かくして不思議の国のお話がそだち
ゆっくり、そして一つ一つ
その風変わりなできごとがうちだされ――
そして今やお話は終わり
そしてみんなでおうちへと向かう
楽しい船乗りたちが夕日の下で

――『不思議の国のアリス』巻頭詩

 ――本だけが、私の世界。だからいつも本の中に入りたいって、そう思ってたんだ。

 小さい頃から、私は何をやっても駄目な人間だった。
 徒競走も。料理も。絵画も。偶に何も無い平地でも転ぶこともあった。……つまり私は、歩くことすらもままならない人間だったのだ。
 致命的なまでの不器用さ。それは実の両親にすら呆れられるほどのものだった。
 唯一、神様が私に与えてくれたものがあったのなら。
 ――それはこの頭だ。
 私は妄想力、想像力と言われているものが、ずば抜けていた。
 例えば、一つの風景画があったとする。
 普通の人なら、精々描かれている風景を脳内にイメージが出来上がるくらいだろう。けれども私は違う。
 そこに描かれている風景。流れる空気、雲、人々の声、息遣い、時間による陽の光の変化を克明にイメージ出来た。
 私は、架空の幻想から、ありとあらゆる現実を空想する。
 言うなれば、世界の創造。些細な切っ掛けから、私は脳内に世界を創ることが出来る。
 だが、それに何の意味があるというのだろう。
 脳内に幾ら精密な世界を創ったところで、所詮は脳内だ。閉鎖した箱庭。完全で完結している閉じた世界。
 ……私には、それを生かす手段が無い。だって、私が完全なのは脳内(なか)の世界だけ。肉体(そと)の世界なんて、不器用な私にとっては荷が重すぎる。分不相応というものだ。頭でっかちな私は、内に閉じこもることでしか、自分と言うものを示せなかった。
 ――だから、本という媒体は、私にとって都合が良かった。
 些細な切っ掛けで世界を『想像』する私は、一行読めば世界の雰囲気が、二行読めば息遣いが再生される。ありとあらゆる台詞が命を持ち、登場人物の声が再生され、音は幻想を超え現実のものとなる。
 私にとって、本というのは、もう一つの世界への入り口なのだ。物語(フィクション)というのは得てして人々に希望を与える物。何も出来ない私にとって、それはとても甘美な誘惑だった。
 だから堕ちた。本の世界(げんそう)のみにしか、私は生きる糧を見出せなかった。
 幻想に生きる妖精。そんな下らないフレーズに、私は酔っていた。
 ――つまり、本だけが私の世界だったんだ。
 希望に溢れる物語に触れるときだけ、私は唯一の安らぎを得る。
 空想に耽り、自己の中に埋没する。その行為が堪らなく快感だった。
 ああ、いつだって私は本の中に入ることが出来たらいいなって思ってたんだ。
 どうしようもない、どうすることも出来ない現実を飛び越えて、光溢れる世界へと――――

 ならば、その願い。私が叶えてあげましょう
 そう彼女は問うた。まるで絵本の中に出てくる魔法使いのように、私に笑いかける。
 人を越えた望みは人を越えることでしか叶わない。その覚悟が、貴女にもあるのなら――

 ――――それは、天使のような笑みだった。


4/
 過去[“The Queen's Croquet-Ground”]


 「久遠寺、アリス――――!」
 呟きと共に、シオンは瞬時に身構える。
 それを見て、アリスは意外そうに。
 「あら、私のこと知ってるんだ。……そう、そこに居る使い魔のマスターにでも聞いたのかしら?」
 言って、くすくすと笑い出した。
 何が可笑しいのかと不審に思うシオン。だが、そんな余分なことを思っている暇はない。
 ――そう、私には、聞かなければならないことが、ある。
 「……久遠寺アリス。貴女が本当にロンドン……そして此度エジプトで起こった殺人を為したのですか」
 冷淡な瞳がアリスを射抜く。
 アリスは動じることなく、むしろどこか楽しげだ。
 「違うわよ。私は、ただ背中を押してあげただけ。実際に事件を起こしたのは私ではなく彼女達よ」
 志貴ではない――――
 心中で密かに安堵した。信じて、というレンの言葉は真実だったのだ。
 (……すまない、志貴)
 呟き、再びアリスを睨む。まるで罪悪感を叩きつけるように言葉を放つ。
 「――よく言う。つまり自分に都合の良い人間を扇動し、『偽・真祖(デミ・アルテミス)』なんていう怪物に仕立て上げた。ならば、やはり犯人は貴女だ。目的は、実験=c…というところですか」
 ピク、とアリスが反応した。
 今までの余裕の笑みが消え、殺すと言わんばかりの目線をシオンに向ける。
 「……へぇ。流石に頭の回転は速いわね。エルトナムの名を継ぐだけはあるということかしら」
 「そう考えれば自然なだけです。真祖――アルクェイド・ブリュンスタッドを攫ったという事実、未完成な術式を施されたロンドンの犯人の死体。その全てが、貴女の目的が一つの実験だったということを示唆している。そう――自らを完全な真祖へと為すための(・・・・・・・・・・・・・・・)
 その視線に負けぬ、とばかりに鷹のように目を絞る。
 真実を確かめるために、シオンは言葉を続ける。
 「――何のために、とは聞きません。……本来ならば、非常に馬鹿げたことです。世界を巻き込んでの実験など、魔術協会は黙ってはいない。代行者にも目を付けられる。だが――ここら一帯を囲っている結界は、そうそう破れるものではない。異常を異常と分からせない、完璧な閉じた箱庭。
 ――貴女の研究、相当の域で完成していると見るべきだ」
 「……そう。やはりアナタは厄介ね。そのくるくる回転する頭と紛い物とはいえ神殺しの担い手……私の計画に、そんなのは要らない」
 す、とアリスの目が細まる。
 空気が重くなったような殺意。それでもシオンは言葉を紡ぐ。
 「やはり、ブラック・バレルが目的か。そのためにエジプトで事件を起こしたのですね。……確かにあれならば、『偽・真祖(デミ・アルテミス)』など敵ではない。レプリカでも事足りる。
 ああ、ここまでは確かに貴女の計画の範囲内でしょう。だが私は知ってしまった。上手に隠していたつもりでしょうけど、そうはいかない。何事にもイレギュラーは存在するということを貴女は知るべきだ。貴女は起こしてはいけない死神を起こしてしまった。
 ――そして、貴女の元パートナー、ミス・ブルーが動き出した。魔法使いを相手に、今までのような――――」
 思わず、口を噤んだ。
 ドグン、と心臓が早鐘のように脈打つ。理性よりもっと原始に刻まれた本能が警鐘を鳴らす。
 それは異常だった。
 ゾっとする殺意。剥き出しの憎悪。だが、それよりも圧倒的な――――歓喜という感情が、空間を満たす。

 其処には、笑みなんていうレベルを通り越した、久遠寺アリスの迸るほどの『喜』の感情が表情に刻まれている――――

 シオンは思う。
 ――久遠寺アリスは既に人間ではない。
 あんな、あのような表情を作ることの出来る人間などこの世には居ない。
 笑い声が、聞こえる。
 「く、くくくく。ああ、確かにそれは計算外だわ……。こんなに早く彼女が動き出すとは思わなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。流石、青子――私が唯一認めた人だけはある。くくくくく」
 笑う。哂う。世界を嘲るように声を上げる。
 ――最早、会話は不要。
 そう判断したシオンの行動は早かった。
 「ふっ――――――――!」
 空を裂くように走る七条の銀閃――――エーテライトが久遠寺アリスを裂こうとする。
 一度に七本操る、という妙技を前にして、しかしアリスは動かない。
 目前まで迫った七糸は如何なる達人であろうと避けられるものでは――――
 「――――『その攻撃は、私に届かない』」

 呟いた瞬間、糸はピタリと宙で動きを止めた。
 
 「な――――!?」
 シオンは驚きに目を見開く。
 決してエーテライトを止めたつもりは無い。それどころか、今だにアリスへ動いている感触(・・・・・・・・・・・・・・)すら手の内にあった。
 エーテライトから伝わる衝撃、振動は確かに空を移動しているもの。だがしかし現実には止まっているように見える。
 (どういう――)
 ことだ、と思う前に、シオンは横から何かが駆け出す音を聞いた。
 レンだ。
 き、とアリスを睨む瞳には、確かに魔力が宿っていた。
 夢魔が持つ魔眼。それは強制的に人を現実から幻夢へと堕とす幻惑の瞳だ。
 アリスはそれを一瞥しただけで、魔眼の力を消し去る。ラグは刹那の時間すら存在しない。そう、魔力を自らに流す時間すらも。
 「低級の家畜(つかいま)程度の魔眼で、私がどうにかなるとでも――――む」
 だが、レンはそうなることを知っていたのか、次の手を既に打っていた。
 アリスが魔眼を相殺し、口を開いていた瞬間には、もうアリスの頭上にレンの魔術が発動していた。
 それは鋭利なガラス片を彷彿させる、透明な刃。その数、両の手で数えられるものではない――――!
 レンは何の躊躇もなく、それを落下させた。煌きながら落ちていく刃は、見る者に死を予感させるほどの美しさを持っている。
 (これは、当たる――!)
 自然界の法則、世界の理、物理法則は、瞬時にシオンにアリスの死を計算の答えとして寄越した。この凶刃の郡を避けることは、物理法則に守られているこの世界では不可能だ。故に、アリスはその脳天に幾本もの刃を貫かれるだろう。
 ――だが、アリスはその法則さえ無視した。
 ザクザクザクザク。透明な刃が何かを貫く音が聞こえる。しかし、アリスは――

 いなかった。刃に突き刺され、血と脳漿をぶちまけているはずのアリスの姿は何処にも無かった。

 「あ――――」
 思考が漂白される。突然の事態に計算が追いつかず、計算処理機(のう)はオーバーフローを起こす。
 シオンが気付いた時には既にアリスが自分とレンの間に移動していた後だった。
 ゴッ、とレンが不可視の衝撃によってコンクリートの壁に叩きつけられる。
 「油断なら無いわね。ペットとはいえ、流石真祖の使い魔だったことはあるわ」
 衝撃に気を失ったのか、レンはくたりと体から力を抜いた。
 (まさか、さっきのは統一言語(ゴドーワード)? いや、違う。それだけなら、あの空間転移染みた瞬間移動に説明はつかない――!)
 空白の思考を再起動し、アリスが為した行動について予測、分析する。だが、それは満足な結果を出さないまま――
 ――標的を変えた、アリスの瞳と目があった。
 爛々と輝く、狂気の眼。
 殺される。脈打つ心臓とは別に、培ってきた高速思考は瞬時に、その答えを導き出した。
 動き出すアリス。予測された未来。決定された結果。
 いつかの記憶が再生される。未来が変えられないと泣いたのは、一体誰だったか――――
 ――――冗談。
 「!」
 今まで何にも動じなかったアリスの顔が驚きに見開かれる。
 シオンの手には、神殺しの銃の模造品(ブラック・バレル・レプリカ)が握られていた。
 「――――オベリスク」
 太陽神の加護を受けたが如く輝きを撒き散らしながら、銃弾が久遠寺アリス目掛けて射出された。
 ちっ、と舌打ちをし、即座に宙に飛びのくアリス。
 (なるほど、あの瞬間移動は即座には発動しないものか。なら、そこに付け入る隙は――ある!)
 銃の反動を受け、吹っ飛ぶ体を自覚しながら、流れるように思考する。それはまるで決定された未来を覆すような意志。
 ザザザザ、と後退する体。その眼は今だアリスを見つめている。
 間髪いれずに、アリスの下からエーテライトが展開される。
 蛇のように巻きつくソレは、アリスを捕縛せんと襲い掛かった。
 その刹那。
 「――――『私に触れるな』っ!」
 慟哭染みた叫び声が、辺りに響く。
 瞬間、ぐん、とエーテライトが在り得ない軌道を描いて、アリスを避け――――
 ――――たかのように思えたが、しかし完全に軌道は反れず、避けきれなかったアリスの四肢をエーテライトは抉っていく。
 「くっ――!」
 鮮やかな血が無機質なコンクリートの地面を赤に彩った。
 「貰った」
 地面に着地した瞬間の硬直。その隙に、もう一度、バレル・レプリカをシオンは発射した。
 だが、それは。
 「――――『私以外の空間は止まる』」
 アリスの一言によって封じられた。
 「な、に――――」
 ぎちり、と体が止まった。見れば銃弾も宙に止まったまま動かない。
 まるで空気そのものが固形になったかのように、シオンは体を『固定』された。
 「ふぅ。やっぱり、まだ干渉が弱いか。発動にも結構な手順が必要だし、こんなんじゃ駄目ね。もっと精度を上げないと……」
 滴る血も省みず、アリスはぶつぶつと呟き始める。
 だが、シオンはそれどころではない。事ここに至り、アリスの異常さは拍車を掛けていた。
 (何だ、これは。こんな出鱈目な魔術は知らない。空間転移のように移動し、あまつさえ世界を変革するなど。こんなの、まるで魔法――――!)
 はた、と気付いた。これは魔術やましてや魔法なんかじゃない。
 アリスが本当に真祖と同等の存在になろうとしているのならば。
 これは――――確率に干渉するという空想具現化ではないのか。
 ならば、自分が思ってたよりも研究は進んでいるのか。否、もうすでに完成しているのではないか(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)――――!
 パキィン、とガラスが割れるような音と共に、シオンは空間の拘束から解放された。銃弾が煌きながら虚空へと飛ぶ。
 悪夢めいた思考の結果に冷や汗を流しながら、アリスのほうへと向く。
 「持続時間も問題ね。まだ少し時間がかかるってことかしら。ま、一先ず貴女を殺してから考えるとしましょうか」
 コツコツ、と音を鳴らしながら、シオンのほうへと歩く。
 ――――これで詰みか。
 あんな、とんでもない能力を前にして、生き延びることなど、どれほどの確率か。この威圧。この感覚。正しく真祖を前にしたかのよう。
 ぶつぶつと肌が泡立つ。死を前にした忌避と嫌悪感がシオンを包む。
 高速思考を繰る頭は冷静に計算する。生き延びる方法を。その確率を。
 だが、それは冷酷な計算結果(げんじつ)を弾き出すだけだった。錬金術師である自分が、そう答えを叩き出したのなら、それは間違えの無い解答だ。だから、『死』という結果を回避したいのならば、残された感情のみで抗うしかない。
 理論武装されていない剥き出しの感情。そんなもの――何の役に立つのか。
 「あ、あああああぁぁぁあああああ!!」
 吼えた。冷徹な現実に立ち向かうため、シオンは感情を声に出して咆哮する。まるでそうすることしか出来ない機械のように。
 「――――醜い。終末(げんじつ)を見ていられない、その性質……なんて臆病。どうして、錬金術師(あなたたち)は唯一の真理を受け入れられないのかしら」
 自嘲するように、そう呟き。掌をシオンに向けた。
 「あ――――」
 死ぬ。恐怖で頭が真っ白になる。残された感情すらも、空白の闇に落ちて――――

 「久遠寺、アリス――――――――!!!!!!!」

 意識が空白に堕ちる前に、黒い彗星が如く遠野志貴が上空から落ちてきた。
 其の目は邪眼。爛々と輝く双眸は、果てしない憎しみと共に『死』を叩きつける。
 「な――――ちっ。あの女、何が魔術協会の武闘派か。こんな、足止めすら満足に出来ないなんて――――!」
 豪速で突っ込んでいく志貴。手にしたナイフを閃光のように走らせた。それを跳躍で回避し、アリスは上空で身を躍らせる。
 だがしかし、それを見逃す殺人貴では無い。
 ぐん、と地上で身を捻る志貴。過剰とも言えるその捻りは全身の力を一点に集中させるためだ。ぎしり、と身を軋ませながら――
 ――手に持っていたナイフをアリスへ向けて投擲した。
 轟、と空気を裂く様にして飛んでいくナイフの速度は尋常ではない。その速度は正しく銃弾のソレ。ならば、込められた威力も必定、必殺のものであろう。
 しかし、それは。
 「『そのナイフは私に当たらない』」
 アリスが一言呟いただけで、軌道を曲げ、あらぬ虚空へと飛んでいった。
 そのまま、アリスは身を翻し。
 「……アナタと対峙するのは、まだ早い」
 捨て台詞のようなものを吐き、去っていった。
 くるくると回転しながら落下してくるナイフを受け止め、志貴は一人ごちる。
 「ちっ、やはり奴の結界内では、届かず、か。ふん、なら殺し尽くすだけさ」
 そこでようやくシオンとレンに気付いたのか、目をこちらに寄越した。今の志貴には久遠寺アリス以外見えていない。
 「……し、き?」
 シオンもシオンで、自分が死から逃れたのだと、今になって気付いた。
 「シオンに……レン。良かった、気を失っているだけか。全く……シオン。こんな物騒な中、真夜中にうろつくなんて無用心だぞ」
 ――――貴方に言われたくない。
 そう呟こうとするが、張り詰めた緊張が解放されたせいか、シオンの意識は急速に閉じていった。
 「ちょ……シオン!?」
 何故か慌てたような志貴の声が、耳に聞こえた。

 シオンが目を覚ましたのは、翌日の朝だった。
 ここは、と思い、見渡してみると自分の部屋であることに気付く。
 最後に見たのは、志貴の顔だった。何が起きたのかよく判らなかったが、とりあえず自分は彼に助けられたのだろうと思う。
 ――まずは顔を洗おう。こんな頭では、纏まる考えも纏まらない。
 もぞもぞ、とベッドから身を起こし、洗面台へ向かおうと――――

 「おはよう、シオン。勝手に上がらせてもらっているけど、いいかな?」

 ――――ガツン、と思いっきり壁に頭をぶつけた。
 「な、な、な、な」
 見ると優雅にコーヒーを啜る志貴と共に、もう傷は完治したのか、レンがむしゃむしゃとイチゴジャムをこれでもかってほど塗りたくったトーストをぱくついていた。
 正直、勝手に上がらせてもらったというレベルでは無かったが、今のシオンにはそんなことを考えるほど、頭が回っていなかった。
 ――――寝起きを志貴に見られた。
 そんな事実一つで、シオンの感情は呆気なくメーターを振り切った。かーと顔が真っ赤になっていくのが自分でも分かる。
 (全く……これでは初心な少女のようではないですか……)
 ぶんぶんと頭を振る。それで幾らか思考はクリアになった。
 「はぁ、これでは秋葉のことを馬鹿に出来ませんね……」
 最も、彼には想い人が既にいるのだが。
 「ん? シオン、何か変だぞ? どうかしたのか?」
 「いえ。顔を洗ってきますので、志貴はごゆっくり」
 言うまでもなく十二分にくつろいでいた志貴とレンに向かって言った。
 ふらふら、と洗面台に向かうシオン。それを見て。
 「?」
 と、志貴は首を傾げた。
 レンはそれらを終始見ながら、分かっているような分かっていないような、そんな表情でトーストをぱくついていた。

 顔を洗い、身だしなみを整えた後、シオンはトーストで朝食を済ませた。
 そうして落ち着いた後、どうやって志貴に切り出そうか考えていると、向こうの方から切り出してきた。
 「シオン、この前頼んでいた調べ物……どうなった?」
 この前の、というとロンドンの事件の犯人に使われている技術を調べてくれ、という質問か。
 本来なら部外者に言えることが出来るレベルではないが……。既に志貴は部外者ではなかった。むしろ渦中のど真ん中に居るといっても過言ではない。
 シオンは口にする。その忌わしい技術を。
 「――――アレに使われていた技術は一言で言うなら『吸血鬼化の促進』です。無論それだけでは急激な変化によって肉体は耐え切れません。しかし調べてみたところ、『核』ともいえる部分から何処か≠ノ繋がっていることが分かりました。恐らく、その何処か≠ゥら引っ張ってきている何かしらの力によって、強引に押さえ込んでいるのでしょう。問題は、その何処か≠ナすが――――」
 「間違いない。アルクェイド、だ」
 シオンの言葉を断ち切って、志貴は黒々とした感情を隠さず、そう言った。
 「そうか、ならあの能力にも納得がいく……引き出しているのは空想具現化か魔力か――――くそったれ」
 包帯で覆われた顔からは表情が読み辛い。だが、志貴が苦い顔をしているのは確かだった。
 だが、傍目から見ても志貴は冷静だった。濁ったような殺意は感じるが、この前久しぶりに会った時の様な、絶対零度の殺気は無い。
 ――なんて、あやふやで、不安定な、感情の揺らぎ。
 恐らくこれが遠野志貴の特性なのだろう。ふわふわで雲のように捉えどころの無い、その性格。確かに片鱗は前から見られた。ならば、こうなるのは必然だったのか。
 言葉に出来ない感情を胸に押さえ込み、シオンは志貴に言う。
 「志貴、この二年間、一体何をしていたのです。貴方は本来ならば知りえないはずの情報を知っていた。そう、久遠寺アリスと対峙することでしか得られない情報を何処で知り得たのです」
 次の瞬間、僅かに殺気が漏れ出した。まるでその名前を口に出すこと自体が罪だと言わんばかりに。
 そして、殺気が消えたかと思うと。
 「ハァ……分かった分かった。全部、話すよ。――――元々隠す程のことでも無いし」
 ただ、話したくないだけ、と前置きして、志貴は語り始めた。
 その、憎しみに塗れた二年間を。

* * *

 アルクェイドが、居なくなった。
 さよなら。そう一言、書き残して。
 だけど、違う。断じて、違う。
 志貴。もし私に『そのとき』が来たなら――あなたが、殺して。私を殺した責任取ってもらうんだから
 そう約束した彼女が勝手に消えるはずが無い。あの約束は、一種の契約。ずっと一緒に居るという誓いの形。
 ――だから、アルクェイドが自分で消えたんじゃないのだとしら。
 それは、何者かが、アルクェイドを利用しようとしていることだ。
 許せない。
 やっと、やっとアイツが『人並みな幸せ』を手にしようとしたのに。
 漸く、俺がアイツにしてやれることを見出したのに。
 その悉くを、ソイツは蹂躙して破壊したのだ――――
 そう考えるといても立っても居られなかった。焦燥が自分を追い立てた。今すぐに探しに行きたいのに。なのに。
 ――――頭痛が止まなかった。ぎりぎりと。まるで万力で押し付けられているような痛み。
 ああ、分かっている。これは脳の過負荷だ。直死の魔眼という異端は人の手に余る。こんなものを常時展開していたら、そんなもの堪えられるはずも無い。
 そう、幼い頃。先生に貰った線が見えなくなる魔法の眼鏡≠ヘ、真っ二つに割れて、もう使い物にならなくなっていた。
 レンズには罅が入り、瞬く間に砕けた。後に残るは、ツギハギだらけの死の世界。
 狂う。アルクェイドを失った悲しみと憎しみ、そして視界を満たす死界。そのどれもが自分に狂えと命じている――――
 そんな俺を連れ出したのは、シエル先輩だった。
 「あれほどの魔眼殺しは、こんな辺境では手に入りません。恐らく時計塔まで行けば、それなりのものはあるのでしょうが……いや、やっぱり駄目ですね。いいでしょう。あの鼻持ちならない超絶悶絶毒舌シスターに借りを作るのは嫌ですが、遠野君のためです。一肌脱ぎましょう」
 だから、もうちょっとの我慢です、と付け加えて。
 正直、その間のことはよく覚えていない。何しろ目を開けても開けなくてもツギハギが視えるのだ。正気を保つだけで精一杯だった。
 それは魔眼の力が上がっているからだ、と虚ろな意識は先輩がそう言ったのを微かに聞いた。今までの魔眼殺しでは抑えきれないほどに。
 ――上等だ。
 狂気に淵に落ちる一歩手前、力が上がっていることに喜んでいる自分に気付いた。

 次に目覚めたのは、とある田舎の教会だった。
 世界の死たる点と線が完全に見えなくなっていた。だけども同時に、他の何物も見えなかった。
 どういうことか、と思い、顔に触れる。そこに在ったのは、包帯のような布の手触り。
 そこで悟った。
 この世の理は等価交換。なれば俺はツギハギの世界の代わりに、普通の世界を失うのは必定だ。
 構わない。
 自分には、どうせ関係ない。日常生活を営むにもリハビリが必要だろうが、俺には全くもって、その気は無かった。
 (ああ、そうだ。アイツが居ない日常になんて、意味は無い――――)
 ならば、己のやることは必然、決まっている。
 「ああ、遠野君。目が覚めましたか。貴方の魔眼は強力すぎるので、こういう形でしか封じることは出来ませんでした。まぁ、貴方なら一ヶ月もリハビリすれば、日常生活には問題ないでしょう。だから」
 「嫌だ」
 早く妹さんの待つ屋敷に帰りなさい、と続くシエルの言葉を俺は断ち切った。
 俺は、もぞり、と身を起こし――頭を下げた。
 「……社会復帰(リハビリ)なんて、やってる場合じゃないんだ。先輩、頼む。
 ――――俺に、闘いを、教えてくれ」
 「――――――――」
 刹那。空間が凍った。
 それは殺気。
 ありとあらゆる敵を、意志だけで殺すかのような、絶対絶殺の殺気。
 其処に居たのは、いつもの温和な先輩ではなく、埋葬機関第七位『弓』のシエルだった。
 「貴方……一体、何を言ってるんですか。アルクェイドは、私達が探し出します。……何か、勘違いしてませんか? 貴方は片足突っ込んだだけの、魔術師でもなんでもない、ただの貧弱な人間です。今までのことは奇跡にも近い偶然が幾重にも重なってきただけに過ぎません。
 ――――思い上がるのも、いい加減にしなさいっ!!!」
 大気が震えるような怒号。ビリビリ、と空間を満たす殺気がボルテージを上げていく。
 普段からは考えられないような罵倒、その意志。
 だけど、負けるわけには行かない。ああ、確かに先輩の言う通りだ。俺は先輩のように突出した戦闘技術を持っているわけでもないし、先生のように魔術も使えないし、シオンのように戦闘予測も出来やしない。ただの人間。おまけに貧血持ちと来たもんだ。怒るのも無理は無い。
 だけど。
 だけど、出会ってしまったから。
 俺の愛しい愛しい、白き吸血鬼の姫に。
 しゅる、と包帯を取る。死だらけの世界で先輩が睨んでいる。
 「俺は帰るつもりなんて無い。今の俺にはアルクェイドが全てなんだ。アイツが好きなんだ。アイツが居ない日常なんてものに価値は見出せない。アイツは俺が取り戻す。だから、何の力も無い俺にその術を教えてくれ。もし、それが叶わないなら――――」
 そう。その願いが叶わないなら――――

 「俺を今此処で、殺してくれ」

 生きていても、仕方ない。

 「――――!?」
 先輩の顔が僅かに驚きに染まる。だけど、俺は意志を曲げるつもりなんか無い。
 頭を下げろと言われたら下げよう。土下座をしろと言われたら地べたに這い蹲ろう。腕を切れと言われたら腕を切ろう。四肢を切れと言われたら肉達磨にもなろう。命が欲しければ心臓を差し出そう。
 だから、その代わり、この願いを――――――――
 カッチコッチ、と時計の音が響く。静謐な教会を満たしているのは、張り詰めて、今にも決壊しそうな緊張。
 まるで神の断罪を、俺は待っているかのように、ただ先輩の目を見つめ続ける。

 「いいんじゃないですか? 受けてもあげても。その程度、貴女には何の枷にもならないでしょう?」

 神の断罪を待つ空間の中、厳礼なる静謐を破ったのは、凛と響く清流なる声だった。
 くすくすくす、と笑い声が聞こえる。それは、まるで天使のようであり、また同時に悪魔のようでもあった。
 「……シスターカレン。本気で言ってるのですか。只の一般人を、教会に置くなど」
 「あら、代行者として教会に在籍させるわけではないでしょう? あくまで貴女個人の下に置け、とその青年は言っているのです」
 かつん。
 奥底の闇から這いずり出すように現れたのは――――見るも美しい、そして、見るもおぞましい、聖女だった。
 ――――ぞぐん、と吐き気と共に頭痛が来た。
 銀の髪と金の瞳。虚ろな瞳はどこかを見ているようで、見ていなかった。しかし、とんでなく極上の美人であることには違いない。肌が見える部分は、ほとんどが包帯に覆われている。……そうか、この包帯は彼女のモノだったのか。
 そう思うが、しかし、そんな思考は目に映ったモノに吹き飛ばされた。
 異形。
 そんな単語が、頭に浮かぶ。
 何だ。何だ、アレは。
 全身に蠢く点と線。その死の具現が。
 (こんな、人間が――居る、なんて……)
 多かった。体中を走る死が、異常にまでに多かった。
 ずぐ、と蠕動するそれらは一般人と比べるまでも無い。
 死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。
 その体のどこを見ても、死だらけ。唯一見えないのは、その金の双眸か。その様は、まるで死が人の体を形成しているかのよう。
 美と醜、生と死という絶対的に相反する要素が、この女には混在しているのだ。まるで全ての死を一身に受けているかのような体。だが、それでも少女は、此処に自らを自らとし存在している。全身全霊を献身とし、善も悪も光も闇も、この世の全てを在るがままに受け止め、なおそれを良しとする。
 ああ、なんて汚くて、おぞましくて、なんて美しい。
 その在り方は、正しく伝説のマグダラの聖女――――――――
 「ぐ、ぐぅ――が、ぁ――――」
 吐き気が止まない。頭痛が引っ切り無しにやって来る。
 原初に刻まれた衝動が、この女を刻み殺してしまえ、と命ずる。
 ああ、そうだ。
 俺は。
 今すぐにでも。
 この全てを受け入れる女を、(ころ)したくて堪らない――――
 「遠野君! 見てはいけません(・・・・・・・・・)! ああもう! こうなることが分かっていたから、貴女は奥に行っていて下さいと言ったんです!! どうして出てきたんですか!?」
 先輩が急いで、俺の顔に包帯を巻きつける。視界の消失と同時に、頭痛や吐き気も収まった。
 声がする。
 「貴女がぎゃあぎゃあ喚いて五月蝿いことこの上ないからに決まっているからでしょう。教会であんな声を上げるなんて、はしたないにも程があるわ。それとも信仰心が足りないのかしら?」
 声は、天上の声のようで、悪魔が笑っているようでもあった。
 「……っ。これだから貴女は苦手なんです。それにこの事は貴女には関係ないでしょう」
 「ふぅ、これだから脳みそまで筋肉とカレーで出来ている人は。だから貴女は何時までもナルバレックに言い様に扱われるのです」
 「な、な、な、何ですって――――!!」
 ……すごい。先輩が手玉に取られている。
 すでに先ほどの緊張は無く、弛緩した空気が流れていた。
 ふ、とシスターカレンと呼ばれた少女が息を漏らす。
 「いいですか? その青年に渡したのは、そんじょそこらの布ではありません。何せ法王じきじきの祝福が為されているのですから。それを差し上げるのです。本来なら私の魔を抑えることしか許されていないソレを」
 「……何が言いたいのですか」
 ニヤリ、とシスターカレンが哂ったのを、俺は肌で感じていた。

 「――――そうですね。貴女、此処であの青年を鍛えなさい。それで貸しはチャラにして上げましょう」

 「な――――」
 今度こそ、息が止まった。それはどうやら先輩も同じようだった。
 いや、こちらとしては望むところであるが、それにしても、どうしてそんな事を……?
 疑問に思った俺を嘲け哂うように。
 「ああ――――単純に貴方が気に入ったからですよ。両極端の用途。完全に別物としての思考回路。――そうでもしなければ存在できない、矛盾。その苦悩、懊悩。人でありながら人在らざる能力を持ち、自らのエゴのために他人を巻き込み、更なる力を求める姿。
 ……ああ、なんて芳醇。まるで極上のワインのように薫り高い。人間という生物の括りの中で、その不安定な在り方は、とても――――面白い=v
 悪魔のように、麗しい聖女は言った。

 こうして、俺は寂れた田舎の教会で、ひたすらに戦闘技術を磨いた。
 磨いた、と言っても何らかの特別な訓練をしたわけじゃない。埋葬機関秘奥の戦闘技術を、安々と先輩が教えてくれるはずも無い。
 だから、俺がやったのは、ひたすらに先輩――――埋葬機関第七位の代行者と延々と手合わせをしただけだ。
 だけどもそれは、今思い返しても、正に過酷という単語しか出てこない。
 何せ、目が見えないのだ。本来なら何ヶ月もかけてリハビリするところを、すっ飛ばしていきなり実践じみた手合わせをした。
 最初の一ヶ月は、何もできなかった。
 まぁ、幾ら加減をしてくれるとはいえ、相手は埋葬機関の代行者だ。目が見えていたとしても、対抗できたとはとても思えないが。
 とにかく最初の一ヶ月は、気配を頼りにただ突貫を繰り返すだけの日々だった。
 無論、そんなものは先輩に一発で気絶させられた。
 次の二ヶ月は、ようやく慣れた不可視の世界での戦闘に体を慣らす日々だった。
 気配と音、風の動きや殺気などを読んで、イメージ内の相手の動きを現実との差異を無くす。そうして、動きを読んで、攻撃を避ける。
 自分がどう動けば、どのように相手が動くのかを、完全に把握する。それが二ヶ月目。
 三ヶ月目からは、ふいに身に浮かび上がる体の流れ――七夜の体術――を、体系化し、更に戦闘技術として昇華させていった。
 ネロ・カオス。ロア。直死の魔眼があったとはいえ、あれらを打倒し得たのは、体の奥底に刻み込まれたソレのおかげだ。
 ――――七夜。それが俺の本来の名。
 魔と拮抗するために編み上げられた体術。アルクェイドを探すための力を得るのだとしたら、数多くの死線を潜り抜けることを可能にしたソレを完全に自分の物にしなければならない。
 遠野という表の名前を捨て、本来の、人にして魔と拮抗した一族の生き残り――七夜に戻らなければいけなかった。

 「先輩、――――俺のことを遠野志貴って呼ぶのを止めてもらえますか」
 「――――! 遠野君。貴方……」
 「『遠野』なんて名、俺には勿体無さ過ぎる。今の俺に、秋葉と同じ名を名乗る資格なんて無い。――――そう、俺は、七夜志貴。アイツの為に、ただ刃を振るうための機械で構わない――――」

 半年もすれば、一撃で気絶させられることも無く、あの先輩と三時間近くもやり合っていられた。
 その後はひたすらに全世界を駆けずり回った。
 基本的には、先輩の補助として。そして聖堂教会の雑用として。
 俺はそんなことくらいでしか、恩を返せないから。
 勿論、アルクェイドを探すことも忘れない。――彼女を吸血衝動から救う術も。
 世界中を駆け、ただ我武者羅に刃を振るった。
 長寿の薬を持つという魔術師がいると聞けば、ソレを殺して奪い。食べれば不死になる実を付ける吸血鬼が居れば、ソレを殺して奪い。その道を妨害する者がいれば、ソレを刻み殺した。
 悪霊も怨霊も悪鬼も吸血鬼も魔術師も錬金術師も。殺し殺し殺し続けた。
 そうして、いつ間にか付いた字が殺人貴=B
 ――――ああ、それで構わない。その名を受けることは、むしろ本懐だ。この身は、貴いただ一つの目的のために殺人を繰り返す殺人鬼に過ぎないのだから。
 そうして、一年以上、世界を回り――――
 ――――遂にソイツは姿を現した。

* * *

 「久遠寺アリスが、貴方の前に現れたのですね」
 シオンは込み上げる感情を抑えて、確認するようにそう言った。
 思う。
 志貴の二年間――殺人貴へと至る過程。それはどれほど苛烈で熾烈だったのだろうか。恐らく本人が語るソレよりも、自分が考えるよりも、何よりキツイものだったのに違いない、と。
 だからこそ、そう口にすることは憚れる。
 ――――これは自分が聞いたこと。だから、本人が話したいことを、きちんと汲み取らないと……。
 「ああ、アレは中近東で教会の雑務をこなしている時だった。ソイツは突然現れたよ」
 久遠寺アリスが。
 その名を口にした志貴は、今度は憎悪を隠すことをしなかった。

* * *

 ――――バサリ、とコートを風にたなびかせ、突然ソイツが現れた。

 「お、前は……」
 からからと喉が渇いていく。
 ドクン、と心臓が脈打つ。
 赤いコート。漆黒の黒髪。――――隻腕。
 その姿を
 / 何処で /
 俺は。
  / 誰が /
  いつか。
 / 今 /
 ――――見たことがあった。
 ガギン、と頭の中のギアが噛みあう音がする。
 ……どうして、今まで忘れていたのか。
 アルクェイドの部屋に向かう直前に、そこで擦れ違ったのは誰だったか――――

 「久しぶりね、志貴君。結婚式以来かしら?」
 「お、前が……アルクェイドを――――!!」

 駆け出す。もう何も考えられない。即座に思考をスイッチ。一瞬にして人の殻を脱ぐ。身を殺人鬼に。求めるのは血と脳漿と屍のみ。考えるのは効率の良い刃の振るい方。目に見えるのは人の姿にあらず。それは死。この身が体現しうる唯一無二の秘蹟。憎しみと衝動のままに殺せ殺せ殺せ殺せコロセコロセころせ――――――!!
 「あらあら、いきなり切りつけて来るなんて随分な挨拶ね」
 しかし、ソイツは、自分の視界から何時の間にか消え去っており。必然のように真後ろに居た。
 「く――――」
 ナイフを振るう。捻りを加えたソレは、間違いなく相手の首筋を断たんと疾駆する。
 ――――当然の如く、空を切った。
 赤いコートを靡かせた、隻腕の女は、いつの間にか自分の間合いの外に立っていた。
 その目は、何が嘲笑しいのか、狂喜の色に染まっている。
 「いいわよ、いい。貴方、非常にいいわよ。その殺意、予想以上のものだわ。ふふふ、貴方がこんなにも――――私を憎んで(あいして)くれているなんて、ね」
 ギチリ、と脳が軋む。
 刻み付けられた退魔の衝動が吼える。
 ――あの女は人ではない、と。
 憎しみも悲しみも関係無い。アレはお前が殺さなければいけないモノだと――――
 「っ――――!」
 その衝動を強引に飲み込み、俺は言葉を捻り出す。
 「お前、アルクェイドをどうしやがった――――!」
 俺との結婚式当日ですら、既に人を保つことが難しくなっていたアルクェイドだ。今まで費やした時間を考えると、最悪の事態になっていても可笑しくは、ない。
 その想像を噛み砕く。奥歯がギリ、と音を立てて欠けた。
 ……大丈夫だ。アルクェイドが『魔王』に堕ちたなんて大惨事。仮にそうなったら、こんなに世界は安穏としていない。だから、まだ大丈夫のはずだ。
 心の中で絶望と焦燥と祈りが鬩ぎあう。
 その様が、奴には面白かったのか、くすりと笑い声を漏らす。
 「ああ、大丈夫よ、志貴君。彼女は今、眠ってもらってるわ。衝動も随分収まっている。貴方の街に居たときより、ずっとマシな状態よ?」
 「――……何だと?」
 きりきりと憎悪と衝動に痛む頭を抱えながら言う。
 今、殺しにかかるのは駄目だ。
 あの瞬間移動――どんな種かは知らないが、アレを多用されれば、すぐにでも逃げられる。
 ならば、現状やるべきことは、アイツの目的を知ることだ。
 そう、獲物を見つけた肉食獣のように息を潜め、ただ(きば)を研ぐことだけを考える。
 「お前の目的は何だ。アイツを攫って――お前は何がしたいんだ」
 「攫うなんて人聞きの悪い。私達はね、互いの目的のために協力し合っているだけよ?」
 「――それを信じろ、と?」
 ドクン。
 落ち着け。
 「でなければ、真祖を連れ去るなんて不可能でしょう。幾ら弱っているとはいえ、あのアルクェイド・ブリュンスタッドよ。人間なんかが如何にか出来るものではないわ」
 ドクン。
 それは、確かに考えたことだ。
 アルクェイドが、ただの人間に攫われることは無いのだろうと。
 しかし、状況から鑑みるに、攫われたとしか考えにくかったから、そう考えただけだ。

 否=B

 黒い自分が囁く。
 そうじゃない。そうじゃないだろう? お前はただ=B
 五月蝿い。今はそんなことを考えてる暇は無い。
 ドクン。心臓が吼えた。
 思考は止まない。
 そう、お前はただ――――=B
 だから、黙れ。

 ――――自分が見捨てられたと、考えたくなかっただけだろう?

 「っ――――!」
 だ、と思考を振り払うが如く、地面を蹴った。
 それは考えてはいけない。考えてはいけないことだ。
 だから、もう何も考えずに、刃を振るう。
 ナニカを殺す殺人貴になれば、俺は何も考えずに済む。
 「ふふふふ、自己の闇と相反せずに同一化する、か。なるほど、貴方は自身を二つに分けることで自分を肯定しているのね。面白い、面白いわよ。矛盾を受け入れることの出来ない、その在り方は人としては間違っているけれども、それでも間違いなく人しか持ち得ない矛盾存在――――」
 「――――どこかのシスターと似たようなこと言ってるんじゃねぇよ」
 足に全ての力を込め、爆発させる。
 ゴ、と慣性のついた跳躍を行った。相手の死角――真上から、縦回転の斬撃を振るう。
 閃鞘・八穿=B
 自らの裡から零れ落ちた、七夜の体術の一つ。
 だが、魔を討つというソレは。
 「!?」
 「ハァイ」
 それ以上のおぞましいナニカ≠ノは通じなかった。
 ガ、と宙に浮いた体を、背中から地面に叩きつけられる。
 「ごほっ――、てめぇ……一体どんな手品使いやがった!?」
 「さぁ? 簡単にそれを言ったら、世界中の手品師(まじゅつし)は商売上がったりだわ」
 くすくすと笑う。
 さっきの瞬間。ヤツが何か呟いたと思ったら、次の瞬間に。
 俺と位置を入れ替えていた(・・・・・・・・・・・・・)
 次いで不可視の衝撃。
 ……全く持って、訳の分からないことをする。
 「それじゃあね。志貴君。私の名は久遠寺アリス。――――今度は月光の下で会いましょう?」
 「ま、ちやがれ……ぐ」
 衝撃はまだ体に残っている。今の体の状態では、すぐに動けそうに無い。
 アリスと名乗った女の体が消えていく。
 だが、逃げていくソイツを、俺はただ見ていることしか出来なかった――――
 「てめぇ、覚えていろよ……。俺が、この手で絶対」
 殺してやる、と呟く前に、意識が闇に堕ちた。

* * *

 「『偽・真祖(デミ・アルテミス)』のことを知ったのは、その三ヵ月後だよ。ついこの間起きたロンドンの殺人事件、俺はそこでシエル先輩と一緒に調査していたんだが――――」
 「会ったのですね。久遠寺アリスに」
 志貴が忌々しげに虚空を睨んだかと思うと、コクンと頷いた。
 「……ああ。そこでアイツが自分で『偽・真祖(デミ・アルテミス)』と名乗ったんだよ」
 ふむ、と頷く。
 (なるほど。つまり、教会はそれで久遠寺アリスのことを知っていたのか。聖堂教会が隠しているという情報は久遠寺アリスのソレ……ふん。死人も出ているというのに、そんな重要な情報を隠匿するとは。それに、さっき志貴が言っていたこと――)
 『偽・真祖(デミ・アルテミス)』の力の源が、アルクェイド・ブリュンスタッドだということ。
 ああ、それなら納得がいく、とシオンは思う。
 アルクェイドを攫ったのが、『偽・真祖(デミ・アルテミス)』を作り出すため――――否、自身を『偽・真祖(デミ・アルテミス)』とするのならば、全ての事件は繋がっていく。
 だがしかし、シオンは何か嫌な予感を感じる。
 自身を『偽・真祖(デミ・アルテミス)』にするだけならば、こっそりとやれば良いのだ。隠匿している限り、魔術協会は何も文句は言ってこない。こんなに世界を巻き込んでの大騒ぎにする必要性は何処にも無い。
 それに、と更にシオンは思う。
 こんなに事件を起こしてたら、確実に対策が取られる。
 事実、『偽・真祖(デミ・アルテミス)』の存在の源がアルクェイド・ブリュンスタッドなら、その繋がるラインを切ってやればいいだけ。それだけで異形の化け物は砂へと還るだろう。
 そんなものは直ぐ作れる。細かい微調整が必要だが、恐らく半日ほどで製造は可能だ。
 ならば。
 世界中に見せ付けるように自身の研究を重ねる久遠寺アリスの目的とは一体何なのであろうか。
 わざわざアルクェイド・ブリュンスタッドを攫った理由は。そんなことをしても、この目の前の死神から目を付けられることは必定なのに――――
 (……待て。もし、久遠寺アリスの目的がそうだとするなら。そう、志貴が関ってくるのが奴の計画の内だとするならば……!)
 このまま、志貴を行かせていいのだろうか。
 明確な目的は未だ見えず。だけども、確信染みた厭な予感が胸の内にわだかまる――――
 その時、シオンの思考を切るように、ガタンと志貴が席を立った。
 それに気付いたレンが、椅子から降りて志貴の足元へと歩いていく。
 「――――待ちなさい。何処へ行くのです」
 「何って、俺がすることなんて決まっているだろう、シオン?」
 ニヤリ、と笑い、そのまま玄関のほうへと歩き出す。
 厭な予感が止まらない。シオンは何故か、その予感に苛立ち、声を静かに荒げる。
 「待ちなさい、と言ったでしょう、志貴。この事件は思ったより根が深そうです。久遠寺アリスの計画は恐らく貴方がそうやって動くのも予見されて組まれているはずだ」
 ピタリ、と足を止める。
 そうして、シオンの方へ向き。
 「――――望むところさ。アイツが会いたいっていうんなら、こっちから殺しに行ってやるよ」
 邪悪に、哂った。
 焦燥感が、シオンを包む。
 「っ――――! ああ、分からないなら言って上げましょう。……貴方は邪魔なのです。元々これは魔術協会の管轄だ。貴方がでしゃばる必要なんて何処にもありません。だから、久遠寺アリスのことは私達に任せて。
 ――――秋葉の元へ、帰ってあげてください。彼女は、今でも貴方のことを待ち続けています」
 最初は怒るように。そして最後は懇願するように、神に祈るように言った。
 だが。
 「シオン」
 死神の声が、否と叫ぶ。
 ゆらり、と幽鬼のように揺らぎ、凶鬼(オーガ)のように殺意が乱れ飛んだ。
 「例え、お前でも、俺の邪魔をするというのなら――――殺す。そうだ、今までもそうやって生きてきた。邪魔する者はひたすらに殺していった。この生き方を、俺は止めないし止めるつもりも無い。……そら、こんな俺がどうして秋葉の元へ帰れる? あそこに戻るには、俺は汚れ過ぎた」
 自身の帰るところは遠野の屋敷ではない、と志貴は殺意を漲らせると共に、しかしどこか自嘲するように言った。
 「――――――――」
 ぶつん、と頭の何処かで、切れる音がした。
 キレた。今度こそ、キレた。
 さっき、志貴の二年間を聞いたときも、志貴が殺人貴だということを知ったときも、常に冷静沈着だったシオンが、今の一言に――どうしようもない、怒りを感じていた。
 誰よりも何よりも、遠野志貴の口からそんな言葉が出てきたという事実が――――シオンには、とてもじゃないが許せなかった。
 ――――貴方の帰る場所が……遠野の屋敷じゃなくて、何処だと言うのです……!!!!
 「馬鹿ですか貴方は!! それじゃあ、もう秋葉のところには戻らないって言うのですか!!!? 秋葉をこのまま悲しませたまま、ずっと放置しておくと……そんな馬鹿げたことを本気で貴方は思っているの!!!???」
 沈黙。無言。
 (それはつまり……その事実を肯定するというのか!)
 既に感情は振り切れている。だがしかし、止まることなく憤激が溢れ出す。
 ――――パリン、とメーターが壊れる音がした。
 怒りで目の前が朱に染まる。
 もう、何も見えない。
 許せない。どんなことよりも、何よりも、この無言の肯定が許せない――――!

 「黙ってないで答えろ!!! 遠野志貴(・・・・)――――!!!!」

 「――――その名で俺を呼ぶな!!!!」

 吼えた。
 志貴から放たれたソレは、拒絶の咆哮。
 全身全霊で放たれたシオンの激昂は、一瞬にして志貴の咆哮に塗りつぶされた。
 「俺は……七夜だ。昔の俺とは違う、目的のためなら何でもする――――ただの殺人鬼、だ」
 バタン、と何物をも拒絶するように扉は閉められた。
 一人残ったのは、膝を崩し、ただ呆然とソレを眺めているシオンだけだ。
 「――――ああ、志貴。それなら、どうして」
 乾いた頬に、一筋。
 涙が、零れる。

 「そんなにも泣きそうな顔をしているの……」

 思い知った。
 ――――きっと、取り戻せる物なんて、何処にも無いと。
 世界の無情に、シオンは、ただ、涙を流した。

■□■□■□■□

 「――――分かっているわね。貴女のするべきことは、あの魔術協会の女を殺すこと。……大丈夫、貴女なら出来るわ。そのための力もあるでしょう?」
 こくり、と暗闇で頷く気配だけがする。
 「ふぅ、思ったよりもイレギュラーが多いわね。でもま、それが面白いんだけど。……そういえば、あの子はだからこそ世界は愛しい≠ニ言ってたわね。ふふ、その通りだわ」
 暗い暗い闇の中、天使のような笑みを浮かべて、言った。
 それを聞いて聞かずか。もう一つの影が。
 「……先、輩」
 闇の中で、呟く。
 「あら、愛しの先輩が気になる? ふふふ、あの子は貴女の自由にしていいわ。何もしないのも良し、なんなら仲間にしてあげても良いわよ? ――――殺したって、誰も文句は言わないわ」
 くくく、と愉快気に隻腕の女は哂う。
 その言葉を受けて、もう一人の女は、初めて表情を変えた。
 それは、狂喜という名の、笑み。

 クリストファー・クリスティが、漆黒の闇の中で、ただ哂っていた――――

.......to be continued

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