冷ややかな空気が、頬を撫でる。
 月下の下、厳かな光が辺りを照らしていた。
 ――ああ、まるで演劇の舞台のようだ。

 濁る世界。
 漂白される思考。
 洗い流される感覚。
 目は白濁。
 乳白色の果て、私は――今わの際というわけでもないのに、走馬灯を見た。

 ああ、なら、これは夢だろう。目を開けながら見る夢。視界と心が乖離していく。

 初めて会ったのは、いつだっただろうか。
 確か、私がアトラシアの名を冠する少し前だったか。確か、というのは今ひとつ記憶に自信が無いからだ。
 何故なら、その頃は人に忌避され、蔑まれ、そして自らも他人という種に無関心だった頃だったから。他人という、自らの研究と誇りに何ら関りの無いモノを覚えておくほど無駄なことは無い、と思っていた頃。
 不器用=B
 最初に抱いたイメージは、多分そんなところ。
 彼女は魔術の構築式どころか簡単な薬品の調合すら間違える様だ。挙句の果てに障害物も何も無い平地で転ぶ始末。その印象は今でも変わっていない。
 ということは、つまり第一印象もそう変わらないものだっただろう。
 要するに第一印象は最悪。確かに筆記試験の成績は悪くは無いが、実践で使い物にならないなど話にもならない。――故に彼女が私の助手を務めたい、と進言した時も、容赦なく一蹴した。
 だが、何故か彼女は諦めずに、何度も何度も頼み込んできた。私はそれを同じ回数分だけ断った。……最後に、必ず。すみませんすみませんごめんなさいごめんなさい。そう謝る彼女が、印象的だった。
 ――――謝るぐらいなら最初からやらなければいいのに。
 彼女が謝るたびに、そう思い、そして言った。しかし彼女は、懲りた様子も無く、再び私に謝りに来るのだ。
 正直迷惑なこと、この上無かった。他の人は私を忌避し、蔑み、遠ざけていたし、私は私でそれは望むところだった。一人で十分やっていける。私は他人には興味が湧かなかった。否、それどころか、ある程度見下していたのも否定出来ない。
 なのに、彼女は引っ切り無しにやってくるのだ。
 全くもって、煩わしかった。
 けれども、きっと。
 ――――最初に他人≠ニいうモノを意識したのは、彼女が最初だった。例え、それが負の感情だとしても。

 「……貴女は何故、そこまでして私の助手になろうとするのですか」
 「――――え」

 ある日、何を言ってもやって来る彼女に、尋ねた。
 「知っての通り、私のエルトナムの名は没落し、忌み嫌われている貴族です。その原因――エーテル・ライト……『相手の人生の獲得』という非人道的な技法のことを貴女も知っているでしょう。私の下に付いても、嫌われることはあれど、何の利益もありませんよ」
 それは周知の事実。アトラス院の恥部、人道を無視した道理を為す者――それがエルトナムという名に込められた意味だ。そのことを知らないわけではないだろう。
 そもそも。
 「――――何故、貴女は私に近づいてくるのです」
 他の人間……同僚だろうが教授だろうが、例外なく私を避け続けているのに。
 どうして、彼女は私に話しかけてくるのだろうか。
 彼女は、一瞬きょとんとした顔をして。

 「そんなの決まってるじゃないですか。――――シオン先輩のことが、好きだからですよ」

 ニコヤカに笑って、そう言った。
 その時、私は一体どんな顔をしたのか、よく覚えていない。
 ただ、ドクンと心臓が高鳴ったのを覚えている。
 ――赤の他人に、こんなにも純粋な好意を向けられたのは、初めてだったから。
 それから結局、私は彼女を助手にした。
 クリストファー・クリスティ。
 それが彼女の名だった。
 くっきりとした瞳に、栗色の髪。そばかすの目立った顔に、少し厚い眼鏡。全体的に丸っこい彼女は、どこか小動物を連想させる。
 私が幾ら言っても、相変わらず良く転ぶし、薬の調合量も間違えた。その度に、クリスは笑顔で『すみません』と謝るのだ。
 全く、煩わしい。
 だけど、その煩わしさは――何処か心地良いものだった。
 ……私がアトラス院を離反し、そして戻ってきたときも、クリスは何も言わず。
 「――――お帰りなさい」
 ただそう言って、いつもの笑顔を見せるだけだった。

 ――――ああ、私はきっと、彼女が好きだった。

 リーズバイフェに出会い、志貴に出会い、秋葉に出会い、様々な人たちに出会い、芽吹いた感情。それが、クリスに対する自分の感情を明確にした。
 これは好意。彼女が私に向ける感情を――何時しか私もクリスに向けていたのだ。
 ……だけど、クリスはどうして、私のことを好いてくれるんだろう――――
 きっと、それが最大の間違い。その理由を、最後まで聞かなかったことこそが全ての原因。
 純粋で無垢な――何ら濁りの無い、好意。
 そんなものは、歪だ。ゼロから始まる感情なんて、そんなものは壊れている。
 だから、きっと何か≠ェあったのだ。全ての始まりとなり得る何かが。
 私の何が、一体何処が、彼女の心の琴線に触れたのか。
 それを知らないことこそが、気付きもしなかった私こそが、きっと間違いだったのだ――――

 「――――私、シオン先輩のことが好きです」
 「――――ああ、私も、クリスのことが、好きだ」

 だから、私は、引鉄を引いた。
 乾いた銃声が、月光流れる夜闇に溶けて、消えていく。
 骨が軋む。凍えそうだ。
 此処は何て寒くて、冷たい場所なんだろうと。
 そう、私は思った。


5/
 引鉄 [“Good bye and Tears”]


 「――――完成だ」

 ぽつ、と呟いたのは白衣に身を包んだシオン・エルトナム・アトラシアだ。
 周りの錬金術師達も感嘆の意を述べる。
 「流石、主任ですね。時計塔の無茶な依頼を、半日もかからずに終わらすなんて」
 「いえ、貴方達の協力があってこそです。それに契約書≠ェ賭かっている以上、無駄な時間を浪費することはありません」
 「それは謙遜ですよ。主任がいなければ、こんなにも早くは完成しなかったでしょう」
 ふむ、と頷いて、シオンは手の中にある一つの弾丸を見る。
 『時計塔』からの依頼――――対『偽・真祖(デミ・アルテミス)』用の武器の製造――――を果たした結果がこの弾丸だった。
 効果は単純。外界からのあらゆる干渉を、無効化するというものだ。効力は僅か刹那ほどの一時的なもの。これをただの人間に使用したとしても、通常の弾丸以上の意味合いは持たない。
 だが、こと『偽・真祖(デミ・アルテミス)』に対しては、その効力は絶大といえる。自らを保っている外界からの力――――志貴が言うところのアルクェイド・ブリュンスタッドからの供給を断ってしまえば、一瞬にして身体は灰になるだろう。元々が吸血鬼化を異常に促進させられた身体だ。耐え切れるはずも無い。
 「……そろそろ日が沈みますね」
 何気なく呟いた台詞は、存外に重いものだった。
 「――――」
 研究所の空気が緊張に固まる。
 シオンのその言葉は、もうじき、夜が来ることを示していた。
 そう、吸血鬼が最も活性化する、暗い暗い闇に。
 つまり、久遠寺アリスと誰とも知れない『偽・真祖(デミ・アルテミス)』という人喰いの化け物が行動を起こす時間帯が、ついに訪れるということ。
 錬金術師が狙われている今、研究所に居る誰もが殺される危険性を孕んでいる。
 「大丈夫です」
 ガシャ、とリロードを完了した音を鳴らし。
 「――――私が、何とかします」
 固まった空気を撃ち砕くように、シオンはそう宣言した。
 「……貴女もいることですし、ね。バゼット・フラガ・マクレミッツ」
 ば、と研究員達が入り口を見る。
 そこには、いつの間にか、協会の武闘派バゼット・フラガ・マクレミッツが壁に寄りかかりながら立っていた。
 シオンに言われるまで、気がつかなかった研究員達は、その肩書きに畏怖を覚える。
 バゼットが腕を組みながら、言う。
 「本来なら、私一人で十分な任務(ミッション)ですが……今回は貴女の協力もあったほうが良さそうです。っと」
 ぱし、とシオンから投げられた何かを条件反射で受け取る。
 その手の中に在るのは――銀色の銃身だった。
 「流石にブラック・バレルは貸せませんが、それならば貸してあげます。ヘルモポリスの守護神、偉大なる銀(ヘジュ・ウル)=\―アトラスが誇る概念武装の一つです。無論、対『偽・真祖(デミ・アルテミス)』用の弾丸が込められています。――――そうですね、ニアウト=Aとでも名付けましょうか」
 シオンは白衣を翻し、ドアへと向かう。
 「否定(ニアウト)≠フ弾丸ですか。なるほど、その名は、確かに適している」
 こつこつと歩くシオン。
 ドアの横で動かず、銃を確かめるバゼット。
 二人が、目線も合わせずに、交差する。
 刹那。
 「――――遠野志貴」
 「っ――――!?」
 シオンは息が止まったかと思うほどに驚愕した。
 その名は、今朝ほど口論してきたばかりの相手のモノだ。
 秋葉の元には決して帰らない、と拒絶の咆哮を放った相手。
 そしてバゼットにしてみれば、その名は、宝具どころか何の魔術礼装すらしていないのに、自らと渡り合った人物のモノだった。
 「その動揺……やはり彼≠ニは知り合いだったのですね」
 「――何故、その名が出てくるのですか。彼は今、日本に居ます。それに報告書を読めば、誰だって、そのくらいのことは知りえます」
 確かに遠野志貴の名はシオンが『ワラキアの夜事件』を報告書に纏めたときに出てきた。だがそれは、ほんのちょっとだけ。それもただの一般人の協力者として。直死の魔眼や真祖の恋人などの情報は一切書かれていない。
 だからこそ(・・・・・)。ここで彼の名が出てくるのはおかしいことなのだ――――
 「昨晩……その遠野志貴と闘いました。――――まさか、直死の魔眼の保持者だったとは思いもしませんでしたよ」
 「!!?」
 シオンは驚きに目を見開いた。予想もしなかった一言に、思わず動揺が顔に出てしまう。
 「大変驚きました。直死の魔眼なんて、神代の頃の逸話に出てくる程度の眉唾物。それが実在するなんて、正に生きた伝説です。――――少し調べてみたところ、彼が貴女と一緒に歩いているのを見かけた、との情報が幾つかあります。……ふん、あの報告書は甚だ疑問でしたが、それも漸く分かりましたよ。確かに、アレと真祖ならば、ワラキアをも消滅させうるでしょう」
 (まさか、バゼットと志貴が闘ったなんて……!)
 志貴のことは出来うる限り、隠さなければならなかった。何しろ直死の魔眼など、魔術師から見れば、垂涎モノ……いや、そんなレベルで済まされるどころの話では無いからだ。
 ありとあらゆる魔術師、魔術機関が、彼の事を狙い、闘争が起きるだろう。「」と繋がった眼球など、魔術師にしてみれば、喉から手が出るほど欲しい代物だ。
 なのに、まさか、こんな形でばれるなんて。
 「……まぁ、そのことは一先ず置いておきましょう。問題は彼が此処、エジプトで何やら久遠寺アリスのことを嗅ぎ回っている、ということなのです。多分、彼は私達魔術協会すら知らない情報を持っている可能性がある。……そして、貴女はソレを知っているんじゃないですか?」
 ドクン、と心臓が跳ねた。
 遠野志貴――――いや今は七夜志貴か――――が、久遠寺アリスに攫われたアルクェイドを探していて、そして久遠寺アリスはアルクェイドを利用して真祖へと至ろうとしている、その情報を、確かにシオンは知っていた。
 事の顛末。その始まりから今に至る過程を、全て。だからといって知らないことは、たくさんある。これからの久遠寺アリスの動向と、目的――つまり『これから』のことだ。
 正直、それは予想もつかない。が、協会が知り得ていない情報を、自分が持っていることは確かだ。
 そう流れるようにシオンは思考するが、しかし、と思い、止まってしまう。
 そのことを本当に――――魔術協会に教えても良いのだろうか。
 魔術協会に教えること……それによって、大なり小なり、三咲町で起きた様々な事件が芋蔓式に判ってしまう可能性がある。
 殺された真祖。消滅した27祖。混血の血筋を色濃く残す遠野という屋敷。埋葬機関。アトラス。ワラキアの夜。魔法使いの『先生』。
 そのどれもに、志貴が中心に存在した。根絶した七夜の生き残りで、直死の魔眼という正しくイレギュラーな人物が。
 そのコネクション、志貴が持つ特異性、三咲町という異端が収束する場所。
 悪用しようとすれば、幾らでも悪用出来るだろう。その場合、巻き込まれるのは。
 (志貴や秋葉……もしかすると翡翠や琥珀にまで、危険は及ぶかもしれない……!)
 自分の、知り合いかもしれないのだ。
 「どうしました? 貴女は私に情報提供する義務がある。魔術協会に所属している限り、それは絶対だ」
 バゼットの声が、更なる重圧をシオンに与える。
 (――――これを拒絶したら、私は追い出される、のか)
 そうなれば、四年前の焼き直しだ。再びシオンはアトラスを追われ、協会に狙われる日々が続く。前回は戻ってくることが出来たが、二度目は在り得ないだろう。そこまで、この世界は甘くは無い。
 吸血鬼化の治療という命題も、まだ解決されず残っている。ここでアトラスから追い出されれば、研究の存続は不可能だろう。
 (ああ――――だけど)
 だけど。
 あの優しい人たちの笑顔を――――どうして、壊してしまうような真似ができるだろうか。
 き、とバゼットを睨む。
 「バゼット・フラガ・マクレミッツ。私は――――」

 その時、研究所内に警鐘が鳴り響いた。

 近代的な電子音がアトラスの中を駆け巡る。
 「っ! 一体何が起きたんです!?」
 「今、確認します!」
 二人の話を固唾を飲みながら聞いていた研究員の一人が、飛び跳ねるように、室内に設置された内線電話に耳を当てる。
 それを見ながら。
 「……偶然に救われましたね。どうやら、今は貴女に尋問している場合ではないようだ」
 「…………」
 バゼットは、幾分も動揺せず、冷徹な瞳でそう言った。
 「――――何だって……!?」
 電話越しで、幾つか言葉を交わした研究員の手から、受話器が落ちた。
 その顔は、焦りというよりも――――驚愕に見開かれている。
 そしてシオンの方へと向き。

 「ブラック・バレルのオリジナルが――――奪われました。犯人は……我がアトラスの錬金術師、クリストファー・クリスティ。
 ――――アトラシア主任、貴女の助手です」

 今度こそ、シオンの呼吸が止まった。
 陽はとうに沈み、辺りは夜闇に沈んでいる。
 そう、吸血鬼が最も活性化する、暗黒に。

 七夜志貴は夜の帳が落ちたばかりの街を駆けていた。
 その街は、物の見事に、無人。
 つまり、此処は久遠寺アリスの結界内だった。
 「……罠だと思うか? レン」
 隣を共に駆ける黒猫に、そう志貴は聞いた。
 す、と黒猫は速度はそのままに人型になり、目線だけ志貴に寄越した。
 無言の、その目は。
 だとしても、志貴には関係ないでしょう?
 と言っているようだった。
 ふ、と志貴が笑う。
 「――ああ、その通りだな」
 志貴は、更に駆ける足に力を込めた。

 ことの始まりは、志貴が感じた気配だ。
 朝――シオンとの口論から、ずっと久遠寺アリスを探しに街をうろついていた志貴だったが、その結果は芳しくなかった。
 だが、日が沈んだ途端に、死の気配≠ェ突如濃くなった。その急激な変化は、まるで誘っているようだ。
 そちらの方に向かいだした瞬間に、街が結界に覆われた。久遠寺アリスの結界――それは間違いなく彼女が先にいるという証拠に他ならない。
 志貴はただ嗅覚の赴くままに、そちらへと駆け出した――というのが、つい先ほどまでの出来事である。
 死の嗅覚=B
 幼い頃の臨死体験。幾つもの死闘。その目に広がるツギハギの世界。それらに囲まれてきた志貴は――あまりにも死に慣れすぎたためだろうか――志貴は視線だけでなく、気配でも死を捉えられるようになっていた。それは死体の場所や、それどころかこれから死が起きるだろう(・・・・・・・・・・・)という雰囲気すら感じ取る。
 未来予知染みた感覚は志貴に『死』を的確に教えてくれる。これこそが殺人貴が持つ、もう一つの能力死の嗅覚=B直死の魔眼の副作用とも言えるソレは、日常の危険から、敵を探すとき、そして戦闘に至るまで、志貴の力となった。――更なる、崩壊(いたみ)と共に。

 「――――濃いな。近いぞ。気をつけろ、レン」
 コク、とレンは頷き、無人の街を疾走していく。
 と、公園が見えた。エジプトのイメージに似つかわしくない緑が鮮やかに映る。
 だが、そんなことは瑣末ごと。――――それ以上に圧巻な代物が、其処にあった。
 公園の中央に立った二十メートル超の巨大なモニュメント。天を貫かんとばかりに直立する高く長い石柱。
 オベリスク。神の名を刻み、王の名を刻み、自らの威を示すために作られた記念碑。太陽神のシンボル。今、その先端に。

 ――――隻腕の魔女が、(オベリスク)を見下ろして、嘲笑(わら)っていた。

 「さぁさぁ志貴君、今宵はショウ・タイムよ。またとないサーヴィス・タイム。その砥ぎに砥いだ(きば)をこの胸に突き刺すとき。ハリーハリー! そんなところに突っ立っていないで、早く犬のように駆け回りなさい(ハリーゴーラウンド)。さぁ早く早く早く、 ――――私と殺しあい(おどり)ましょう?」

 久遠寺アリスが、楽しそうに笑う。
 「は――――今まで逃げ回っていた蝙蝠が、何のジョークだ。クソったれ(・・・・・)みたいなメニュー(サーヴィス)なんてクソ食らえ(・・・・・)だ。ああ、そうさ久遠寺アリス――――」
 しゅるり、と包帯が落ちる。
 「俺のオーダーは、いつだって――お前の命なんだから」
 月下、殺人貴が、その刃を持って、己が名を示すために疾駆した。


 シオンとバゼットは街を駆けていた。
 目的は無論、クリストファー・クリスティの捜索である。
 ブラック・バレルの強奪――それはアトラスの錬金術師である彼女ならば、容易に行えただろう。
 シオンの思考には是非は無かった。理由など、目の前にある現実には、何の価値も持ち得ない。
 (……だけど、知りたいと思うことは、多分私が弱いからなんでしょうね……)
 そう、駆けながら、シオンは思った。
 ブラック・バレルのオリジナルを奪ったという事実。それは紛れも無く、アトラス院への反逆行為だ。
 シオンにも、その行為には経験があった。四年前、シオンは唯一無二であるアトラスの戒律――『自分の研究結果は決して公表しない』という絶対の掟に背いた。
 ……そのときのことに想いを馳せる。
 協会から逮捕状が出て、挙句の果てに埋葬機関の代行者なんていう化け物染みた相手に付け狙われた。
 あの状況――自分は三咲町に居なければ、間違いなく捕縛され、それどころか死んでいたかもしれない。
 二つのキョウカイ≠ゥら狙われるという事実、それをシオンは我が身を以って実感した。
 結局、それはシオンの懸命な努力において、何とか許された訳だが――――
 ――――今回、クリスも同じ『反逆罪』を犯した。だがしかし、その内容はシオンのものとは訳が違う。
 ……アトラスの所持品を、奪ったという事実。おまけに奪ったものはブラック・バレルなんていうアトラスにとって最重要とも言っていいものだ。
 その罪は、決して許されるものではないだろう。
 「大丈夫ですか? 随分と狼狽していますが」
 ガチャガチャ、と音を鳴らしながら、駆けるバゼット。
 彼女の切り札たる宝具。それが込められているラックが音を立てている。
 邪魔にならないようにラックは体に固定されていた。
 そのバゼットは、こちらの顔は見ていない。決してシオンの顔を伺うようなことをしなかった。
 ただ、足を機械的に動かすだけだ。
 シオンは思う。
 ああ、ならばこの問いは余分なことだろう。この問いに答えようが答えまいが、彼女のすることは一つなのだから。
 だから、こう言った。
 「――――それに答える必要がありますか? 魔術師(ミスティック)
 と。
 シオンもバゼットの方は見ていなかった。
 「は、面白い。錬金術師(アルケミスト)、理性で未来を駆逐する貴女が、このような状況で、どのような選択をするのか、見届けましょう」
 ――――それがどんな選択でも、結果は同じですが。
 シオンがやらければ、バゼットがやるだけ。
 クリストファー・クリスティを――――殺すということを。
 それが、アトラス院の決定であり、バゼットの意志だった。
 「……私は錬金術師だ。情に流され、決断を間違えるようなことは、しない」
 返答はすぐに来ず。ただ二人の駆ける音だけが、無情に響く。
 「――――そうですね。その判断は正しい。彼女は、今エジプトで起きている事件の犯人――ひいては久遠寺アリスの仲間かもしれないのですから」
 「……」
 シオンは、一瞬だけ、物憂げに目を細めた。
 エジプトで起こった連続殺人。現れた久遠寺アリス。強奪されたブラック・バレル。
 そのどれもが、タイミングが良すぎる。
 ならば、これらのことは全て一つの線として繋がっていると考えた方が自然だろう。
 思い出す。
 クリスの、人懐っこい笑顔を。どんなに失敗しても、必ず自身に向けられた笑顔と謝罪を――――
 「……私は、最後の最後まで、あの子を信じたい。信じ、たいのです……!」
 搾り出すような声。沈殿した想いは、今だ喉元で燻っている。
 それをどのように取ったのか、バゼットは何も言わず、ただ足を動かすのみ。
 シオンも沈黙したまま、その速度を上げることだけに専念した。
 そうして、十分ほど市内を駆け回り――――

 異常は、姿を現した。
 シン、とした空気が二人の骨を軋ませる。
 「人の気配が……消えましたね」
 バゼットが、その鋭敏な感覚から捉えた事実を、シオンに放つ。
 「ええ、これは時計塔の報告や、昨晩の様子から見るに、久遠寺アリスの結界でしょう。私達が彼女を捉えたのか、それとも捉えられたのかは――わかりませんが」
 そしてシオンも、そのことから推測される現状を、バゼットに放った。
 魔術師と錬金術師が己が役割を全うせんと、言葉を交わす。
 その時、急激な魔力の高まりが、二人の脳髄に警鐘をもたらした。
 だ、と再び駆け出す。
 「――――こっちですね。罠、だと思いますか」
 シオンがバゼットに問う。
 あからさまな魔力の高まり――ここが、久遠寺アリスの結界内であるかぎり、これは本人か、若しくは殺人事件の犯人のものとしか思えない。
 まるで計ったかのようなタイミング。その事実に二人は思考を滑らせる。
 この先には何らかの罠が仕掛けられていても何の疑問もない。
 だがしかし。
 「関係ありませんね。罠があろうと無かろうと、全て粉砕するのみだ」
 バゼットは、その予測を砕かんとばかりに言い放った。
 ふ、とシオンは微笑する。
 ――――流石、封印指定の執行者というわけか。
 恐らくこの程度の修羅場など、慣れたものなのだろう。
 その点、果たして自分はどうなのか。
 もし本当にクリスが、久遠寺アリスの仲間だとしたら。もし本当に殺人事件の犯人だとするならば。
 自分は、一体どうするのだろうか……。
 アトラス院からの指示を――仰ぐまでもない。
 殺人事件の犯人。ブラック・バレルの強奪。
 間違いなく、殺せ=i誰を?)と命令してくるだろう。(それは当たり前)
 元々実力は低い。アトラスも手放すことを厭わないだろう。(お前もそうだろう?)
 錬金術師は損得で物事を思考する。(四則演算される命)ならば、(お前が)やるべきことなど一つだろう。(やれないなんて言わせない)
 (武器は持っているだろう)黙れ(否定の弾丸)黙れ(化け物)黙れ(そのために作った)黙れ(誰であろうと)黙れ(敵を認識)黙れ(既に弾丸は装填された)黙れ(やるべきことは一つ)黙れ(己は錬金術師)黙れ(本当に撃てるのか)黙れ(人を殺したことが無い)黙れ(見知った人を殺したことが無い)黙れ(仲の良い人を殺したことが無い)黙れ(殺人の肯定)黙れ(故にまず感情を殺す)黙れ(思考から削除削除)黙れ黙れ(彼女の)黙れ黙れ黙れ(笑顔謝罪声鼓動顔瞳髪)だから(その存在の全てを――――)だから――――

 ――――自らの手で、引鉄を引け

 黙れと言っている――――――――!

 シオンは、己の中の思考を、奥歯を噛み締めながら、否定した。
 生まれて始めて、己の高速分割思考を、『無ければ良かった』と。
 ただ一人の人間のために――――錬金術師としての自分を、否定(カット)する。
 ――それが、例え今だけだとしても。
 全てが分かる前くらいは、彼女をことを、信じていたいと。そう、シオンは願った。
 急に沈黙した、今にも泣きそうなシオンを見ても、バゼットは何も言わない。
 やるべきことを理解している魔術師には、シオンのように思考をする必要の無い。
 ただ、己が命を為すだけだ。
 でも。
 それでも余分に思考を掠めるモノがあった。
 (衛宮士郎――――貴方は、こんなとき、どんな選択肢を取るのでしょうね……)
 それは魔術師としては余分なこと。
 しかし、それを何故か、バゼットは振り払えなかった。

 余分なものを抱えて、二人は走る。
 魔力の高まりは今だ止まらない。
 もう少しで、辿りつく。その、全てが判明する場所に。
 駆ける足音は、まるでカウントダウンのようだった。
 ――――そして、カウントはゼロを刻んだ。

 笑うような三日月の下、曲がり角を曲がった二人は、そこに異界を見た。
 
 煌々と輝く満月があった。
 花が咲いていた。
 その花の周りに蝶が、踊るように蝶が飛んでいた。
 木々がそよ風を受けて揺らいでいた。
 川が心地良さそうに流れていた。
 そして、極め付けに――巨大な建築物。そそり立った外壁と、派手な装飾。
 ――――童話に出てくるような『お城』が、そこにあった。

 「これは……まさか」
 「――――固有結界」
 二人から、どちらとも取れない声が漏れる。
 は、とそこでシオンが気付く。
 ――否、と。錬金術師の計算が、そう告げていた。

 「固有結界ではありません。これは――空想具現化、です」

 「な――――」
 シオンの言葉に、バゼットが息を呑む。
 「ここを心象世界というには、あまりにも綺麗すぎる。そう、まるで自分の理想がカタチになったかのような(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
 確かに固有結界とは術者の心象世界を現実に侵食させる魔術の奥義だ。
 だが、人である限り、否、人という殻を被っている限り、完全に綺麗な世界の創造などはありえない。人とは、正と負の感情を両方持ち合わせているからこそ、人であるのだ。聖邪正負、全てを内包した世界が、こんなにも潔癖であるはずが無い。
 だから、これは術者の理想の具現。
 手を伸ばしても決して届かない、夢幻と夢想からなる、綺麗な綺麗な理想郷――――
 「『偽・真祖(デミ・アルテミス)』……。まさか、能力まで真祖を模しているのか……!」
 ぎり、とバゼットは奥歯を噛み締める。
 真祖が真祖たる能力の一つ、空想具現化。
 まさか、その超常たる現象すら模すだなんて。
 (偽りの真祖(デミ・アルテミス)……その肩書きは伊達ではないということか)
 ふとバゼットがシオンを見ると、それほど動揺してはいないようだ。
 まるで、予め知っていたかのような。
 「――――そんなに驚いていないようですね。錬金術師はこんなことすら予測していたというのですか?」
 「……」
 幾ばくかの沈黙。
 そしてシオンは、こくり、と頷いた。
 「そうですね。昨晩の久遠寺アリスの様子から鑑みても、いずれこの領域に辿りつくことは――――っ!?」
 轟、と雷のような槍の一閃が、シオンへと奔った。
 舌打ちをして紙一重で、ソレを避ける。
 周りを見ると――平面がそのまま立体になったかのようなナニカ≠ェ大勢いた。
 薄っぺらい長方形の体に、申し訳ない程度の頭と、ひょろ長い手足がくっついている。その右手に槍。左手には盾。長方形の体には、あるマークが描かれている。スペード・ダイヤ・エース・クラブ……つまり、それはトランプのカード。
 『トランプの兵士』の軍勢が、槍衾を以って、二人を取り囲んでいた。
 「……全く、本当に御伽噺の世界ね。昨日の影≠ヘこいつ等の成り損ないか」
 バゼットが嘆息する。
 「それなら、私達は差し詰め不思議の国のアリス≠ニいったところでしょうか」
 シオンが表情を崩さず、そんな冗談を口にした。
 バゼットが難しい顔をする。
 「――――それ、冗句にしては、シュール過ぎます。笑えません」
 「そうですか? 私的には中々のものだと思いますが」
 ニヤリ、とシオンが笑う。
 そう言い合う間にも、槍衾は増えていく。二十三十……百。
 いつの間にか、二人は無数の兵士に囲まれていた。
 「錬金術師の冗談など、たかが知れている。まだ私の方が面白い(・・・・・・・・・)
 「確かに、それはとても面白い冗談だ(・・・・・・・・・・・・)
 ふ、と笑いあう錬金術師と魔術師。
 そうして、ついに雪崩のような槍衾が、動いた。
 トランプの兵士は、射殺さんとばかりに手に持った槍を、二人に走らせる。
 「――――突破します。恐らくあの城がこの世界の『核』でしょう。準備はいいですか? 錬金術師(アルケミスト)
 「ええ、魔術師(ミスティック)。貴女の方こそ、神への祈りは済ませましたか?」
 「神なんて、居やしませんよ」
 「――――そうですか?」
 槍が来る。無数の槍が来る。槍の雨。殺意を以って、襲い来る。
 槍槍槍槍槍槍槍。
 その無数の殺意を。

 「太陽神(オベリスク)――――――――!」

 黒き銃身から放たれた銃弾が、一切合財撃ち砕いた。
 バレル・レプリカ・フルトランス。
 紛う事なき全力の一撃は、光線のように煌く銃弾とその軌跡と余波の衝撃で、トランプの兵士を灰燼とした。
 「だから、言ったでしょう。たまには貴女も祈ってみたら――」
 ごがん!、とシオンの言葉を遮るように、背後から轟音がした。
 見れば、バゼットの背と――槍を突き出しているトランプの兵士があった。
 恐らく背後に居たため、銃弾の余波から逃れたのだろう。本来ならば、銃を撃った後の硬直を狙い打ちされたはずだ。
 だが、それは――バゼットの拳によって、撃ち砕かれた。
 「そうですね。今の貴女のように助けがあるのなら、祈ってみるのも悪くないのかもしれません。――――最も、悪運(バッドラック)を砕くのは、神の加護ではなく、私の拳ですが」
 ――――流石、封印指定の執行者といったところか。
 バゼット・フラガ・マクレミッツ。その実力は、シオンよりも遥か高みに在る。
 「さぁ、突っ切りますよ。ついて来れますか、錬金術師」
 「無論。確認するまでも無いことでしょう?」
 だ、と二人は爆ぜるように駆け出した。
 しかし、その道には、再びトランプの軍勢が、地面から這い出るように立ち塞がる。
 増殖は止まる事を知らず、まるで無限とばかりに増えていく。
 今や、その数は三桁どころか千にも届くかもしれなかった。
 2対1000。
 兵力差は明らか。点であるシオンとバゼットに対し、トランプの兵士は面だ。誰が見てもその差は覆せるとは思えず、勝敗は決していると断じても何らの問題があろうか。
 ――――だが。
 「ああああああぁぁぁああああああ!!!」
 「ふっ――――――――!!」
 二人には、そんな兵力差など関係無かった。
 無数とも言える槍衾が、襲い掛かる。
 雪崩のようなソレを。
 バゼットは、その拳で。正に大砲のソレは、槍を叩き折り、そのまま数人を巻きこんで打ち貫く。
 シオンは、その頭脳で。エーテライトとバレル・レプリカを以って、瞬時に敵軍の脆い部分を計算し、自らの安全地帯を計算し、次々と駆逐していく。
 二人の勢いは止まる事を知らない。
 それはさながら台風だ。
 天災染みたソレは、千の軍勢を物ともせず、突き進んでいった。
 しかし。
 「――――!?」
 「!?――――」
 その足が止まり、あまつさえ後退すら余儀なくされた。
 ガゴン、と二人の目の前で、コンクリートの床が砕け、飛散する。
 シオンが見ると、小さいクレーターが出来ている。尋常な力ではない。
 人間二人分ほどの腕の太さ。鉄のように硬い体毛。あらゆる物を噛み砕くだろう牙。そして、濁った金色の瞳。
 三メートル超の巨大な体躯を持った獣。
 魔獣――――ジャバウォック。
 異形の化け物が、月光を背に、シオンとバゼットの前に立ち塞がった。
 「……私が抑えます。魔術師、貴女がその馬鹿力で仕留めて下さい」
 「――――誰が馬鹿力ですか」
 憎まれ口を叩きながらも、二手に分かれた。
 シオンが右に先行し、バゼットが左に走る。
 その際にも、トランプの兵が襲い掛かるのだが、二人はそんなもの眼中にない。
 あるのは目の前の異形のモンスターのみ。
 魔獣が動く。金色の瞳に映るのはバゼット、だ。
 二人が何を狙っているのかを判っているように、魔獣はその腕の一振りをバゼットに――――
 「アナタの相手はこちらです!!」
 ――――振り下ろされる前に、その太い腕にエーテライトが絡みついた。
 更に三本。エーテライトが、本数を増やす。
 月光に輝くソレは、次々と魔獣の四肢に絡みつき、その動きを封じていく。
 だが――
 「ウォオオオオオオオオオオオオオオオ――――!!」
 「っ!」
 魔獣が、吼えた。
 同時、四肢を捉えていたシオンの体躯が、ぎちりと軋んだ。
 自身の内から、骨が軋む嫌な音が聞こえる。
 魔獣は、人が抑えることが出来ないからこそ、魔獣なのだ。
 その抑えつけられている時間は僅か。魔獣は直ぐにでも動き出すだろう。
 硬直すること三十秒。
 拮抗は破れ、人を超えた魔獣が、その束縛から解放される。
 「――――十分です。よくやりました錬金術師」
 バゼットが不敵に笑った。
 その手には紫電を撒き散らす、斬り抉る戦神の剣(フラガ・ラック)≠ェある――――
 「ふっ――――」
 轟音。
 巨獣の中心に穴が穿たれた。
 一瞬、時間が静止する。
 あらゆる音が消え、あらゆるモノの一挙一動が止まり――
 ざらり。
 ――魔獣が消え去る音で、時間が動いた。
 「――――は」
 手元に戻ってくる斬り抉る戦神の剣(フラガ・ラック)≠見ながら、息を吐く。
 本来ならば、一つにつき一発の使い捨ての弾丸。
 しかし、三年前とは違い、真名を解放せずに魔力だけを込めれば、その特性――究極の迎撃武装――を発揮せずとも、必殺の威力を込めた光弾として、何回でも使用できる。
 自らの宝具に対しての理解と操る技術を向上させた、バゼットの研鑽の賜物である。
 しかしながら、今だ使用するには、幾ばくかの時間が必要。それは刹那の判断を必要とする戦闘では致命的な隙だ。いくら研鑽を積んだとはいえ、神代の宝具。そうそう簡単に全てを手中に収めることなど出来やしない。
 「まだまだ自由自在とはいきませんか……。発動に、こんなに時間がかかっては、まともな戦闘では使い物にならない」
 真名を解放すれば、また別の話だが――久遠寺アリスに出会う前の単なる雑魚に使い切るわけにもいかない。
 今だトランプの兵はその数を増やし、攻めて来る。幾ら二人でも、これ以上の消耗は避けなければならなかった。
 「見事な手並みです、と言いたいところですが――」
 「ええ。話はコレを突破してから、ですね」
 再び駆け出す二人。
 城までは目視で五百メートルといったところか。
 通常ならば――仮に多量のトランプの兵士がいたとしても――辿りつくのに分もいらないような距離だが。
 しかし――
 「っ――――!!!」
 「な……!」
 立ち止まる。
 目の前には、先ほどの巨獣が立ちはだかっている。
 その数、実に十を超える――――!

 「あああおおおおおおおオオオォオオオオオ雄雄雄――――!!!」

 鼓膜を破るような魔獣の一斉咆哮。
 さしもの二人も、この状況には踏鞴を踏んだ。
 「ち――このままじゃジリ貧です。どうします?」
 シオンに焦燥が走る。
 一匹一匹は、そう大したことが無いとはいえ、流石に数が違いすぎる。
 いつかは、この圧倒的な数に飲み込まれ、没してしまうことは確実だ。
 錬金術師としての予測――それが最悪の結果を提示してくる。
 そのことを、シオンの顔から理解したのか。
 「――――戦力を分散させましょう。此処は私が受け持ちます。貴女は、先に」
 バゼットが、そう言った。
 「――――」
 戦力の分散。
 確かにソレしかあるまい。このままジリ貧で戦ったとしても、いずれやられることは明確だ。
 ならば、戦力を分け、強い方を壁に、そして弱くとも対抗できる相手が、奥に行くべき。
 少なくとも対『偽・真祖(デミ・アルテミス)』用の弾丸を開発し、久遠寺アリスと対峙したシオンは、対抗出来るだろう。
 そして、バゼットはコレら、トランプの兵団とは、シオンよりも戦闘回数は上だ。僅か一回の僅差だが、それでも戦闘においては、生死を分ける決定的な差だ。
 しかし――
 前を見る。
 あの恐るべき怪力を持った魔獣が十体。いや、これから更にその数を増やすかもしれない。
 幾らバゼットでも、この魔獣とトランプの兵、一度に相手するのは苦しいだろう――――
 「……バゼット・フラガ・マクレミッツ」
 「何でしょう」
 そう、するべきことは、たった一つだけ。
 
 「――――此処は任せました。奥に居る敵は私が討ちます」

 ――――信頼すること。

 どんなに数が多くても。どんな敵が相手でも。
 目の前の魔術師は――その拳で撃ち砕いてくれると。
 この計算された、最悪の結果を撃ち砕いてくれると。
 悪運(バッドラック)を砕く彼女の拳。それを信じるしかない――――
 「ええ、理解が早くて助かります。……では、行きますよ」
 こくり、とシオンは頷くと、バゼットと同時、示し合わせたかのように駆け出した。
 雄たけびを上げて、魔獣が突進してきた。トランプの兵をも巻き込み突っ込んでくる、十体以上のソレは、まるで十トントラックが雪崩れ込んできたかのよう。人など、そんな大質量の重さと硬さの前には、ただの肉塊へと変貌する。
 巨獣の腕が雨霰とシオンに襲い掛かる。それでも、僅かに空いた隙間から、迷うことなく一直線に抜ける――――!
 花彩る地面が文字通り爆ぜた。
 まるでダイナマイトを叩き付けたような音と破壊。
 しかしシオンは紙一重でそれらを避け、魔獣の集団を抜け切った。
 無論、魔獣はそれを見逃すような頭はしていない。
 そのまま、シオンを背中から薙ぎ倒そうと、その凶器染みた左腕を振るう。
 その速度は豪速。風を切りながら、突き進む大質量のソレは触れた物全てを破砕することが出来る、馬鹿げたほど巨大な鉄槌のよう。樹齢何百年の大木を根幹から叩き割るような一撃。人が耐え切れるはずも無い。
 無論、シオンとて例外ではない。
 ――――そうして、当たり前のように虚空に衝突音が響いた。骨が砕ける音と、肉が弾ける音が、二重奏を奏でる。

 そう、魔獣の左腕(・・・・・)から。

 身を滑らせたバゼットが、丸太のように太い巨獣の腕の一撃を――――片手で受け止めていた(・・・・・・・・・・)
 魔獣の腕よりも、一回りも二回り――否、それ以上に細い右腕の掌で、事も無げに受け止めた。
 破壊されたのは、むしろ魔獣のほう。
 魔獣の一撃は等しく腕に還り。而してソレは崩壊を起こす。
 「オオオオオオオ――――――」
 苦しみ惑う魔獣。だが、魔獣は一体だけではない。
 数体、何か感じたのか、逃げるようにしてシオンを追おうと――――
 「ふっ――――」
 だが、バゼットの拳が、一息。それらを撃ち砕いた。
 瞬速で懐に潜り込んだ一撃で魔獣の体がくの字に曲がる。次いで跳躍。これまた幹のように太い首を、蹴り飛ばす。ぐにゃり、とした感触。その感触を足で味わいながら、顔面を蹴った。そのまま次の一体に踵落としを繰り出す。稲妻のようなソレは、魔獣の肩を砕いた。背中を蹴って縦回転一つ。地面に立ったバゼットは、シオンの元に向かおうとする魔獣二体の前に立ち塞がり、等しく二撃。両の水月に打ち込んだ。肉と骨が砕ける音と感触が拳にある。バックステップ、距離を取る。
 そして、バゼットは不敵に哂った。

 シオンが魔獣達の間合いの外に逃げると同時―――― 
 ――――それらは、膝を崩し、一斉に地面へと倒れ伏した。

 倒れ伏す衝撃と振動に、咲いた花が舞い散る。それはまるでバゼットを祝福するようで、魔獣に対する黙祷にも思えた。
 シオンが駆けていった道に、門番のように立ち塞がる。
 ぎり、とグローブを、音一つ、握り締めた。
 バゼットの射殺さんとばかりの視線が、引き絞られる。
 「さぁ、化け物ども。追いたければ追えば良い。暴力と巨躯を以って、疾く駆けよ。だがな、一つ覚えておけ。
 ――――その悉くは、この拳に撃ち砕かれるということを」
 その姿は、まるで戦神のよう。
 ありあらゆる外敵を撃ち滅ぼす、一騎当千を担う、正しく戦の神だ。
 「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
 されど、相手は魔獣。
 人間程度に遅れを取るわけにもいかないと、彼らは咆哮する。
 この相手は、人の身にして人ならざる自らを討ち滅ぼす死神だと。他の事に思考を割く事の出来る相手ではないと。魔獣達は今更ながらに、そう認識した。
 そして、咆哮一つ、今度こそバゼットを砕かんと、魔獣達が迫る。
 同時、トランプの兵も、取り囲むようにバゼットに槍衾を立てた。
 「ふぅ。やれやれ、全く厄介なことになったものです」
 嘆息するバゼット。
 だがしかし、その顔に浮かんでいるのは、笑み。
 「さぁ、ここは一つ。腕試しと行きましょうか――――」
 そうして舞い散る花弁の中。
 自ら敵意の群れへと、バゼットは踊るように駆け出した。

 「はっ――――!」
 裂帛の気合一つ、七本のエーテライトが宙を舞う。
 閃光が走り、行き道を遮るトランプの兵士達を薙ぎ払っていく。
 駆ける速度は、そのままに。シオンは全力で城門へと向かう。
 取り囲むトランプの兵団は、戦闘能力ではバゼットに及ばないシオンでも十分に突破は可能だ。
 城門は目の前。彼我の距離は十メートルちょっとだろうか。そんな距離、一息で無くすことが出来る。
 問題は、あの強固に閉じている巨大な扉だ。シオンの筋力は常人のソレと、あまり変わらない――否、ある事情から(・・・・・・)、少しばかり人並みとは言えないが、巨大な鉄扉を抉じ開けるほどのものでは無い。
 だが。
 「――――なるほど。私を城の舞踏会に招待してくれる、と言うのですね」
 ギギギ、と古めかしい音を立てて、ゆっくりと城門が開いていく。それは正にシオンを誘っているかの如く、である。
 「――――!」
 しかし、どうやら安々と通してはくれないようだ。
 ずずず、と地面から這い出るのは門番か。
 大量のトランプの兵団は勿論のこと――先ほどの魔獣が二体、城門を守るようにしてシオンの前に立ち塞がる。
 それでも駆けるスピードは止まることを知らない。むしろ、加速していくばかりだ。
 接敵する。彼我の距離は五メートルにも満たない。凶刃と凶獣は目の前。
 魔獣の咆哮。ガチャガチャと甲高く鳴る槍衾。愚策にも、一直線に突っ込んでくるシオンを切り裂かんと、宣言する。
 突き穿つ無数の槍と巨獣の体躯。

 「――――オベリスク」

 それら、一切合財をシオンは薙ぎ払った。
 瞬時にエーテライトを背後に展開。銃の反動で吹き飛ばないように体を地面に固定する。
 ぎちり、と体が軋む。最高速度から、いきなりゼロへ変換された運動エネルギーは、シオンの体を蝕む。
 黒き銃身が吼えた。
 閃光。衝撃。消滅。
 ありとあらゆるモノが光の濁流の中に飲み込まれ、等しく砂へと還っていく。
 その余韻に浸っている暇など、シオンには無い。すぐさまエーテライトの固定を解き、再び地面を踏みしめる。
 城門まで、あと三メートル。一息の距離――――
 「――――――――っつ!!!!」
 風を切る音がシオンのすぐ横から聞こえた。
 辛うじてバレル・レプリカの一撃を耐えたのか、その身を半分にしながら、しかし健在な半身で、シオンに横殴りの凶撃を加える。
 (駄目だ……間に合わない――――!)
 そう判断したシオンは咄嗟に急所を腕で守り、目の前にエーテライトを防御壁として展開させる。
 「ぐ――」
 しかし、それらでは凶獣の一撃は止められなかった。エーテライトの防御壁ごと、魔獣の腕がシオンへと振るわれた。
 シオンの体が、宙を舞う。
 鈍く、嫌な音が一つ、自らの中から聞こえる。
 次いで筋肉が断線する音と、骨が砕けていく音が、激痛の奔流と共にやってきた。
 だが痛みに身を捩っている暇は無い。こうして吹き飛ばされている間にも、魔獣は更なる追撃しようと、砲弾のように向かってくる。
 「な、――――めるなぁ!!!」
 痛みも気にせず、右腕を突き出す。不幸中の幸い、どうやら骨は折れていないようだ。なら――
 シオンは五指を広げ――
 その動作と同時、防御壁として展開されていた七本のエーテライトが、瞬く間に魔獣を絡め取る。
 ――そして痛みと共に握り締めた。
 ぐちゃり、とエーテライトが肉に食い込み――魔獣の体を切り裂いた。
 飛び散る肉片と血飛沫。それらを視界に映しながら――
 「がはっ!」
 派手に音を立てて、シオンは背中から鉄の地面に着地した。いや、叩きつけられた。
 そのまま地面を擦過。衝撃が背骨から体中に響き渡る。ぎちり、と骨が嫌な音を立てた。
 だが――動けないほどのものではない。
 (骨は折れてないが、罅が入っている。患部は、両の檮骨と尺骨に、腕檮骨筋の繊維が幾本か断線――痛みはあるが、戦闘は続行可能――といったところか)
 冷静に己を分析する。戦闘は続行可能だが、戦力の低下は免れないだろう。
 シオンは立ち上がり、周りを見渡す。
 見ると、そこは薄暗い城内。どうやら自分は城の中目掛けて吹き飛ばされたらしい。
 ともすれば、家一軒は入りそうなほど広大なエントランス。見上げるとシャンデリア。正面には、二階へと続くT字型の巨大な階段と月光差し込むステンドガラス。馬鹿げたほど典型的な『お城』の中だ。
 ガァン、と背後から音がする。
 見れば、鉄扉が閉じていた。厳かな城門は開くような気配は無い。
 (……逃がすつもりは無い、ということですか)
 それはこちらも望むところだ、とシオンは思う。
 シン、とした城内。蛇が出るか鬼が出るか、静寂が空気を震わせる。
 その静寂を。

 「ようこそ御出でくださいました。歓迎します、客人。
 ――――先輩……うん、先輩だ。やっほー、せんぱぁい!!」
 「――――クリス」

 クリストファー・クリスティの無邪気な声が破った。
 その姿は、豪華絢爛。大胆にカットされ、背中まで外気に曝している純白のドレス。首からはハートを象ったサファイヤのペンダント。頭には金とダイヤのクラウン。靴はガラスのハイヒール。
 その姿は正に、御伽噺の『お姫様』。空想の中でしか存在出来ない儚き姫。
 ステンドガラスが、月の光を浴びて、幻想を紡ぎだす。ソレを背に――クリストファー・クリスティが無垢な笑いを浮かべていた。
 ――――吐き気がする。
 偽りの装飾。空想のみに実を見出すその精神性。虚飾と嘘に塗れた、この世界。
 そのどれもが、錬金術師として、唾棄すべきものだ。
 (クリス……貴女の頭脳は、こんなことに使われるものではない……!)
 痛みも忘れ、ギシリ、と拳を握り締めた。
 吐き気と痛みを嚥下させ、シオンは口を開き、放つ。
 問いの、穿ちを。
 「……ブラック・バレルを返しなさい。貴女、自分が何をやったか、理解しているのですか」
 引き絞った敵意の視線。
 だが、それを受けてもクリスは無邪気な笑みを崩さない。
 「あーそれ無理ですよぉ。今、私持ってませんもん。私だって先輩の迷惑になるようなことはしたくなかったんですけどー、お姉様がどうしてもって言うから仕方なく」
 からから、とクリスは笑った。
 「お姉様……? それが貴女の後ろにいる人物ですか。――――誰の、ことですか?」
 ぎしり。
 脳髄が軋む。
 もう一つの思考(じぶん)が語りかける。
 (そんなことは、分かりきったことだろう? シオン・エルトナム・アトラシア)
 理性が放つ結論に、感情が暴走する。

 「? お姉様はお姉様ですよ。アリスお姉様(・・・・・・)シンデレラ(わたし)(ドレス)をくれた、魔法使いのお姉様」

 それが、決定的だった。
 ……私は、最後の最後まで、あの子を信じたい。信じ、たいのです……!
 からからと喉が渇いていく。
 全身から水気が消える。
 枯渇する精神の代わりに潤沢する感情。
 器から溢れるものは何だ。希望か祈りか慈悲か懇願か。
 問いの穿ちは自身に還る呪いのようで――――放たれた槍は自身の感情(むね)を抉った。
 過去の言動が蘇る。
 ……私は錬金術師だ。情に流され――――
 ああ、私は、あの時、何て言ったんだっけ?
 ――――決断を間違えるようなことは、しない
 決断って、何だっけ。
 ぎちり。
 頭の中で歯車が噛みあう音が聞こえた。
 溢れた水。純度を高めていく何か=B今、器を満たしているものは――――

 ――――自らの手で、引鉄を引け

 引鉄を引く、正義(このゆび)だけだった。

 「な、んで……?」
 枯渇した精神が、ギリギリの境界で、言葉を作る。
 「何でって。決まってるじゃないですか。私が灰被りだからですよ(・・・・・・・・・・・)。魔法使いが来て、お城の舞踏会に行くのは当たり前でしょう?」
 くるり、と段上で舞う白いドレスに身を包んだシンデレラ。
 それは少女が幼き日に垣間見た理想の主人公。夢見た夢幻は今ここに。綺麗な空想(せかい)は醜い現実(おだく)に産み堕とされた。
 (ああ――――クリス)
 「貴女は最初から、

 壊れて、いたのですね――――」

 涙が一つ。頬を伝った。
 欠落した精神。灰色の脳髄。原因は彼女か世界か。それは未だに分からない。
 だけども、シオンはその手に引鉄を握る。
 きっと、もう取り戻せるモノなんて――――――――
 「クリス、最後に一つだけ聞きます。久遠寺アリスから、その力を与えられたのでしょう? なら何故、人を殺したのですか。力を持っているのなら、必要の無いことでしょう。しかも、仮初めとはいえ、同業の仲間達を」
 既に乾いた瞳に、敵意を乗せ、段上のクリスを睨みつける。
 それに幾分も動揺せず、楽しそうに歌う。それはまるで汚れを知らない乙女を演じるようだ。
 「お姉様が私にくれたのは、あくまで切っ掛けですよ。種を発芽させるには栄養が必要なのは当たり前でしょう。存在という、犠牲(えいよう)が。優れた能力には優れた代価が必要。吸血鬼に血液が必要なように、『偽・真祖(わたしたち)』は存在を糧に生きるんです」
 それには錬金術師――魔術師という人間がうってつけだった。ただ、それだけの話。
 「……そうですか。それを聞けば、もう十分です」
 すぅ、と大きく肺に空気を入れる。
 冷気が火照った体を冷やし、感情を凍結させる。
 さぁ、いこうか。
 「クリストファー・クリスティ。私は、貴女を――殺します」
 差し込む月光の下、シオン・エルトナム・アトラシアは宣言した。
 ぴたりと。
 クリスの動きが止まった。
 それを見てか見ずか、シオンは地面を蹴る。
 速度が生まれ、風景が流れ始める。
 手にするは、黒き銃身。否定(ニアウト)≠フ意を込めた弾丸を収めた、目の前の少女を殺すためだけに振るわれる殺意の銃口。
 刹那の速度を以って、今、シオンの腕が上がり――――

 「ねぇ、先輩。私達の仲間になりません?」

 クリスの言葉に、引鉄を引く指が硬直した。
 次の瞬間、クリスが腕を広げると。
 ずずず、と闇から這い出るように、トランプの兵士と魔獣が現れた。
 否、現れたのはそれだけではない。
 子供がいた。鳥がいた。剣士がいた。ネズミがいた。ブリキの機械がいた。魔法使いがいた。フクロウがいた。犬がいた。豚がいた。鏡が狩人が兎が天使が悪魔が神までも――――
 ありとあらゆる童話寓話の登場人物が、エントランスを埋め尽くしていく。
 そのどれもが、夥しい魔力を帯びており、トランプの兵士や魔獣と同等――いやそれ以上の畏怖を与えてくる。
 「な――――」
 シオンは思わずたじろいだ。
 これほどの量、例え封印指定の執行者たるバゼットであっても捌ききれるかどうか。
 戦闘能力がバゼットより低い自分では、言わずもがな、だ。
 恐らくクリスの指先一つ――否、意志一つでシオンを意志無き肉塊に出来る。
 「ほら、先輩。そんな物騒なもの降ろして、私の話を聞いてくださいよ。ね?」
 御伽噺の住人の主たる彼女は、そう言って笑った。
 いつもの笑顔、いつもの声で。
 (流石に……分が悪いか)
 大人しくシオンは銃を降ろす。
 それでも敵意を弱めることだけはしない。
 こつ、クリスが一歩踏み出す。
 「可愛いでしょ? 皆、私のお友達。魅力的な脇役。素敵な素敵な私の世界の住人達」
 「――反吐が出ますね」
 「やっぱり先輩には、この可愛さは分かりませんか……。私思ってたんですよ、先輩はちょっと無骨すぎます。もっとオシャレしたらすごく可愛くなるのに。とっても綺麗なのに勿体無いです」
 うんうん、と頷くクリス。緊張感はゼロ。
 いつもの顔で、いつものように声を紡ぐ。
 それが――どうにも、シオンには気に食わない。
 「――余計なお世話だ」
 相手がどんな状態なんて関係ない。
 そう、やるべき事は一つ。
 シオンは神経を尖らせて、隙あらば銃弾を撃ち込もうとする。
 相手は隙だらけだ。しかも、この距離ならば外すことは無いだろう。
 だが、他に敵が多すぎた。
 御伽噺の住人は主人を守るようにクリスを取り囲み、そしてシオンを取り囲んでいる。
 今やシオンはクリスの掌の上だ。
 (さて――――どうする)
 「まぁ、それは後でどうにかするとして。先輩、私達の仲間になりましょうよ。いいですよーこの体は。あ、別に何か取られるわけじゃありませんよ。お姉様はとっても優しいのです。私が先輩をお仲間に誘ってもいいですか、って聞いたときも、すぐいいって言ってくれましたし。その代わり、簡単なお使い頼まれましたけど、ね」
 ――――……ブラック・バレルをアトラスから強奪することが、簡単なお使いですか。言ってくれる……!
 無論、そんな提案など、シオンにとって論外だ。
 「お断ります。私が不利益しかない提案を受け入れると、本気で思っているのですか?」
 そう断じると、クリスはふぅと溜息を吐いた。
 「……やっぱり先輩はガンコだなぁ。確かに不便なことはありますけど……大丈夫ですよ。仲間もたくさん、それにアリスお姉様もいますし。何より、先輩は自分の望みを叶えることが出来るんですよ? ほら断る理由なんて、何処にも無い」
 自分の望みが叶う。
 そう語った彼女は心底嬉しそうだった。
 シオンはそれを一笑する。
 「は――――久遠寺アリスの仲間になれば、『偽・真祖(デミ・アルテミス)』になれば、私の望みが叶う? 何を馬鹿なことを。吸血鬼化の促進を以って、吸血鬼化の治療を完成させるなんて、不可能に決まっているでしょう。それこそ本末転倒だ」
 そう、久遠寺アリスとシオン・エルトナム・アトラシアは決定的に相容れない思想を持っている。
 吸血鬼化の治療。
 吸血鬼化の促進。
 二人は対立存在。
 決して、交わることの無い平行線――――

 それを聞いて、ぴたりとクリスの動きが止まった。
 笑みが消え、ただ呆然とシオンを見つめている。まるで心を見透かしているように。

 「違うでしょう(・・・・・・)? 先輩(・・)

 ドグン。
 ――――止めろ。
 なぜか脳が警鐘を鳴らす。瞳孔が開く。顔の筋肉が緊張で硬直する。
 これ以上は聞いてはならない。それは開けてはならない(・・・・・・・・・・・)
 それに気付いたら、シオン・エルトナム・アトラシアの根幹が崩壊してしまう。
 それでも、シオンは雷に打たれたように、動かない。
 否、動けない。
 クリスの言葉は、鎖となって、シオンを縛りつける。

 「貴女の望みは、そんなことではない。吸血鬼化の治療? それは目的であって、望みではない。望みとは、目的を為そうとする原動力。そうありたい≠ニ思うことこそが、望みと呼ばれるもの。故に貴女のソレは望みではない。
 ――――ねぇ、先輩の望みってなぁに?」

 ドクンドクンドクン。
 心臓が、うるさい。
 ――――ドグン。
 鼓動が胸の筋肉を破裂させようと一際大きく鳴った。
 そうだ。明確に彼女の言を否定するのなら、どうして引鉄を引く指は止まった?(考えるな)
 私の望み?(考えてはいけない)
 そんなことは、決まっている。(開くな)
 そう、あの四年前のワラキアの夜から。(お願いだから)
 私は――――(その扉を、開けないで)

 「私、知ってますよ。いつか、うちに遊びに来た東洋の男の人。二年前、先輩が受け取った結婚式の招待状。そこに映っていた人――――」
 クリスの口が、頬を裂く様に、吊り上る。
 狂気の三日月が、昇った。

 ああ、つまり、私は、ただ志貴に、()められたいだけで。
 今でも私は志貴のことが――――否。
 禁忌の扉が、開く。
 「あ、ああああぁああああ」
 ぎぎぎ。
 ああ、音がする。
 シオン・エルトナム・アトラシアが崩れていく。
 頼むから、それだけは。
 私の心に触れないで。お願いだから……
 気付かせないで。
 思い出させないで。
 ああ。ああ。
 だから、開けちゃいけないって、ゆってるのに――――――――――!!!!!

 「違うでしょう? もう先輩は知っているはずです。自分の望みを。その、汚い欲望の最奥を」

 狂気の三日月が、こじ開ける。
 欲望に塗れた本心(のぞみ)を引きづり出す。
 もう――止められない。

 「そう。
 ――――――――――――貴女は単に、彼に抱かれたいだけでしょう(・・・・・・・・・・・・・・)?」

 私は、志貴に、愛されたかった。
 振り向いて。振り向いて。
 こっちを見て、私を抱きしめて――――――――

 「ああああああぁあああああああああああああああああああああああああぁああああああああああアアアアアアアアアアアアアア亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜ァァァァァァァア阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!」

 走った。
 何もかも考えられずにただ駆けた。
 七つのエーテライトが乱舞する。銃口が吼える。
 微動だにしない御伽噺の住人を、城の壁を、シャンデリアを、高級そうなツボを、石像を。
 目に入るありとあらゆるものを破壊していく。
 それは、まるで癇癪を起こしている子供のようだった。
 感情は暴走し、理性は駆逐されていく。
 メーターは振り切れ、天秤は破壊された。
 堰をきった感情は、原初の衝動を呼び起こす。
 泣いた。今まで抑えていた感情(ダム)は崩れ、衝動(みず)が勢い良く射出される。
 最早、思考は壊れ、何もかもが流れいく。
 取り繕った仮面が地面に落ちて割れた。
 泣きじゃくる。泣きじゃくる。
 顔面が、涙と鼻水と涎で汚物に塗れる。
 汚濁に飲み込まれていく。深淵に堕ちていく。楽園(エリュシオン)から奈落(アビス)へ堕ちていく。
 シオン・エルトナム・アトラシアがコワれていく――――――――

 「仮面を外した衝動。剥き出しの感情。汚濁塗れの綺麗な顔。これが、本当の先輩。――――素敵素敵素敵素敵素敵素敵……!!! 駄目駄目。そんな顔見せられたら、私……私」
 恍惚の表情を浮かべるクリス。堪らなくなったのか自らを慰め始めた。脊髄に直接快楽を叩き込まれているな絶頂。
 銃弾とエーテライト、それに飛沫が飛び交う中で、それは異様な光景だった。
 破壊の台風となったシオンによって、あらゆるモノが砕け、蹂躙されていく。
 しかし、それは理性の無い暴走だ。
 そんなものは――完璧なる理性の前には通用しない。
 つぅ、と余韻を残し、右腕が上がった。
 シオンに破壊される速度よりも、更に早く、クリスの僕が数を増していく。
 「――捕らえなさい」
 姫の一言で一斉に動き出す従者。
 衝動のままに破壊を撒き散らしてるシオンを取り囲み、一瞬にして、その体を捕縛した。
 「あうああああぁああああうぁぐ、だ、うううううううううう」
 四肢を押さえられ、それでもシオンは暴れようとする。
 しかし、掴まれる力は尋常では無い。まるで石のように硬く、微動だにしない。
 シオンは、さながら標本のように捕らわれた。
 コツンコツン、と一歩ずつ、クリスはゆっくり階段を降りてくる。
 コツン。一歩。
 ――――涙が止まった。
 コツン。二歩。
 ――――感情が死んだ。
 コツン。三歩。
 ――――精神が死んだ。
 コツン。四歩。
 ――――声が死んだ。
 コツン。コツン。コツン。コツン。
 クリスが歩くたびに、シオンは亡くしていく。
 自分の全てが、今まで培ったモノが崩れて、ボロボロになっていく。

 ――――そうして、最後に自我(じぶん)を亡くした。

 「ああ、先輩。可哀そうに。こんな人形みたいな顔をしちゃって……」
 クリスが言うように、だらんと人形のように四肢を掴まれるまま、シオンは微動だにしない。
 顔面は蒼白で、視線は遠い。何処かを見ているようで何処も見ていない。
 その様に、また欲情したのか、言葉とは違い、恍惚の表情を浮かべる。
 するり、と蛇のようにシオンに絡みついた。
 「先輩……こんなにお顔を汚しちゃって……」
 ん、と艶っぽい吐息を漏らし、汚濁に塗れた顔に舌を這わせる。
 「ああ、先輩の汚濁(りせい)……美味しい」
 月光、差し込む城内。そこに白の姫が、従者を従えて、背徳感に身を震わせていた。
 そのまま舌を首筋、そして耳元へと這わせる。
 官能の吐息と共に、囁く。
 「私、ずっと先輩とこうしたかった。先輩を自分のモノにしたかった。ずっとずっと夢見ていた。私の世界には先輩は、どうしても表現できなかったから。物語と違って、貴女はリアル過ぎる。ああ、この短いスカートから見える白い素肌。なんて綺麗……これが直ぐ側にあるなんて、夢のようだわ――――」
 シオンの服を下着ごと破く。
 布を裂く音が虚空に響いた。
 月光に晒された柔肌。それを溶けるようにクリスは見つめ――やがて、舌を這わせた。
 シオンはされるがまま、その蹂躙を受け入れていく。虚ろな目が、その行為を空しく映した。
 「ん……柔らかい。なんて美味。なんて芳醇。まるでエデンに生った果実のように――甘い」
 シオンの豊かな双丘を唾液で濡らしていく。手と舌で嬲り、穢れを知らないソレを、蹂躙していく。
 クリスは体を、擦り付け、絡み合う。
 そして。
 「ねぇ――――先輩。仲間に、なりましょう? そうすれば、あの写真の男を、貴女は望むがままに、出来るんだよ?」
 虚空を見つめる瞳が、ぴくりと動いた。
 それを確認すると、ニヤリと哂う。
 「……ええ。いくら結婚相手がいようと関係ない。真祖の力は、ありあらゆるものを魅了する。そう全てが思いのままに……」
 「思いの、まま……」
 「ちょっと妬けちゃいますけど……私は先輩の側にいるだけでいいの。そう……私の主人公はシオン先輩じゃなきゃ駄目。私は脇役でいい。貴女の人生の中で、共に在る脇役の一人で……」
 ん、と口付けをする。
 舌先を挿入した、深い深いキスを。
 柔肌を撫でる指先をそのまま下へ。スカートから生える、白い太腿を撫で回す。
 そして。
 「さぁ――――頷きなさい。そうすれば、彼は貴女のモノ――――」
 そのまま下着の中に手を入れると同時。
 悪魔のように、優しく囁いた。

 ――――天使のような笑み。

 「――――――――」
 そして、胡乱な意識は言われるがまま首を縦に――――

 「おおおぉおおおお!!!」
 闇の中、閃光が乱れ飛ぶ。
 唐竹。袈裟。右薙。右斬上。逆風。左斬上。左薙。逆袈裟。刺突。
 一瞬にして九つ。十八。三十六、いや、それ以上の回数、視認出来ぬ速度で、剣撃が乱れ飛ぶ――――!
 走る。
 光弾を破砕しながら、七夜志貴が夜闇を切り裂くように、駆けていく。
 「ち――――」
 ふわり、と久遠寺アリスが浮いた。跳躍ではなく浮遊。人在らざる身だから可能な芸当。
 だが。
 「レン!!!」
 黒猫の少女が、更に大きく跳躍した。
 ぐるん、大きく縦回転。その両の拳を、魔術による煌きを伴って、アリスへと打ち付ける。
 轟音と衝撃。
 重力と共にアリスの体が、地面へと叩きつけられる。
 上がる粉塵、アリスの体は見えない。
 だが、志貴はお構いなしに駆け出す。
 「やってくれるわね……!!」
 一閃。
 粉塵を切り裂きながら、ナイフを振りぬいた。
 それを紙一重で避け、アリスはその足で蹴り上げる。
 「ふ――――――――」
 志貴はインパクトの瞬間、跳躍、ムーンサルト。
 完全に衝撃を殺す。
 宙に浮きながらも、志貴は思考する。その、疑念を。
 (――――手ごたえが無さすぎる)
 過去、志貴は久遠寺アリスを幾度か戦闘を重ねた。
 毎度毎度、不可思議な術に惑わされ、結局は逃げられる。その繰り返しだ。
 だが、今回は、違う。
 あまりにもか細い。転移も使ってこないし、不可思議な術も使ってこない。
 ただ自身の魔力による光弾を放つだけだ。
 無論、確かに一撃一撃に必殺の魔力が込められている。一発でも命中すれば、七夜志貴は爆砕する。
 しかし、避けられない速度ではない。
 ゼロかトップスピードまで過程を、ほぼスキップ出来る志貴の足と反射神経ならば、避けることは簡単だ。
 (何か、企んでる……?)
 志貴は考えるが、答えは出ない。憶測は確かに立つ。陽動誘導、必殺の罠――――そのどれもが考えられ、それでも志貴は。
 「お前が、何を企んでいようと……関係ない」
 そう言い放った。
 いつだって殺人貴の刃は、相手を殺すことだけに振るわれる――――
 地面に着地。相手はまだ振り上げた足を下げている動作の途中。彼我の距離は三メートル。一息で辿り付ける距離だが、アリスの動作の隙を突くには遠すぎる。
 だから。
 「――――レン」
 こくり、と分かっている≠ニ頷く。
 レンはその掌を志貴に向けていた。
 志貴からレンに魔術が流れる。――――強化の魔術が。
 志貴は殺人貴であっても魔術師ではない。直死の魔眼を持っているが、ただそれだけの人間。
 だが、使い魔は別だ。
 黒猫、レン。
 八百年という長い時を経て、すでに魔として独立できるほどの実力を持つ、七夜志貴の最強の使い魔――――――――!
 足にレンの魔力が走る。
 強化するのは脚部だけ。体全部を強化するには、時間が掛かりすぎる。
 しかし、それで久遠寺アリスを殺すには、十分だ。
 「はぁ!」
 瞬間、蹴り出したコンクリートの地面が、文字通り爆ぜる。
 爆発的な加速。
 志貴は、高速を越え、瞬速――――刹那の世界を生きる。
 「く――――」
 アリスは慌てる。最早、魔術の構築など間に合わず。蹴り上げた足は戻らず。

 ――――七夜志貴のナイフは、久遠寺アリスの点≠貫いた。

* * *

 貴女は単に、彼に抱かれたいだけでしょう(・・・・・・・・・・・・・・)
 
 そう、つまりは、結局そういうことだったんだ。
 私は彼の事が好きで、アルクェイドのことを知っても、なお好きな気持ちは増すばかりだった。
 ひとえに研究に打ち込むのも、志貴に喜んで欲しいから。認めてもらいたいから。……振り向いて、ほしかったから。
 結婚する、という事実も、外面では祝福していても、内心は黒々としたものだった。
 憎い、と。あまつさえ、そう思っていた。だから、アルクェイドが居なくなったと聞いて、探すこともしなかったのは、多分そういうこと。
 独占欲。嫉妬心。爛れた感情。
 ああ――なんて醜くて汚い、醜悪な心。

 だから、気持ちに、蓋をした。

 何もかもを封じ込んで、固く固く仕舞いこんだ。
 幸いにも、私は錬金術師だ。幾つもの思考を分割することが出来る私には、それが可能だった。一つの思考に気持ちを押さえ込み、そのまま鍵を掛けた。錬金術師にとって、感情を押し殺すことなど、簡単なこと。
 なのに、クリスは開けてしまった。いつの間にかに気づいていたのか、容易に私の蓋を砕いた。
 溜めに溜め込んだ衝動は、理性と知性を押し流し、漂白する。
 歯車は全て崩壊。あとは衝動に呑まれて堕ちるだけ――――

 ――――貴方は友人だ。だから果てのない契約をしたい。
 貴方が私を必要とした時、私は必ず貴方の力になる。それを許してくれますか

 何故か、そんな台詞が、最後の最後、崖の淵から蘇った。
 あの時、私は、何を思い、何を誓ったんだっけ……。

 この先、私と彼がすれ違う事はないだろう。
 それでもこの約束がある限り、私はずっと今の気持ちで有り続けられる。
 私の初めての友人、私の初めての協力者。

 そして、私の初めての――――

 約束。
 ――約束だ。
 ただ力になりたい、と思った。
 志貴は友人だ。だから、純粋に力になりたいってそう思ったんだ。
 そう、彼は初めての友人であり、初めての協力者であり。初めての――――

 『知っているはずよ、貴女も。そう――あのとき全ての答えが出ていたことを』

 ――――初めて好きになった、存在。
 それでいて、なお私は友人であろうとした。だから協力者であろうとした。
 好きという気持ちが、こんなにも大きくて、制御できないものだとは分からなかったけど。
 それでも自分は――彼と、友人であることを選んだのだ。
 何かもを知っていたわけじゃない。好きという気持ちを理解していたとは思わない。
 確かに、無知だった。何も知らなかった。
 鏡面に私が自分(わたし)が映っている。それは過去の私。今より少し幼い――四年前の自分。
 私は自分に罵倒する。
 馬鹿。何も知らないくせに。今まで人を遠ざけていたくせに。何様のつもりだ。少し協力してもらっただけで何を思い上がっている。恥を知れ。今、私がどれだけ苦しんでいるか分からないだろう。
 吼えた。ありったけの感情を自分(かのじょ)にぶつける。
 だけど、それでも笑っていた。
 鏡に映った自分は笑っているのだ。
 『――――それでも確かなことが一つだけあるでしょう』
 契約。
 約束。
 過去。
 優しい彼の笑顔。
 頑張れよ、と背中を押してくれた。
 崩れ落ちる。
 そうだった。
 たった今理解した。
 つまりは、そういうことなのね。

 こくり、と鏡の中の自分が頷く。
 そして、私達は同時に言った。
 ああ――そうだ。

 『――――私は、あの契約を、嘘にだけは、したくない――――』

 嘘じゃなかった、あの時の気持ちは。
 だから、アトラスに戻れた。
 忘れていた意味を、彼は私に蘇らせてくれた。
 吸血鬼化の治療。その意味を。その理由を。
 そう、いつか、吸血鬼化を完全に治療することが出来たなら――必ずそれは誰かのためになる。
 それは自分のためであり、志貴のためでもあり、まだ見ぬ誰かのためだ。
 そのために彼は協力してくれた。笑ってくれた。その笑顔を――――無かったことになんか、したくない。
 二年ぶりに会った彼は、もう昔とは違った。
 ……正直に言うと、悲しかった。もう一度昔の彼に戻って欲しいと思った。笑顔を見たいと思った。
 だけど――気付いたのだ。それでも彼は変わっていないと。
 変わったのは表面に過ぎなく、その根本は今でも変わってなどない。

 俺は……七夜だ。昔の俺とは違う、目的のためなら何でもする――――ただの殺人鬼、だ
 だって、あんなにも、泣きそうな顔をしていたから。
 ああ。
 それなら。
 貴方が変わっていないなら。
 貴方が泣いているのなら。
 そう、貴方と私の契約は――まだ続いている。

 貴方が私を必要とした時、私は必ず貴方の力になる――――

 貴方は私を必要となんてしないと思うけど。
 困っているなら。大切な人を取り戻そうとしているなら。久遠寺アリスを打倒しようとしているなら。……泣いているのなら。
 確かにまだ私は貴方のことが好きだ。独占欲はあるし、嫉妬心もある。
 だけども、それ以上に、嘘にしたくない気持ちがあるんだ――――――――

 難しいことはない。
 あの契約があって、今の私があるのなら。
 元々私がやるべきことは一つだけだ。
 そう、志貴。貴方が困っているなら――――

 ――――私は、掛け替えの無い友人として、貴方の力に、なる。

 この気持ちだけは、汚いなんて、誰にも言わせない――――――――!

* * *

 ぶちり、と肉が抉れる音がした。
 「――――!?」
 クリスの目が、驚きに見開かれる。

 シオンは自分で自分の舌を、思い切り噛んでいた。

 「ああ――どうして、私は忘れていたんだろう……。この気持ちだけは、忘れてはいけないことだったのに……」
 唇から血が滴り落ちる。
 口内は赤く染め上げ、激痛が脳髄を駆け巡る。
 しかし、それで意識は戻った。
 壊れかけていた部分が、急速に満たされていく。
 人を愛すること。
 それがどんなに巨大で、抗いがたいものだったのかを思い知った。
 ともすれば、自分の大事なものまで忘れてしまうほどに。
 だけど。
 あんなにも潔かった自分。高潔なるその意志、決断。
 そう下した、自分だけは、無かったことにしたくないから。
 ――――あの契約を、嘘になんてしたくないから。
 「私は、志貴の力になる。そう私が決めたんだから、私はそれだけでいい!」
 世界は取り戻せないモノだらけだ。
 伸ばした掌は何も掴めず、たださらさらと零れ落ちていくだけ。
 ――――だけど。
 それでも、この手に残るものだって、確かに存在する。

 ――――私は志貴の友達。それだけは、誰にも否定させない。

 シオンの瞳に、意志が灯った。
 明確な意識を宿した双眸は、ぎちりとクリスを睨みつける。
 「クリス、貴女と共には行かない。久遠寺アリスの仲間にもならない。そうだ。彼が久遠寺アリスのせいで困っているなら――私は絶対に同類になんて、決してなるものか!!!!!」
 吼えた。
 満身創痍。口は血だらけ。体を傷だらけ。服は破かれ、半裸で外気に晒されている。四肢は動かず、まるで人形のように弄ばれている。
 なんて無様。この上なく、見っとも無い。
 だけど、ここで首を縦に振ることは、それ以上に見っとも無いこと――――!
 漲る意志。拒絶の咆哮。
 だけども、クリスは。
 「ああ――――なんて高潔。堕落から這い上がり、一層輝く美しい精神。――――正しく物語の主人公だわ!」
 それでも、恍惚の表情を浮かべる。
 クリスはシオンから離れようとしない。
 つぅ、と柔肌に指を滑らせた。
 「でも、忘れてませんか? 貴女は籠の中の鳥だってことを。ほら、こうして私に弄ばれても、身動き一つ取れない!!」
 乳房に五指を食い込ませ、下着の中で指の動きを激しくさせる。
 「っ――――!!」
 シオンの顔が苦悶の表情を浮かべる。
 だけども、その目は、今だ爛々と輝いていた。
 「確かに、この状態で弄り放題ですね。私は身動き一つ出来ずに、今のように下卑な行動に反撃すら出来やしない。
 そう、私に出来るのは――指を動かすことくらい(・・・・・・・・・・・)
 「な――――!?」
 何かを察したのか、クリスは一瞬でシオンの体から離れる。

 刹那。シオンの周りのありとあらゆるモノが裁断された。

 コンクリートの床は抉られ、押さえつけていた従者どもを、切り裂いた。
 飛沫が、肉片が、七つの煌きの中、舞う。
 ――――エーテライト。
 それを操るのに、大仰な動作など必要ない。
 ただ、指を操る動作があれば、十二分にその役は果たす――――!
 「クリス――――――――!!!!!」
 駆け出す。
 痛む体を、引き絞り、矢のように走り出す。
 目標は、目の前の『偽・真祖(デミ・アルテミス)』。
 銃口が向けられる。
 「ち――――貴方達!!」
 ずずず、と従者が現れる。
 御伽噺の住人は、主人を守るため、シオンの前に立ち塞がる。
 シオンの周囲を取り囲むモノも含めると、その数は三桁にも届くだろう。
 「――――先輩。ちょっと四肢の一本や二本切り落としますけど、『偽・真祖(デミ・アルテミス)』になれば、すう治りますから、我慢してくださいね」
 クリスがそう哂いかけると――ソレラは一斉にシオンに襲い掛かった。
 その勢いは、正に怒涛。あまりにも数が違いすぎた。
 視線を向ける。抜け道はあるか。否。右左前後。逃げ場はない。
 ――――上以外は。
 跳躍。
 高く高く。
 自身が辿り付ける限界まで、シオンはその身を宙に躍らせた。
 それでも状況は覆らない。
 下でたむろしている御伽噺の住人達。重力から逃れられない人間では、下に落ちていくのは自明の理。
 これでは精々一時凌ぎにしかならない。
 だけどもシオンにとって――――その、一時凌ぎで十分だった。
 ガキン、と薬莢が排出される。
 ――――薬莢が、宙に投げ出された。
 そしてリロード。込めるのはたった一発の弾丸。
 ――――それが地面に落ちる前に。

 「――――神殺しの槍(ロンギヌス)=v

 ありとあらゆる神秘を殺す弾丸が発射された。

 槍の一撃が、バゼットの頬を擦過する。
 「ち――――!」
 振り向き、トランプの兵を撃ち砕く。
 次の瞬間――刹那すらラグを置かずに三匹の魔獣が、バゼットを叩き潰さんと襲いかかる。
 左右正面。逃げ場は後ろだろうか。いや、背後には槍を突き出しているトランプの兵が居る。
 (なら――――)
 バゼットはその足を、正面へと踏み出した。
 前方跳躍、そして体を捻る。
 正面からの一撃を、纏わりつくように回転し、紙一重で避けた。
 着地。魔獣の懐。隙だらけの相手。
 ――――そこに遠慮なく、拳をぶち込んだ。
 爆音。爆砕。
 次いでバゼットは、跳躍する。
 左右二体の魔獣が、押し潰すように、腕を振るったからだ。
 宙に舞うバゼットは、スーツの内ポケットから、二つ石を取り出す。
 石に刻印された文字は『(アンサズ)』。遠い国、遠い世界の魔術刻印。ルーンと呼ばれる魔術回路。それが今、炎を顕現させる。
 二つ。炎に包まれた石は、左右の魔獣に向けて放たれた。
 着弾、爆発。
 頭部が砕け、魔獣の体は炎に包まれた。
 「ふ――――!」
 ぐしゃり、とトランプの兵を踏み潰し、バゼットは着地する。
 周りを見渡すと、今だトランプの兵は多数。魔獣も今だ三体、健在だ。
 (多すぎる……!)
 倒しても倒しても無限のように溢れてくる。
 増えることはあっても、決して減ることは無い。
 敵は弱い。バゼットにとって何ら問題無い。だが、幾らなんでも多すぎた。
 元々対人戦に特化した戦闘能力だ。そのスタイルは対軍には向いてはいない。
 致命傷は無いが、そこらに切り傷があり、息も切れてきた。
 まだ体力は保つが、このままではジリ貧だ。いずれ倒れ――この圧倒的な数に飲み込まれる。
 「くそっ――――――」
 悪態を吐きながら、トランプの兵を砕く。しかし、倒した途端に、後方からまた兵が現れる。
 この無限に現れる敵たちに勝つ方法は、一つ。
 奥にいる空想具現化の術者を打ち倒すこと。
 つまり。
 「シオン・エルトナム・アトラシア……信じて、いますよ……!」
 シオンが術者を打倒するまで、この身を保つことこそが、勝利に違いない。
 そう、バゼットが思った瞬間。

 周りに、魔獣が、三十体、現れた。

 「っ――――!!!???」
 一斉に咆哮を上げる。
 びりびり、と空気を破砕するように、振動させた。
 鼓膜が破れるかと思う衝撃。
 それはまるで――バゼットに対する死の宣告のようだった。
 三十体同時に襲い掛かられたら、こっちはひとたまりも無い。
 今まで十体ほどの数でも、精一杯だった。
 その三倍の数となれば、最早どうなるかなど、言うまでも無い。
 「ちぃ」
 だがしかし、やるしかない。
 拳を構える。
 自身は封印指定の執行者。この程度の修羅場など、幾らでも経験してきた。
 けれども。
 その闘いは、常に己の拳によって、切り抜けたのだ。
 今回のように、他者に依存する勝利には経験が無いわけでもないが、それでも少ない。
 増してや、自分が相手にしているのは、無限に増殖を続ける敵だ。
 有限にしか生きられない人間は、決して無限には敵わない。それは、世の理。絶対的な相性。
 勝利は、己の拳ではなく、ある錬金術師に託された。
 バゼットは一瞬だけ、夜空を見上げ。

 「――――神のご加護を(インシュアッラー)

 初めて、神に祈ってみた。

 「オオオォォオオオオオオオ――――!!」
 魔獣が吼える。魔獣が迫る。
 ぎちり、と拳を握る。足は前へ。魔獣の群れへと、突撃する――――

 ――――瞬間、空が割れた。

 切り裂かれる。切り裂かれる。
 夜空が、十字に切り裂かれる。
 「――――――――!?」
 バゼットが驚いて、その発生源を見る。
 シオンが向かっていた巨大な城、その天蓋から。
 漆黒の極光が巨大な柱となって天に突き立っていた。
 突き立った所から、罅が入るように、極光は夜空は十字に切り裂いていく。
 次いで、地面が割れた。
 まるで振動のない地震だ。ビキビキ、と黒い罅割れ(・・・・・)が城を中心にして、広がっていく。

 ――――世界が、崩れる。虚飾と偽りに満ちた世界が、割れる。

 バゼットはニヤリ、と笑い。
 「ああ――――本当に貴方の言う通りだ。偶には、神に祈ってみるのも悪くない」
 黒く割れた夜空を、――――まるで神に祈るように、見上げていた。

 発射される。黒い銃弾が発射される。
 銃を持つ指は軽い。痛みは感じない。アドレナリンの分泌。高揚する精神。狙いを定める。何も感じない。何も思わない。そう、やるべきことを為すだけ。
 ――――そうして、引鉄は引かれた。
 神殺しの槍(ロンギヌス)=B
 あらゆる神秘を殺すといわれるブラック・バレルは、ソレ単体だけでは機能しない。
 銃と弾丸は二つで一つ。銃弾が銃に装填されたとき、初めて黒き銃身は神殺しの意を得ることができる。
 だが、今、シオンが手にしているのはレプリカ。模造品(イミテーション)に過ぎない。
 その神秘は本物に遠く及ばず。
 威力に耐え切れなかったのか、糸が解れるように、銃口は歪み、銃身は曲がり、グリップは砕けていく。ボルトが宙を舞い、プレートが捻れ、折れる。ブラック・バレル・レプリカはシオンの手の中で、ただの鉄塊へと変貌していった。
 しかし。
 ――――それでも、銃弾は、発射された。
 銃弾は、黒い夜闇を更に飲み込む深遠なる暗黒を纏いながら、疾駆する。
 上から下へ。上空から発射されたソレは――――やがて地面に着弾した。

 世界が、割れた。

 「――――え」
 声はクリスのものだ。
 彼女が何が起きたのか理解する前に、異変は訪れる。
 エントランスの中央に穿たれた銃痕。
 ――――そこから、黒い光が、噴出した。
 光は広がり、太い柱となりて、天蓋を突き破る。空を穿つように、一直線に満月へと伸びていく。
 それは正しく、神殺しの槍。
 ロンギヌスが、世界を射殺さんと天空に突き刺さる。
 空が十字に引き裂かれると同時、着弾したところから、黒い罅割れが稲妻のように走った。
 漆黒の雷が、世界を蹂躙していく。ありとあらゆるモノを飲み込み、暴走、破壊、破砕――消滅。全ては黒の闇に裁断される。
 「うそ、嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘ウソ――――!!!!???」
 クリスが狂乱する。脳が目の前の事態を処理しきれず、オーバーフローを起こす。
 その間にも、世界は崩壊していく。
 虚飾は剥がれ、装飾は壊れ、空間が鳴動する。
 ぎしぎし。
 ぎしぎし。
 軋む軋む。世界が軋んで揺れる。神殺しの刃が、その意を以って、世界に終焉を齎す。
 理想の世界は終わりを告げ、幻想と空想が裁断されていく。
 引き裂かれ、咆哮するのは世界そのものか。それともクリスか。身を包むドレスすらも引き裂き、黒の光が破壊を撒き散らしていく。
 裁断機に掛けられた世界は、捩れに捻れ――――そして粉々に粉砕された。

 ――――象徴であった満月は割れ、本来の三日月が真の月光を、辺りに散らした。

 はらはらと舞うのは世界の破片。砕かれた世界は、まるで雪のようだった。
 「終わりです。――クリス」
 銃口を、呆然としているクリスの額に向ける。
 手にしているのは銀の銃身。偉大なる銀(ヘジュ・ウル)=\―――そのレプリカだった。
 込められた弾丸は否定(ニアウト)=B目の前の化け物を、存在ごと否定する魔弾。
 「せん、ぱい……?」
 理想の具現たる夢想世界(ドレス)は崩壊し、もうクリスには何も包むものは無い。
 ――――月光の下、晒された彼女の(からだ)は綺麗だった。
 そんなことを、シオンは思う。
 「ねぇ――――先輩。私、死ぬの?」
 クリスが茫然自失とした呈で、死神たる銃身を見ながら、言った。
 「――――ええ。貴女は死ぬ。私が殺す」
 ぎしり、とグリップを握る腕に力を込める。
 一粒。涙が零れた。
 「や――やだやだやだ!! 先輩、せんぱぁい! 私、死ぬのなんて嫌です!!」
 泣いた。クリスは堰を切ったように泣き叫ぶ。
 死にたくない、と。
 人であることを止めた彼女は、最後に誰よりも人間らしく、泣いた。
 「――――――――」
 視界が白濁する。
 凍結させた感情が熔ける。
 今、目の前には居るのは、見知った知り合い。『偽・真祖(デミ・アルテミス)』なんて化け物なんかじゃない。いつもいつも謝罪と笑顔を振りまいていた、シオン・エルトナム・アトラシアの後輩だった。
 かたかた、と銀の銃身が震える。
 痛みではない。寒いわけでもない。
 恐怖だ。
 シオンは人を殺すということの重みを、今だ知らない。まして、それが長年連れ添った助手だ。その重圧は、どれほど重いのか――――

 ――――ああ、こんなにも、銃が、重い。

 「先輩――――ごめんな、さい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――――!!!」
 いつもの謝罪。だが笑顔はそこに無く、ただ泣き叫ぶ顔だけがある。
 重い。
 重い。
 重量は増していくばかり。
 震えは止まらず、呼吸は蠕動を続ける。
 片手で支えきれなくなり、遂には両手で銃を構えた。
 その時、ごめんなさい、と謝る声が、途絶えた。
 クリスは泣き顔のまま。
 「――――どうして。どうして……先輩も、泣いているの……?」
 呆然とシオンの泣き顔を見つめた。
 分からない。
 そんなことを聞かれても分からない。
 「ふ――ぐ。うぇ、は、あぁ」
 銃口はそのまま。ただ分けも分からず、嗚咽を漏らし、喘ぐ。
 「先輩、――――辛そう」
 そ、とクリスの指がシオンの顔に伸びた。
 包み込むように。抱きしめるように。
 ああ――――暖かい。
 彼女が、何をしたというのだろうか。
 確かにクリスはしてはいけないことをした。ブラック・バレルを久遠寺アリスに引渡し、何人も人を殺した。シオンの自我を揺さぶり、体を嬲り、蹂躙し、屈辱を与えた。
 それでも、それでも――この指は暖かった。
 彼女は、ただ知らなかっただけ。自分がしていたことが何なのか。自我は欠損し、判断の境界は崩壊している。外面は何でもないことを装っていたが、その内面は壊れていたのだ。

 ――――クリストファー・クリスティは、シオンを愛していた。それだけ。ただ、それだけなのに。

 シオンは愛が、どれほど制御不能で莫大なものか、その身を以って知っていた。だから、彼女が悪いと一概に断言できない。
 そう、クリスは自分だ。
 一歩道を踏み出せば、自分もこのようになっていただろう。
 なら――誰に原因がある。これを為したのは、悪いのは、一体なんだ。間違っていたのは、誰だ。
 道を踏み外したクリスか。切っ掛けを与えた久遠寺アリスか。彼女を育てた環境か。それとも、生み出した世界そのものか。
 ――――否。それは自分。彼女の想いに気付かず、そして知っても、耳を塞ぎ自らのことしか見ていなかった。間違っていたのは誰でもないシオン・エルトナムだったのだ。
 だから、これは、自分の責任。
 想いを知って、なお放って置いた、自分の業。これから一生背負って歩く十字架だ。

 ああ、でも。けれども
 ――――この指は、まだ暖かいのだ。

 きっと引鉄を引けば、もう取り戻せない。
 取り戻せるものなんて、何処にも無い、この世界で。
 シオンは自ら、手放さなければならない。
 だから、泣いた。自分の責任に。業の深さに。砂粒ほど残っていないソレを、自ら手放すことに、嗚咽し、号泣する。
 失いたくない。失いたくない。この暖かさを。この存在を。
 だけども、引き返せる時なんて、とうに過ぎていて。
 後はもう引鉄を引く正義(このゆび)しか残っていない。
 逆行しない時間。
 その無情。
 クリスの指。
 温もり。
 命。
 愛。
 存在。
 ――――涙。

 ああ、私はきっと――――

 つぅ、とクリスの指が落ちる。
 そこには泣き顔は、もう無かった。
 いつもの笑顔。
 穏やかで愛くるしい、暖かな笑顔だった。
 笑って、彼女は言う。

 「――――私、シオン先輩のことが好きです」

 最初で最後の告白を。

 そう、私はきっと――――

 「――――ああ、私も、クリスのことが、好きだ」

 ――――彼女のことが、好きだったのだ。

 シオンは静かに微笑(わら)って、引鉄を引いた。
 乾いた銃声が、月光流れる夜闇に溶けて、消えた。
 しんと骨が軋む。凍えそうだ。
 此処は何て寒くて、冷たい場所なんだろうと。
 そう、思った。

 そうして異変。崩壊。
 眉間に撃ちこまれた銃弾から、パキパキと割れる。
 罅が入って、クリスの体が砂へと還っていく。
 その最後の刹那。

 ごめんね。先輩。

 いつもの謝罪の声が、聞こえた気がした。
 「……――――謝るぐらいなら、最初からやらなければいいのに。最後まで、貴女は……っ」
 カラン、と銃が落ちる。足から力が消え、膝を崩し、蹲る。まるで砂へと消えた彼女を抱きしめるように。
 「ひ……くぅ、うぁ……あああぁぁあああ、う……クリ、ス、ご。う、うぅぅ、く、ご、めな。さ。
 ――――御免なさ、い……クリス……」
 シオンは、もう届かない、彼女に対して、最初で最後の謝罪を嗚咽と共に吐いた。
 涙が視界を滲ませる。
 「う……ぁ」
 溢れて止まらない涙。
 「あ、ああああああ」
 感情が決壊し、何もかもが慟哭として、噴気する。
 「っ――――――!!!!!!! 御免ね、御免ねクリス!!! 私、私――――……っつ、ああああああああああああああああああああああああぁぁあああ!!!!!!」
 泣く。泣きじゃくる。
 子供のように。
 堰を切った感情と涙が決壊し、慟哭と嗚咽と涙が溢れ出る。
 涙が止まらない。嗚咽が止まらない。
 止めようとも、思わない。
 慟哭は月光の下、咆哮のように震わせた。
 それは、まるでクリスに対するレクイエムのようで――――

 「わあああぁぁぁああああああああああ!!! あぁああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」

 シオンはその意識が無くなるまで、月に向かって吼え続けた。

 ――――きっと、取り戻せるものなんて、何処にも無いんだ。
 失ったものは大きく。
 失ったものは取り戻せない。

 手に入れたのは、銃身の、冷たい重みだけだった。

 

.......to be continued

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