居丈だかなプリマがまずは唱える
 その宣告は「おはじめなさい」
 すこし優しげに二番手の希望
 「でたらめをいれること」
 そして三番手が語りをさえぎること
 一分に一度以上ではないにせよ

――『不思議の国のアリス』巻頭詩

 ざわざわ、と人々の喧騒がシオンの耳に聞こえる。
 普段人が通らないような袋小路の路地では考えられないほどの人がたむろっていた。
 もっぱら話題に上がるのは、その中心にあるもの。真っ赤な血がコンクリートを染め上げた原因と思われるもの――既に人と呼べない、見るも無残な肉の塊が其処にあった。
 人々との隙間から見えるソレに、シオンは見覚えがあった。
 同僚の、錬金術師。
 (これは……些か詳細は違うが――)
 今、世界で起きている事件と、酷く酷似していた。欠落した屍。存在が欠損した器。――人と認識出来ない、だがしかし確かに人だと理解してしまうような有機の肉塊。
 これが何を意味しているのか。
 昨夜の志貴の言葉を合わせると、答えは簡単に導かれた。
 それは明確な人の形となって、シオンの脳裏に映し出される。
 (久遠寺アリス……)
 ここ、エジプトでも彼女は何かをやろうとしている。
 ソレは何か。
 ロンドンでは魔術師ばかりが狙われるという事件が起きた。ソレと世界で起きている事件を符号させると――
 「――今度の標的は、錬金術師というわけですか」
 ぐ、とシオンは力の限り、拳を握り締める。
 時計塔から来た死体の解析の依頼――それに使われた技術が脳裏を満たす。
 報告書にあった名称は『偽・真祖(デミ・アルテミス)』。そして用いられた技術の正体は――
 ――吸血鬼化の促進、だった。それも短期間における異常な速度の。
 本来、人が吸血鬼――死徒化するには、個体のポテンシャルの高さと長い年月が必要となる。
 まず血を吸われた際に吸血鬼の血が体内に残ってしまい、殺されたが死んではいないモノ――『屍食鬼(グール)』へとなる。脳が腐敗し、魂が肉体に固定された状態だ。腐敗した肉体を補うために他の屍を喰らい、ソレが終わると『生きる死体(リビングデッド)』へと段階を進める。リビングデッドになれば、能力的には低いが自らの意志を持つ一人前の吸血種と認識される。そして更に時間をかけ、人間だった頃の知性を取り戻したとき、『吸血鬼(ヴァンパイヤ)』へとその変遷を遂げるのだ。このとき、親である死徒を殺して新たなる死徒となることがあるわけだが、この段階まで成長することは非常に稀だ。確率にして0.001%、一万人に一人の割合である。ごく稀に過程を飛び越えて、いきなり吸血鬼になれるほどのポテンシャルを有する人間もいるが、そんなものは例外中の例外だ。現実にそうそう在り得るはずが無い。
 これが一般的に言われている吸血鬼化の過程だ。グール、リビングデッド、そしてヴァンパイヤに行き着き、更に親である吸血種を殺すことにより、死徒へと到達する。能力の大小はあるにせよ、最強と謳われる二十七の祖にしても、分類的には『死徒』になる。

 だが、それが本当に限界なのであろうか(・・・・・・・・・・・・・・・)

 人間という個体種の限界は、本当に死徒と呼ばれる存在なのだろうか。吸血鬼化という現象の最奥は死徒なのであろうか。
 死徒の能力は人間を超えているかのように見えるが、実際には長い寿命を活かして能力を磨きつづけた結果である。所詮は人間の延長レベルだ。
 そんなものが本当に人間の限界なのか。血を吸わなければ生きていけない不完全な存在が、人という種の限界という証明がどこにあるのか。
 否。そのような証明など、何処にも存在しない。二十七祖にしても、現在勢力を振るっている祖達の年齢など高々数百年レベルだ。
 ならば、吸血鬼化した人間の行き着く先とは一体何処だろうか。数百年で死徒になるのならば、数千年では。数万年経てばどうなるのだろうか。
 久遠寺アリスの用いた技術は、気の遠くなるような、果ての無いその疑問に答えを求めている証左なのか、とシオンは思う。
 吸血鬼化の、促進。いや、あの異常な速度はカットと呼んでも差し支えないだろう。
 無論、そんなことをすれば、人の身体など砕け散ってしまう。
 だが、その身体を強引に留めている『何か』がある。『何か』と同調することにより、その身を吸血鬼化の最奥へ至ろうとしているのか。
 『偽・真祖(デミ・アルテミス)』。偽りの真祖。人でしかないその身を真祖という世界の神秘そのものに昇華させようとしているのか。
 ――そんなモノは、おぞましい化け物に過ぎないのに。
 どんな目的があろうとも、久遠寺アリスの行為は、ただ悪戯に吸血鬼を増やしていることに過ぎない。現状まで研究を完成させるのに、一体どれほどの人間が犠牲になったのだろうか。恐らく十や二十では済まされない。それこそ何百、何千の――
 まさしく、狂気の沙汰に相違ない。
 久遠寺アリスは、一体何を求めているのか。
 その目的は。その理由は。
 (現状の情報では判り得るはずもない。だが――)
 これだけはハッキリしている。
 彼女がしていることは、決して許されないモノということ。
 「そう――」
 それなら彼女も、救われるかもしれない
 そう言った志貴の顔を、シオンは忘れることが出来ないでいた。
 「――そんなことは、この私が、決して許しはしない」
 吸血鬼化の促進を為そうとするアリス。
 吸血鬼化の治療を為そうとするシオン。
 その思想も技術も正反対な者同士が、相容れることなどあるはずが無い。
 ざわめく喧騒の中。
 シオンの瞳は、忌わしげに虚空を睨みつけた。


2/
 邂逅[“The Rabbit Sends in a Little Bill” ]


 「――暑い」
 
 フォーマルスーツに身を包んだバゼット・フラガ・マクレミッツが、ぽつりと一言呟いた。
 やはりエジプトという気候で、スーツというのは暑すぎた。第一ボタンだけでも外そうか、とバゼットは思うが
 (いや、幾ら暑いとはいえ、今は任務中だ……)
 と、ボタンに伸ばそうとした手を引っ込めた。
 「さて」
 道を歩きながら、スーツの内ポケットから紙の束を取り出す。
 そこに書かれているのは、とある場所への地図だった。
 アトラスの錬金術師との合流地点である。
 地図に眼を落とし、それが頭の中にある場所と相違ないことを確かめる。
 バゼットはそれを仕舞いながら、今回の任務について反芻を始めた。

 魔術協会からの依頼の監査。及び、エジプトで発生した殺人事件の調査

 アトラスの錬金術師と協力して、これに当たれというのが今回の任務だった。
 世界中で起きている『偽・真祖(デミ・アルテミス)』と呼ばれる存在の殺人事件。
 魔術協会はその対処と隠蔽に追われており、人手が足りてない状況だった。魔術協会の武闘派であるバゼットであるが、そのような状況ではバゼットにも、そのお鉢が回ってくるのも当然といえた。
 そして今、エジプトにおいても同じような事件が発生している。
 つい一週間前にも起きたばかりなのに、とバゼットは思う。それも魔術協会のお膝元――ロンドンで。
 (――私が、いない間に)
 ぐ、と思わず拳に力が入る。
 ロンドンで起きた事件の犯人、時計塔の魔術師・霧生朱美。
 時計塔でも一部の人しか知らない事実をバゼットは知っていた。
 そして、霧生朱美を手にかけたのが、衛宮士郎と遠坂凛だということも。
 ぎり、と奥歯を噛み締める。
 ――悔しい。
 自分がその場にいなかったことが、堪らなく悔しかった。
 (……朱美。あんなにも優しかった貴女が、何故あんなことを……)
 いや、理由は知っていた。
 遠坂凛の報告書と彼女の過去から、十二分にそれは推測される。
 だけど、それでもバゼットは思ってしまう。
 どうして、と。
 ――どうして衛宮士郎と遠坂凛が、彼女を手にかけなければならなかったのか。
 姉のように慕っていた二人には、あまりにも酷なことだ。霧生朱美を殺したとき、彼らは――彼は何を想ってその剣を振るったのだろうか。
 ロンドンに帰る暇もなく、エジプトへと飛んできたので、二人とはしばらく会えていない。
 電話越しでは大丈夫だと言っていたが、士郎と凛のことだ。周囲に迷惑を掛けたくないと、平静を装っているのだろう。
 多分、朱美を殺すのは他でもない、自分の役目だったはずだ。
 それなのに自分は相対するどころか、ロンドンにすらいなかったのだ……。
 (……そもそも今回の事件には不明瞭な点が多すぎる。埋葬機関からもたらされたのは『偽・真祖(デミ・アルテミス)』という呼称のみ、というのも気にかかる)
 ロンドンの事件において、聖堂教会が独自に行った調査。その報告書に書かれていたのは、犯人が『偽・真祖(デミ・アルテミス)』と呼ばれる存在であるということだけだった。
 問題は、その情報源だ。
 一体、聖堂教会はどこから、その名称を知り得たのだろうか。
 (教会、いや埋葬機関は何かを隠している……)
 それは間違いの無い事実だった。
 一体何のために、と思うが、魔術協会と聖堂教会の仲を考えれば、それも無理も無いかもしれない。
 もしかすると重要な情報を隠すことによって、今回の事件に対して主導権(イニシアティブ)でも得ようとしているのか。あるいは、ただ単純に獲物を取られたくないだけか(・・・・・・・・・・・・・)
 (人が大勢死んでいるというのに――)
 協会と教会の人命を無視した裏のやりとりに、どこか腹の立つ自分がいることにバゼットは気付いた。
 そして、この事実を彼≠ェ知ったら、どう思うだろうとも。
 (私も随分と感化されたものだ……)
 ――あの青臭い理想論を振りかざす少年に。
 無論、自身は魔術師であり、人を殺すことに躊躇はない。封印指定の魔術師を追うバゼットにとって、人の死など有り触れたものであり、いちいちそんなことに動揺していては任務など果たせはしない。時には人命を奪わなければならないこともあり、事実いく人かの人間を手にかけたこともある。それに対し、善悪の判断など無用だ。そんな感情は、とうの昔に置いてきた。
 だが、バゼットは彼――衛宮士郎に出会った。そのことが良いことなのか悪いことなのかはバゼットには判らない。ただ、彼の心の在り様はバゼットを揺り動かすには十分だった。
 魔術を担う者であるにも関らず、死を嫌悪する。理論より何より感情で人を巻き込むことを避ける、その行動原理。
 正義の味方になりたい≠ニ彼は言った。それがどんなことを意味しているのかを十分に理解した上で、バゼットに言い放った。
 全ての人を守りたい、と。せめて目に入った人達の笑顔を守りたい、と。そんな、夢物語を。
 愚かだと思った。馬鹿だとも思った。だけど、同時に――何故か、羨ましいと思ってしまう自分がいた。
 決して叶わないと知りつつも、愚直に理想を目指す衛宮士郎の在り様に。そうあることでしか自分を保つことが出来ないと言わんばかりのその姿勢に。
 そんな風に思えることの出来る理想を持つ衛宮士郎が、どうしてか羨ましくて仕方なかった。
 彼のように、自分がそう在りたいと思えるような理想が自分にもあれば、こんな自分でも少しはマシになるだろうか。
 過去の過ちや裏切り、自らの負債(にもつ)すらも、彼のように是として受け止めることのできる。足掻きに足掻き、決して叶わないと知りつつも努力し続けれる、そんな極上の理想(ユメ)があるのならば、それはどんなに素晴らしいコトだろう――――
 (とはいえ、そんなモノが安々と見つけられるわけでも無いのですが)
 ふぅ、と溜息をつく。しかし、そんな思考とは裏腹に、バゼットの様子に鬱々とした感じは無い。
 望む道は遠く、未だ道すら見えていない。
 だけども、そんな自分は悪くは無いとバゼットは思う。
 それはそう在りたい≠ニ足掻く夢を見つけるという夢が自身に存在しているという証明に他ならないことだから。
 きっと、今はそれで十分だ。
 もう一度、溜息をつく。思考のスイッチを切り替え、今は任務に集中するべきだと思い
 「……?」
 次の瞬間、バゼットは気付く。
 人ごみの中、一つの黒い影が、こちらを見ていることに。
 黒のジャケットに黒のシャツ、黒のジーンズに黒い髪。唯一黒以外の色は、肌と目を覆う包帯の白のみだった。
 その姿は正に異様。人々から浮いているのにも関らず、その存在感は希薄。事実、これだけの人がいるのに、その人物に気付いているのはバゼットだけのようだった。
 黒い影は口だけで笑みを作り、ポケットに手を入れた格好で、バゼットを見つめ続けている。
 バゼットは動じず、常の如く、無表情のまま、黒い影の一挙一動に警戒をする。
 刹那、耳から人々の喧騒が消え去り、時が静止した。

 ナイフで心臓を抉るような、時間すらも凍結させる絶対零度の殺気がバゼットに突き刺さった。

 「――――っ!」
 ドクン、と心臓が跳ね上がる。
 唐突に、怖気と共にある感覚≠ェバゼットに走った。
 それは脳裏に直接、死という焼きゴテを烙印されるような、今まで感じたことの感覚だ。
 (っつ! これは――)
 バゼットは魔術協会きっての武闘派、封印指定を受けた魔術師を捕縛するほどの猛者である。
 仕事上、幾度となく訪れる命がけという状況には慣れている。死の危機にも何度も直面したこともある。
 だから殺気には人の何倍にも敏感なのだが――
 (こんな殺気は、初めてだ……)
 バゼットが通常相手にするのは、封印指定の魔術師や吸血鬼といった人から外れた化け物だ。
 それらと対峙して得られる感覚は殺気というより威圧に近い。
 其処にある≠セけで身体が吹き飛ばされるような圧倒的な面の威圧。人間が他の動物を殺すのと同じ。種や実力などの優位性から来る殺意の威圧に他ならない。
 だが、コレは違う。
 威圧とは違う、抉るような点の殺意。ただ殺す≠ニいう絶対的な意志の昇華によって成される感情の奔り。人が人を殺すために練られた意志の刃。
 憎い。愛しい。哀しい。そんな雑念など一切入り込む余地の無い。
 あるのは、ただただ“殺す≠ニいう一念のみ――――
 とても人間が練られるようなモノではないが、しかし、確かに紛れもなく人間しか放つことの出来ない殺意。
 それは異質で異常なモノ。バゼットほどの場慣れした人間に、死を喚起させるほどの。
 「――それで何の用です。そんな殺気を放っておいて、何も無いということはないでしょう?」
 バゼットが動揺をおくびも出さず、いつもの無表情な瞳で睨みつけ、問いかけを放った。
 「何、大したことじゃない」
 「……!」
 バゼットは声が真横から聞こえるのを感じ、即座に目線を向ける。
 黒い影はバゼットと目を合わせず、ただ其処に佇んでいた。
 (捉えられなかった……。この男、恐ろしく奇襲に慣れている――)
 反射神経が一流ボクサーのソレより優れているバゼットが捉えられなかったという事実。それは決して速度が速いという物理的なものだけではない。
 初速から最高値への加速。死角から死角への移動。ありとあらゆる知覚の外に出る足運び。
 奇襲を前提にした、暗殺者の歩法。それは自らのありとあらゆる気配を消し、相手に近づくための体捌きだ。黒い影が行使したのは、殺すという一点のみに集約された暗殺術に他ならない。
 「オレが言いたいことが何なのか。アンタほどのヤツなら大体もう予想はつくだろう?」
 「――――」
 そう、そんな暗殺術を行使する男が、何故わざわざあんな殺気を飛ばしてきたのか。人ごみの中、気付かれるまでバゼットに視線を投げかけていたのは、何故か。
 それは。
 「――警告、ですか。余計なことをするな、と。貴方はそう言いたいのですね?」
 要するに魔術協会から派遣されたバゼットに動かれると、何か不都合なことが男にはあるということだ。
 男はニヤリと口元を歪ませ
 「ああ、その通り。これがただの魔術師だったら良かったんだけど。正直、アンタほどの実力者に色々動かれると邪魔なんだ」
 「だとしたら、それをまともに聞き入る実力者(わたし)ではないということも予想はつくと思いますが」
 黒い影は肩を竦める。
 「確かに、それもそうだけど――やれることは出来るだけやっておくというのが自分の主義でね。それに――」
 す、と表情が変わる。笑みが消え、気配が消えた。まるで嵐の前の静けさだ、とバゼットは思う。
 そして。

 「――オレに、殺させるな」

 ゾグン、と心臓に杭を直接打たれるような殺気が予定調和のように来た。
 その言動とは真逆としか例えようの無い、そんな殺気が。
 「……あんな歩法を使う人間が、そんなことを言うのですか?」
 「……」
 つ、と冷や汗がバゼットの頬を過ぎる。
 無論、バゼットとて相応の実力者だ。目の前の男が、どんなに力を持っていようが、返り討ちに出来る自信もある。何しろ、封印指定の魔術師という化け物を相手にすることを、半ば日常的に行っていたほどの猛者なのだ。経験に裏づけされた自信に何の疑いがあろうか。
 だが、それは真正面からぶつかった時の話だ。
 男の体裁きから鑑みるに、真っ当な一騎討ちを仕掛けるタイプではないということは火を見るより明らかだ。
 それもまともに気配を感じさせないほどのレベル。
 そんな技を持つ男の奇襲を避け続けるなんて芸当が出来ると思うほど、バゼットは楽観的な性格をしていない。
 ふと街を歩いている最中に。食事をしている最中に。人と会話をしている最中に。
 一度や二度の奇襲ならば防げる自信はある。だが日常のありとあらゆる場面となると話は別だ。じわじわと集中力と体力を削られ、いつか必ず致命的な一撃を受けてしまう。
 暗殺者に狙われるということは、死の危険に常時晒されることに他ならない。
 「――――!」
 そして、既に黒い影のような男はそこには居なかった。
 時間が再び流れ出し、人々の喧騒が戻ってくる。
 胸を抉るような殺気も、男がいたという気配すら何も無かった。まるで男がいたという事実を世界から削ぎ落としたように。
 ――殺させるな
 そう言ったときの彼の横顔が、何故だか過ぎった。
 「ふ――ふふふ」
 冷や汗を拭いながら、バゼットは笑う。
 くつくつと。ざわめきの中で不敵に笑みを浮かべる。
 「――上、等です……!」
 面白い、と魔術師バゼット・フラガ・マクレミッツは笑いの最後に付け足した。

 ただ脳裏に過ぎった横顔が、どこか衛宮士郎を彷彿させる。
 そんな違和感をしこりのように感じながら。

 「――魔術協会からの監査役……ですか」
 「ええ、先ほどからお見えになっています。で、教授たちは先輩に出迎えてもらえって」
 「面倒ごとは全て私に、ですか……まぁ、もう慣れましたが」
 ふぅと溜息を吐きながら、シオンは後輩のクリスと共に廊下を歩いていた。
 ただでさえ気にかかることが多いのに、とシオンは一人ごちる。
 エジプトで発生した異様な殺人事件。これには間違いなく久遠寺アリスが一枚噛んでいる筈なのだ。このタイミングでこんな異常な事件が発生することがそもそもおかしい。ならば、この事件は起きるべくして起きた必然なのだろう。
 そして報告書には久遠寺アリスという名前が一文字も無かったことが、シオンを更に困惑させた。
 魔術協会が知りえなかった事実を、どうして志貴が知っていたのか。
 もう一つは、この地に久遠寺アリスが居るからだ
 昨日、志貴が迸る殺気と共に吐いた言葉を思い出す。そしてそれが誰なのかを問いただすと、志貴はあっけらかんに答えた。
 ――それがこの事件の首謀者の名前だ、と。
 久遠寺アリス。
 かつて魔法使いのパートナーを務めており、ある事件を境にぱったりと姿を消した、『完成された魔術師』。
 魔術史においても、相等の規模を誇ったその事件の詳細は明らかになっていない。事件の当事者であろう魔法使いは勿論のこと、久遠寺アリスにしても行方知らずになったからだ。
 そんな久遠寺アリスを、この事件の首謀者と断定できる志貴。そのことから推測できることは――
 (彼が、久遠寺アリスと直接対峙したことに他ならない……)
 何故魔術協会や聖堂教会すら捕捉出来ない此度の事件の首謀者と対峙することが出来たのだろうか。
 何故アルクェイドを捜し回っている志貴が、久遠寺アリスのことを――あんなにも憎しみの篭った声で吐くのだろうか。
 失踪したアルクェイドと世界中で発生している『偽・真祖(デミ・アルテミス)』による異常殺人。
 志貴の言から鑑みるに、一見関係のない二つの事件は繋がっているのかもしれない。
 (そう、――久遠寺アリスと志貴を基点として)
 何にせよ、情報が足りない。
 昨晩、シオンは志貴にもっと詳しく問い詰めようとしたが、いつもの調子で飄々とかわされ、どこかへ去ってしまった。やることがある、とそう言い残して。
 言いようの無い違和感と不安が、濁りのようにシオンに溜まる。
 (志貴は一体何を隠しているのか……)
 ――生命が枯渇した冷たい、深夜の路地裏。
 ――そこで見るも無惨に惨殺された同門の錬金術師。
 ――絶対零度の殺気。
 ――何か隠し事をしている志貴。
 ――殺人貴と呼ばれる正体不明の人物。
 あらゆる情報がシオンの中で錯綜する。流れるような思考は、ある疑問を導き出す。
 それは。

 今回の事件は久遠寺アリスが起こしたのではなく、それを隠れ蓑にした、遠野志貴が起こした殺人事件ではないかという疑問――――

 「――――っ!」
 ――カット。
 そんなはずは無い、とシオンは頭を振る。
 仮に殺人貴と呼ばれる人物が遠野志貴だとしても、何の理由も無く、自ら殺人を行うなんてことはしないはずだ。
 (何より私は、志貴を――私の友人を信じている)
 自分と同類だと言ったワラキアを真っ向から否定してくれた志貴を信じている。
 決して志貴はそんな人間ではないと――
 「先輩? 着きましたよ。……どうかしたんですか?」
 「え――」
 気付くと協会の監査役が待っている客部屋の前まで来ていた。
 (確かに、今考えることではない……)
 シオンは深呼吸をして。
 「いや、何でもありません。……さて、一体どんな無茶を言われるのか――楽しみにしましょうか」
 そう言って、扉を開けた。
 ギィ、と軋みを上げる扉を横目で見ながら、シオンはクリスと共に部屋の中へと一歩を踏み出す。
 部屋のソファに礼儀正しく座っているのは。
 「……アトラスの錬金術師は、もっと時間に厳しいものだと思っていましたが――これは少し、期待外れですね」
 鋭い眼光を光らせながら、皮肉を放つバゼット・フラガ・マクレミッツだった。
 シオンは表情を変えずに言う。
 「事前に碌な連絡も無しに期待はずれなどとよく言えますね。――バゼット・フラガ・マクレミッツ」
 「は、はわわわ。二人とも落ち着いてくださいよー」
 火花を散らすが如く睨み合っている両者に思わずクリスは動揺する。
 シオンは構わず続ける。
 「それで、私を呼び出した理由は何ですか。まさかご丁寧に挨拶しに来たというわけでもないでしょう?」
 「――――報告書は読ませてもらいました。禁忌を侵したとはいえ、流石アトラシア≠フ名を冠することだけはある」
 バゼットは手にしていた紙の束をテーブルの上に置いた。それを確認し、顔を上げた。
 (……何だ?)
 心なしか、幾ばくか神妙になった顔を不審気にシオンは見る。
 バゼットは、一度目を閉じ、開け。

 「バレル・レプリカの貸与、及び封印区にある黒い銃身(オリジナル)≠フ解放を、我々『時計塔』は要求します。――契約書≠フ名において」

 そう、確かに口にした。

* * *

 夜。
 昨夜の惨劇のせいか、街には人影一つ無い。
 その人気なき街で、二つの影が舞い踊っていた。影絵の舞台のように。
 「――――」
 「――――」
 地を蹴る音と白刃がぶつかりあう金属音が無人の街に響く。ぶつかり、穿ち、殺しあう。そんな踊るような剣舞は、やがて終着へと辿りつく――――


 ざぁ、と空風が吹く。
 「……」
 月光輝く無音の街で、無言で佇むフォーマルスーツの女性が居る。バゼットだ。
 バゼットは見る。
 ――目の前の惨状を。
 赤という赤が、そこにはあった。路地の中央には、まるで彼岸花のように血という花弁を撒き散らして、人が卍の姿で咲き誇っていた。
 バゼットは、その惨状には目を向けない。
 研ぎ澄まされた視界にいるのは、一人の男だ。
 影、としか形容出来ない男は、白刃を逆手に持ち、ただ何もせず佇んでいる。血の赤を、周りに眺めながら。
 影が、ゆらりと動き、振り向く。
 瞬間。ゾ、と殺気がバゼットに突き刺さる。
 「……」
 それを物ともせず、無言無表情で拳を構えた。
 黒い影がニヤリ、と笑う。
 「――言っただろう?」
 バゼットが駆ける。黒い影が踏み出す。

 「オレに、殺させるなと――――!」

 黒い影――七夜志貴は、焼け付くような法悦の笑みを浮かべ、楽しげにそう言った。
 互いのぶつかりあう音が、夜に響く。

.......to be continued

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