることが出来た。

 ……次の日、琥珀さんと共に秋葉は、泣きはらした目で、おめでとうございます≠ニたった一言だけ告げた。

 月光の下、一面に広がる花畑。
 その中で舞う彼女は、まるで御伽噺に出てくる花の妖精だった。
 ――我ながら陳腐な表現だな、と多少の自己嫌悪。
 「志貴ーーーー!この時代にもこんなところがあったのねーーー!!」
 子供のようにはしゃぐアルクェイドを追うように、俺は歩き出した。
 「やっぱりお前の時代には、多かったのか? こういう場所」
 何気なく尋ねる。コンクリートなんてものはない、世界が世界として美しかった頃。
 そんな世界で舞い踊る彼女を俺は幻視した。
 「うん。そうね、確かに今よりは多かったわ」
 と、少し物憂げな顔で答えた。
 「……やっぱり、俺達のことは許せないか。世界は」
 人類の発展に世界への蹂躙は付き物だ。
 ――そのことについて世界の触覚(かのじょ)はどう思っているのだろうか?
 「うん? 許せるも何も別にどうでも良いわよ。むしろ私は人間のこと好きだよ」
 いつもの笑顔でアルクェイドはそう言った。
 俺は思わず苦笑する。
 「お前は真祖なんだろう? いいのかよそんなお気楽で。人間がこの星を滅ぼしても良いのか?」
 「んー、真祖自体は人間を諌めるためにツクリだされたから、人間を悪として見てないけど、私はちょっと違うしね。
 ――いい?志貴。この星の生命体がこの星そのものを破壊したとしても、ソレは別に『イイコト』なんだからね。世界(ほし)には意思があるけど、意味は無いから」
 意思は在るが、意味は無い。
 要するに、この星は自らの死を何とも思っていないのか。
 人類が環境保護だとか騒いでいるのに、当の本人は呑気なものだと少し呆れた。
 いや、世界環境がどうとかっていうのは、つまり、それが人類(ほんにん)を脅かすからだ。
 どうやら、進化した俺たちは、ようやくそのことについて頭が回る余裕が出来たらしい。
 「じゃあ、どうしてさっきは、あんな顔をしていたんだ?」
 先ほどの疑問を口にする。どうやら俺の予想は見当はずれだったようだ。
 「そんなに難しいことじゃないよ。……ただ、次も一緒にここに来ることができるかな、と思っただけ」
 悲しい笑顔でアルクェイドは、そう呟いた。
 「――何言ってるんだ。そんなこと出来るに決まってんだろ?」
 なるべく強がって答えを返す。
 それを精一杯の強がりだとわかる笑顔で。
 「うん。わかってる」
 月を見ながら、嘘の肯定をした。
 ――アルクェイドの吸血衝動は、もう限界に近づきつつある。いや、臨界といったほうが正しいか。
 既に日中での行動は不可能で、その夜における行動も制限がかかっている有様だ。
 一刻の猶予もない。
 シオンの研究も、完成には、まだ時間がかかるだろう。
 だけど俺に出来ることなんて何も無い。ただ『殺す』ことに特化した俺では『活かす』方法なんて判るわけが無い。
 無力な自分に殺意すら覚える。俺は一体どうしたら、アルクェイドを救えるんだ――――
 
 「ねぇ志貴、運命って信じる?」

 唐突にアルクェイドは聞いてきた。
 いつものような、明るい微笑みで。
 「そうだな。俺は、信じない。未来っていうのは、自分の手で掴んでいくものだろう?」
 使い回された言い方だが、俺は本心からそう思っていた。――そう、願っていた。
 何者かによって定められた理不尽なレール。それが運命だ。
 ああ、そんなものを許容できるはずが無い。
 それを許容することは、どう足掻いても最悪の結果(うんめい)から逃れることができないという彼女との未来を肯定してしまうことになるのだから。
 「私は信じるよ」
 「え、――」
 きっぱりと彼女は言った。
 それでも構わないと。おくびもなく答えた。
 「だって、運命って最初から全て用意されてるものでしょう?
 ――あなたとの出会いが最初から決まっていた、なんてロマンティックで素敵じゃない」
 歌うように彼女は言った。
 その言葉が、俺の胸を堪らなく穿つ。
 出会いと別れは表裏一体。
 この奇跡のような出会いが最初から定められているのなら――残酷のような別れも既に定められているのだから。
 「志貴。もし私に『そのとき』が来たなら――あなたが、殺して。私を殺した責任取ってもらうんだから」
 いつか聞いた言葉。
 もちろん返す答えは決まっていた。
 「ああ。そのときは、俺がお前を殺すよ」
 満月の下での誓い。
 彼女は満足げに頷いた。
 「アルクェイド、結婚しよう」
 ――そして、俺たちはもう一つ、誓いを立てた。

 結婚式は月明かりの教会で行われた。
 身内だけの、ささやかな結婚式。だけれども、とても賑やかな――暖かな、式だったと思う。
 仲人は有彦に任せた。何だかんだで一番長い付き合いだし。……腐れ縁とも言うが。
 そのスピーチにおいて、馴れ初めの話だとかその頃の恥ずかしい話だとかを暴露されて、思わず眼鏡を外したくなったのは言うまでも無いことか。
 ウェディングドレスを着込んだアルクェイドは、それはもう綺麗なものだった。
 結婚式という独特の雰囲気に緊張しているのか、いつもより淑やかだったというのも、それに拍車をかけた。
 まぁ、シエル先輩だとか秋葉あたりに会った途端、あっという間にいつもの調子に戻ったのだが。
 ……二人には感謝するべき、なんだろうな。うん、やりすぎな感には目を瞑って。
 教会の赤い絨毯を、手を繋いで歩いていく。
 ――それは、正に『普通(ニンゲン)』の儀式だった。
 神父が誓いの祝詞を読み上げる。
 永遠の繋がりを求める誓い。その確認。そんな月光の下での愛の宣誓。
 例え、俺たちに待っているのが、どうしようもない別離(ひげき)だとしても。
 俺たちは、どうしようもなく熱くて悲しい宣誓(キス)をした――――

 「アルクェイド、あなた本当はもう限界なんでしょう?」
 目の前のシエルが、唐突にそんなことを言ってきた。
 「なぁに? シエル、そんなことを言うために、こんな所に新婦を呼び出したわけ?」
 疑問を質問で返す。
 式の途中、突然シエルに教会の裏に私は呼び出された。もちろんウェディングドレスも着たままだ。
 全く、結婚式中に抜け出すなんて常識外れもいいところでは無いだろうか。
 ……そんな常識なんて、元々は持ち合わせてはいなかったのだけど。
 「アナタの吸血衝動は、とっくに限界のはずです。いえ、そんなものは、もう越えていますね。あなたは既に、いつ魔王に堕ちてもおかしくは無い」
 「……何を言ってるの? 私は見ての通り(・・・・・)、大丈夫に決まってるじゃない」
 「ええ、見ての通り(・・・・・)大丈夫では在りません。そんな――金色の目をして睨まれても(・・・・・・・・・・・・)説得力はありません」
 は、として気が付いた。
 ――鏡に映る、黄金の髪と黄金の瞳に。
 「――――っ!」
 ドクン、と体が蠕動する。
 衝動が血液のように体を駆け巡る。
 吸えと。蜜のように甘いドロドロとした甘美な液体を、その喉に流し込めと、本能が命令する。
 拙い。抑えなければ。私の全力を以って、この衝動を押さえ込む――――!
 だが、足りない。私の魔力回路、能力全てを使っても、完全に蓋を閉めることが出来ない。
 足りないなら、補えばいい。
 元々は要らない、だけど今は絶対的な必要な、ヒトとしての機能を削り落として、その分で補おう。
 目が霞む。意識が沈む。間接が硬くなって、まるで人形だ。
 だけど、ソレで私の中の衝動という名の情動は治まってくれた。
 「が、はぁはぁ、はぁは――ぁ」
 「……堕ちる寸前じゃないですか。流石に、ここまで酷いとは思いませんでした。――もう動くどころか、ヒトとして在るだけでも辛いんでしょう?」
 溜息をつくシエル。
 呆れているように見えるその奥――埋葬機関の代行者としての殺意が見え隠れする。
 「私を殺すつもり?」
 笑いながらも、私は警戒する。
 此処にいるのは腐っても埋葬機関第七位。『魔王』に堕ちようとしている真祖(わたし)を放っておく道理はない。
 だけど、今ここで私は死ぬわけにはいかない。
 ――式は、まだ終わっていないのだ。
 「……いえ。ここでアナタを、どうこうしようとは思いません。今の私では殺しきれませんし、仮にアナタをここで殺したとしても、彼≠ェそれを許さないでしょう。……遠野君を、敵には回したくありませんからね」
 ただ、とシエルは付け加えた。
 「アナタが今のまま、ヒトとして暮らすとするならば――その時は考えがあります。魔王となって人に害を成す前に、まだアナタがアナタとして存在できる内に討滅しなければいけない」
 魔王となった真祖は、吸血衝動という枷から外れる。
 そうなれば最後だ。
 魔王は、無差別に人の血を吸う。
 吸血衝動を抑制するために自らの能力を費やす事をしなくなったために非常に強大な力を持ち、人の力では滅ぼす事は不可能とまで言われたほど。
 ――そうなればもう終わりだ。
 魔王となった真祖は真祖が滅ぼすしか、その打開策は無い。
 だが、私は真祖狩りだ。
 堕ちた真祖を狩るための兵器。ゾンビ取りがゾンビになる、というわけである。
 ……私の後継となる新たな真祖狩りは、まだいない。
 つまり――――私が魔王に堕ちた場合、止める者は誰もいないということだ。
 だから、抑えられている今しか打開するチャンスは、存在しない。
 けど――――
 「私は、私で決着を着けるわ。……志貴のことを困らせるような真似は、したくないから」
 「その言葉、信じます」
 かつん、と音を立ててシエルは踵を返した。
 「――――アナタと話すのも、これで最後ね」
 さようなら、と一言添えてシエルは去った。
 「――――ふん。精々、生き苦しむことね、シエル」
 そう口にしたとき、口元が笑っていることに気がついた。

 「全く……式の途中でどこに行ったんだ、アルクェイドのやつ」
 突然、姿が見えなくなったアルクェイドを探すため、とりあえず俺は彼女の準備室に向かっていた。そこが彼女の休憩所も兼ねていたからである。
 式のプログラムも、まだ全部消化しきれていないのに。
 「どこ、ほっつき歩いてるんだ。結婚しても変わらないな、あの不良娘は」
 と悪態をつきながら、にやついている自分に気付く。
 何だかんだ言いながら、今のこの状況は堪らなく幸せなんだと実感する。
 ……後に残る問題は山積みだが、二人でなら、きっと何とかなる。
 今はそう、幸せを二人で噛み締めていこう――と思った。
 「――――?」
 かつかつ、と向かい側から歩いてくる女性が見えた。
 女性は俯きがちで表情は読み取りにくい。
 それよりも目に付くのは、鮮やかな赤いコートと漆黒の黒髪、そして――存在しない右腕の空洞。
 隻腕、だ。
 (参加者に、こんな人いたかな?)
 首を傾げながらも、気持ちはアルクェイドに向かっているので、そんなには気にならなかった。
 隻腕の女性とすれ違う。
 その時間は刹那。
 特に何も無い邂逅。
 でも何故か――不安が胸を過ぎった。
 不安が加速していく。
 心臓の脈動が速くなる。
 居ても立ってもいられず、俺は思わず駆け出した。
 (アルクェイド……!)
 まるで、もう二度とアルクェイドに会えないような、そんな気がして。

 志貴は気付かない。
 すれ違ったその女性の口元が、嘲笑のカタチに歪んでいた事を。
 ――その予感が、的中していることにも。

 駆ける。
 どうしようもない不安が胸を押し潰す。
 今日は、幸せな日なのに。
 生涯で一番幸せな日なのに。
 どうしてどうして、こんなにも、胸が軋むほど不安なのだ――――!

 バタンっ!

 勢い良く扉を開ける。
 「アルクェイド!!」
 不安で思わず大声で叫ぶ。それはまるで――縋るような声だった。
 だが、その思い描いた姿は、無かった。
 「……アルク、ェイド……?」
 ただ静寂のみが場を支配しており、いつもの賑やかな姫様はいなかった。
 ただ、静寂のみが――――
 
 そのとき、さようなら≠ニいう文字が視界に入った。

 化粧台の鏡に、一言。紅い口紅で一息に書かれていた。
 「ア、ルク、……ェイド……」
 悲しみ。いや、違う。形容しがたい気持ちが胸の中に渦巻く。
 何だ。何だコレは。俺は、俺たちは、この日が最も幸せな日になるはずだったのではないか。
 ――――ピシリ、と眼鏡に罅が入る。
 何故。どうしてこんなことを。俺は、これからお前を護ろう/殺そう、と誓ったのに。
 ――――眼鏡をかけている筈なのに、線が視えた。何本も何本も、『死』の線が。この世を縦横無尽に奔っている。
 俺の存在意義。満月の下での誓い。それらがグチャグチャに煮込んだシチューのように感情が渦巻いていく。
 ――――ビシビシ、と眼鏡に罅が入っていく。レンズがポロポロと砕けて堕ちていく。
 全ての感情が混ざり合い、心が黒に染まっていく。……景色が蜃気楼のように歪んでいる。
 ――――フレームごと、眼鏡が真っ二つに割れて、落ちた。
 ああ、世界は死に満ちている――――

 「アルクェイドぉぉぉおおおおオオオオオオオ!!」

 叫びは空間に響き、世界に残響し続けた。

 俺は思い知る。
 大切なものは、戻ってこなく。
 失われたモノは、自らの中での残滓しか、この世界には残らないものだと。
 風景は、思い出という残滓となりて、永遠に残響し続ける。

*  *  *

 ――――そんなことを思い出した。
 演劇のような光景。
 佇む満月。青白い月の光。ありきたりな物語。
 繰り広げられているのは、そんな幻想的な現実だった。
 目の前には彼女≠ェ笑って待っている。
 俺はナイフを握り締める。
 目を覆う包帯が無い今、世界のあちこちに『点』が見える。……それは彼女とて、例外ではない。
 本来なら見えないソレは――今は、まるで死徒の如く見えた。
 その『点』、どれでもいい。一つでも穿てば、彼女は絶命するだろう。
 ナイフを握り締める。心を凍結させる。
 残るのはあの日の約束、誓い。
 この手を振り下ろせば、彼女は死ぬだろう。
 だから俺は――

 彼女の口が微かに動く。

 ナイフを――

 ただ一言。

 振り下ろした。

 ――――「■■■■■」、と。




 アルクェイド・ブリュンスタッド 消滅――――。


 『風景残滓』 了

 

.......to be continued

next episode>>『剣戟音響』 Side: Fate

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