そしてやがて、お話が渇えると
想像の井戸も枯れ
そして疲れた語り手が
肩の荷をおろそうとすれば
「つづきはこんど――」「いまがこんどよ!」
と声たちがうれしそうにさけぶ。

――『不思議の国のアリス』巻頭詩

 「――何、ですって」
 普段、冷徹なシオンの瞳が微かに揺れた。
 ソレを真正面から見据え、バゼットは同じ言葉をもう一度口にした。

 「ですから、ここに封印されている黒い銃身(ブラック・バレル)≠私達に貸して欲しい、と言ったのです」

 黒い銃身(ブラック・バレル)<鴻塔Mヌス。『天寿』を表す概念武装。寿命の概念を叩き込み、不死なる化け物を灰燼と化す。それは相手が強大であればあるほど威力を発揮する神殺しの顕現。
 仮に相手が真祖だとしても、直撃すれば死を与えることも可能。
 その正体は第五架空元素(エーテル)との相克作用ではないかというが――。
 なるほど、とシオンは思う。
 確かに真祖の模造品であると思われる(・・・・)偽・真祖(デミ・アルテミス)』に対して、間違いなく有効だろう。何せ、真祖すら屠る対化け物用の切り札である黒い銃身(ブラック・バレル)≠ナあれば、問答無用に消滅させることが可能だろう。そのイミテーションであるバレル・レプリカでも、ある程度以上の結果を出せるのは明白だ。
 アトラス院のジョーカー、黒い銃身(ブラック・バレル)≠ニそれに連なる模造品。正体も判らない現状、確かに対『偽・真祖(デミ・アルテミス)』にはうってつけかと思われる。
 だがしかし――
 「――お断りします。我がアトラス院は世界の均衡を崩すつもりも無い。そもそも私に、そんなことを決定できる権限など無い」
 天秤が、崩れる。
 それは黒い銃身(ブラック・バレル)≠ェ破格級の概念武装であることや、アトラス院の切り札であること――そんな瑣末な理由などではない。
 問題は異端排除の聖堂教会がもう一つ(・・・・)の神殺しの銃を所持しているところにある。
 魔術協会と聖堂教会は仲が悪い。世界の真理を暴こうとする魔術協会と奇跡は神に選別された者だけという聖堂教会が、互いに折り合いが悪いのは当然と言えた。
 二つの組織は、互いが互いに容認できない故に、疑い、奪い、殺しあった。
 世界の裏側で展開される闘争。血肉を削り、ひたすら殺し合う。その様は正に壮絶で凄惨なものだった。なまじ実力が拮抗しあう両者だ。戦いの様相は泥沼のように堕ちて行く。
 だが、それではお互い潰し合っていくだけの消耗戦だ。
 その闘争の無為にようやく気付いたのか、今では両者に仮初めの協定が結ばれている。

 いつ崩壊するとも限らない、協定を。

 実力が拮抗しているからこそ生まれる協定。仮初めの平和。天秤は恐ろしく不安定で、どちらに傾いてもおかしくは無い。
 そんな状況下で、黒い銃身(ブラック・バレル)≠ネどいう規格外の概念武装が魔術協会に渡ったらどうなるのか。
 協定の破棄。血で血を争う魔術闘争の再開である。
 シオンは思考を走らせる。
 (――協会も馬鹿ではない。黒い銃身(ブラック・バレル)≠手にしたからといって、直ぐにそこまでの蛮行に至るとは考えにくい。だが、少なくともアドバンテージは得ることが出来る)
 魔術協会、聖堂教会にしても、幾ら極上とはいえ黒い銃身(ブラック・バレル)∴ネ上の武装は存在・所持しているのだ。そこまで急激なバランスの崩壊には至らないとも思える。
 しかし、天秤は間違いなく魔術協会に傾く。現在の協定は、お互いに奇跡的な実力の拮抗で結ばれている。協定の破棄、とまではいかなくとも亀裂は間違いなく生まれるだろう。
 ――それは、いつか必ず、世界を裁断する罅割れだ。
 「そもそも私達ですら手に余る代物だ。貴方達にソレを制御できるとはとても思えない。それに、あなた方のことだ。貸した所で戻ってくるとは限らない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
 シオンは、いつもの無表情でそう言った。
 言葉を受け、バゼットは口元をニヤリ、と吊り上げる。
 「心外ですね。私達が信用ならない、と? 貴女が協力してくれれば、今の世界の危機を排除できる。これ以上の被害を、貴女は望んでいるということですか?」
 「ふん、よく言いますね。もし貴女が言うように『時計塔』が信頼がおけるような場所だったら、三大部門はここまで交流が廃れなかった。契約書≠ニ黒い銃身(ブラック・バレル)≠フオリジナル……幾らなんでも釣り合わない。――そもそも、対『偽・真祖(デミ・アルテミス)』の武器を作れと依頼してきたのは他ならぬ『時計塔(あなたたち)』だ」
 どういうことだ、という目でシオンはバゼットを睨む。
 バゼットは全く動じることなく、
 「――簡単なことです。このエジプトに、『偽・真祖(デミ・アルテミス)』――久遠寺アリスが居る。のんびり武器が出来るのを待っていられるほど、時間は無い」
 そう、知っているはずの無い単語を口にした。
 「――――!」
 久遠寺アリス。その名前が、どうして、魔術協会の人間の口から出てくるのか。
 報告書には無く、初めて自分が耳にしたのは、魔術師でもなんでもない遠野志貴からの声だ。身震いするような、それは怨嗟の音――。
 ――いけない。それは今考えることではない。この情報は自分が知っていてはならない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
 刷り込まれた理性(ずのう)が警告する。擬態しろ、と。
 動揺を顔に出すな。気持ちにも出すな。考えをカットし、知らない振りをしろ。

 さもなければ、遠野志貴が疑われるぞ。それでもいいのか、シオン・エルトナム・アトラシア――――!

 「――それは報告書に無かった名前です。何故十年近く前に失踪した魔術師の名が出てくるのか、説明してもらいましょうか」
 シオンは表情を一切崩すことなく、そう告げた。錬金術師にとって、感情を殺すことなど造作も無いことだ。その身体に欠陥を抱えているシオンは特に。
 バゼットは俯き、何処を見るでもなく、視線を遠くに置いた。まるで、何かを反芻するように。
 その行動は、言っていいことか悪いことか吟味している者のソレだ。
 訝しむシオンを余所に、バゼットは空白を作り出す。
 しかし時間の空白は長くなく、バゼットは目を瞑り。
 「ある筋からの情報提供です。コレは間違いなく真実だ、と断言できるほどの」
 言った。
 「ある筋からの情報――?」
 (あの『時計塔』ですら名前どころか痕跡すら発見できていない。それどころか首謀者なんていう考え方が出てくるほど、事件が発生しているわけでもない。なのに、何故そこまで明確に名前が挙がる――)
 そこまで考えて、シオンは一つの可能性に思い至った。
 ――それは、一人の魔法使いの姿。
 「ま、さか……」
 在り得ざる想像に、目を見開いた。冷静沈着を主とし、感情を表に出さない錬金術師が。
 いや、だがしかし、という否定が頭に浮かぶ。しかし考えれば考えるほど、その解は真実味を帯びていく。
 そして、バゼットは顔を上げ、シオンの目を真っ向から見据え、言った。

 「――蒼崎青子(ミス・ブルー)が、動いています。決して表に出てくることの無い、稀代の破壊の担い手が」

 静寂なる室内で、クリスの生唾が喉を嚥下する音だけ、微かに響いた。
 

3/
 対峙["A Mad Tea-Party"]


 深夜。バゼットは昼間のことを反芻しながら、暗い町並みを歩いていた。
 (……結局ダメでしたか。流石に、黒い銃身(オリジナル)≠貸し出すほど気前は良くない、か。――余程の代物と見える)
 契約書≠キら目にもくれず、頑なに彼女――シオンは断った。それからも、更に上の階級の者とも交渉を持ちかけてみたが、結果は全て『No』だった。
 神殺しの銃神(ロンギヌス)。それはバゼット本人が思い浮かべるよりも危険なものらしい。
 実際にどんなものかは見たことは無いが、噂話としてなら、十二分に知っている。だが、ここまでアトラス院が必死になって、隠す理由は何なのだろうか、と思う。
 (本物が作られたことがあるにも拘らず、模造品(イミテーション)を量産しているとは、どういうことだ? 単なるコストの問題か? それとも――)
 ――製造法を知らないか、もしくは知っていたとしても何かしらの理由があって、作れないのか。
 何にせよ。とんでもない曰く付きの代物には間違いないのだ。
 バゼットは眉間に皺を寄せ、不機嫌に思う。
 世界の終焉を回避しようと足掻く錬金術師。そんな彼らが必死に外に漏れ出さないよう、頑なに蓋を閉めている箱。がっちりと。決して、その箱は開いてはいけないと、奈落の底でもがいている。
 それは、まるで世界を殺す、毒を押し殺しているような――――
 
 ……禁忌(パンドラ)の匣。そんなフレーズが、脳裏に浮かんだ。

 ふぅ、と息を吐いた。
 (ともかく黒い銃身(ブラック・バレル)≠ヘ借りれない。……まぁ、何とかなるでしょう。いざというときの切り札もあることですし)
 ガチ、と音が聞こえた。金属がぶつかりあったかのような音は、バゼットが手にしている細いラックから聞こえる。
 斬り抉る戦神の剣(フラガラック)=B逆光剣。バゼットが持つ最強の武器。何千年もの時を越えて、なお存在する宝具の現物。
 ――これさえあれば、そうそう負けることは無い。
 自惚れでは無く、バゼットはそう思う。
 封印指定の実行者という忌憚無き肩書きの理由が、そこにはあった。
 例え、相手が『偽・真祖(デミ・アルテミス)』という化け物相手でも遅れを取ることは無い。
 (――よし)
 自分の戦力と勝算を確認し、再び夜の街を歩き出す。その目的は勿論、猟奇殺人の犯人を見つけること。そして、久遠寺アリスを発見・拿捕することだ。
 「拿捕、か」
 バゼットは自嘲するように呟く。俯いた瞳は、焦点が合わないかのように虚ろとしている。
 戦闘。拿捕。連行。審問。刑罰。
 あらゆる工程がイメージとして浮かび、消えていく。『時計塔』の審問にかけられる者の行き着く所など、決まっているのだ。
 死。
 世界を混乱に陥れた責任は命を以って償うこととなるだろう。
 その工程の第一段階を担うということ。それは、久遠寺アリスを。
 この手で殺すことに他ならない――――
 は、と笑う。
 それは、いつもやっていることだ。
 ――上等、だ。
 久遠寺アリスは、霧生朱美を殺害した。
 その事実は、バゼットの中に重く圧し掛かっている。
 憎しみという重圧だ。躊躇う理由など無い。
 しかし――――
 (衛宮士郎、貴方はどういう行動を取る?)
 正義の味方は、世界の敵に、どのような行為を以って返すのか。
 ――私は不器用だから、仇をとるくらいしか出来ないけど。
 疑問に勿論答えは無く。
 ただバゼットは、意味も無く駆け出した。
 こう思う自分は、果たして弱くなってしまったのだろうか。そう、思いながら。

 夜の街を走りに走り続けたバゼットは、ある一つの異変に気付いた。
 ――音が……!
 無音。沈黙。静寂。完成された密室。
 エジプトの首都という人の坩堝に塗れた街が、完全なる静謐に沈んでいた。
 ジジ、と街灯が鳴く。
 灯りはあれど、音は無し。――それは紛うことなき異変だった。
 (結界……!)
 瞬時に判断を下し、更なる加速を自らの足に与える。
 おおよそ人間が出せるスピードを越えて、バゼットは無言に沈んだ夜の街を疾駆する。
 ザァ、と風が凪いだ。
 流れてくるのは中東独特の湿った空気、都市の匂い。そして――――鼻が曲がるような、血の臭い。
 嗅ぎなれた臭いだからこそ、この先の惨状は容易に想像出来る。
 バゼットは舌打ちし、そのまま引き込まれるように、路地裏へと入っていった。

 そこには、やはり想像通りの地獄絵図が広がっていた。

 赤。赤。赤。朱。朱。朱。肉。肉。肉。死。死。死。殺害。殺害。殺害。
 人としての尊厳を失った肉塊が、食い散らかしたように放置してあり、その悉くに刃物で突き刺したような穴がある。
 製作者のブラック・ジョークなのか、肉塊が卍の形に咲いている。それはまるで彼岸の花のよう。
 喉が震える。笑い出したくなるような狂気が肺に流れ込む。一切合財を投げ出して、全てを破壊したいという衝動に駆られる。
 だが、バゼットにとって、そんな感覚は慣れたものだった。
 腐臭と死臭が空間を満たす中、バゼットは表情一つ崩さず――戦闘準備を始めた(・・・・・・・・)
 その双眸が捉えるのは、一人の男。黒い影は、白刃を片手に持ち、月を見上げている。
 バゼットに気付いたのか、男はゆっくりとした動作で振り向く。

 刹那。
 バゼットの眉間にナイフが差し込まれた。

 「――――っ!」
 落ち着け。今のは単なる殺気だ。鋭すぎる殺気にイメージを喚起させられただけ。
 バゼットは息を整え、最早無意識に叩き込まれている戦闘態勢に移行する。拳や脚、膝、爪先に硬化のルーンを刻み、人が生み出した暴力の結集たる拳闘(ボクシング)スタイルで構える。
 構えながら、バゼットは思い出す。昼間に会った、絶対なる殺意を持つ男を。
 ――――認めよう。今、目の前に居る男は。私以上に『殺し』に長けた、最凶で最狂で最悪な生粋の殺人鬼だということを。
 未だ戦っていもいない男を、バゼットは冷静にそう評価した。
 「――言っただろう?」
 黒い影はニヤリ、と笑う。
 バゼットは踏み出す。
 ……冗談。口上になど付き合っていられるか。
 駆けた。一歩目でコンクリートを踏み砕き、二歩目で速度が生まれ、三歩目で加速する。それら刹那にも満たない時間。目測で凡そ十メートル。バゼットの脚は、その距離を一瞬にして無効にできる。
 だから、しようとした。
 「オレに――」
 接敵する。残り三メートル、踏み込んで一撃を加えられる距離だ。
 右の足を踏み込み、身体を落とし、重心を安定させ――右拳の一撃を放った。
 ゴ、と走るソレは魔術的な加速・硬度を得て、黒い影に迫る。
 「殺させるなと――――!」

 瞬間、焼け付くような法悦な笑みを残像として残し、七夜志貴(くろいかげ)が視界から消えた。

 あれほど感じていた殺意の一切合財が消えた。バゼットにはその軌跡すら追えない。
 「っ!」
 ――殺気が後ろから突き刺さったと感じた瞬間、七夜のナイフが首筋に迫っていた。
 いつの間に、という疑問を思う前に、バゼットの体は動く。
 横ステップで回避しても、意味は無い。突きから薙ぎへと変化するだけだ。攻撃の連続は止まらない。
 ぐん、とバゼットは腰を沈めた。白刃が髪を擦過する。腕を突き立てたことにより、生まれた胴の前の空白に半歩踏み込み、体を捻る。
 七夜の顔が、!≠ノ見開かれた。
 そして、顎へ向けてのバゼットの一撃――アッパーカットが来た。
 ゴゥ、と風を両断しながら七夜へ迫るが、しかしソレは空を切る。
 バゼットが何故と思った時には、既に相手は間合いから離れていた。
 七夜はニィ、と口元を歪ませ、佇んでいる。つぅ、と冷や汗が頬を通る。
 「――まさか、あの体勢からアッパーを撃つなんてね。噂には聞いていたけど……バゼット・フラガ・マクレミッツ。化け物か、アンタ」
 「私を知っていますか。全く、光栄なことです。アナタこそ――名前は分かりませんが――あの距離を一足。人間業とは思えませんね」
 は、と七夜は笑う。
 「二年も三年も裏の世界を駄犬のように駆けずり回っていれば、有名人の名前くらいは耳に残るさ」
 そうですか、とバゼットは興味無さげに呟いた。
 「……一つだけ、聞きたいことがあります。今回の殺人――昨日の死体と今日の死体は、貴方が為したものですか?」
 一息。絶対零度の殺意が七夜から迸る。
 「違う違う。――違うだろう? バゼット・フラガ・マクレミッツ。そんなことを知ってどうする? オレがこの肉塊のオブジェを作ったかなんてどうでも良い話じゃないか。オレが『違うノー)』と言ったら、何もしないのか? そうじゃない、そうじゃないだろうバゼット・フラガ・マクレミッツ」
 くるん、と七夜がナイフを逆手から順手に持ち帰る。
 バゼットはソレを聞いて、肯定の意を返す。
 「……そうですね。あまりにも貴方は怪しすぎる。貴方が殺人を否定した所で信用に足るものは何一つ無い。――ならば」
 拘束ないし殺害。明らかにこの男は一般人ではない。魔術の形跡は無いが、その世界に身を浸しているのは確かだろう。
 ならば、この男を殺して何の問題があろうか。それで殺人が止まるもよし止まらぬもよし。
 何より、魔術は隠匿されなければいけない代物。
 そう――――このままうろちょろされても迷惑だ(・・・・・・・・・・・・・・・・)
 バゼットは拳を軽く握る。戦闘の続行だ。
 七夜は心底面白いと言った顔で、ナイフの切っ先をバゼットに向け。
 「――――さぁ、正しい殺し合い(・・・・・・・)をするぞ、魔術師(ミスティック)。今宵は良い月だ。そう、お前がオレの邪魔をして、だからオレがお前を殺す。そうだ、これが殺人戦闘としてあるべき姿。生存戦争の極致。互いが互いに目的を持って喰らい合う(ころしあう)。快楽でもなく愉悦でも憎悪でもない、明確な目的意思を以って行う殺人こそが貴い殺人だ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
 言った。殺人の、肯定を。
 「――――」

 ずきん。

 その言葉にバゼットには何も返さない。返すものなど持ちえていない。殺人など肯定するものでもないが否定するものでもない。バゼットにとって――魔術師にとって、殺人とはそのようなものだ。軽くも無いが重くも無い。人道的道徳的良心的。そんな言葉は魔術の世界には無い。
 なのに、どうして。
 この胸は、こんなにも軋むのか。

 ずきん。

 今更何だというのだ。何人も何人も、この手にかけておいて。
 両の手は血塗れで、だけどもソレが日常だ。魔術師にとって至極当然の日常。まして自身は『時計塔』が抱える封印指定専門の捕縛師。
 学ぶはひたすら『殺』の一文字。人を殺す手法を学び、魔術師を殺す手法を学び、化け物を殺す手法を学んだ。その度に心は鍛えられ、痛みや嫌悪感など、どこかへ消えていった。そのはずだった。
 そんな自分が何故、目の前の男を否定出来る――

 ずきん。

 脳裏に浮かぶのは、一つの問い。とある正義の味方に穿たれた、致命的な違和感(きず)
 なぁ――――

 ずきん。

 だから。

 だったら、バゼットは何で――――

 ずきん。

 お願いだから。

 ――――何がしたくて(・・・・・・)魔術師になったんだ(・・・・・・・・・)

 今までの私を、否定しないで――――――――!

 「ああああああああああああああぁぁぁぁああああああああああああ!!!!!!!」
 叫ぶ。胸の痛みを掻き消す様に、唯の音として、獣のように咆哮する。
 同時に疾駆。コンクリートを踏み砕き、己が出せる全力をひたすら脚に叩き込む。
 対し、七夜は笑う。これこそが殺人(たたかい)だと。
 持つは意志と目的。そこに感情など、必要ない。
 ……そうだ。本能のままに――――理性を以って戦え(・・・・・・・・)。それが殺し合いというものだ。
 七夜は四肢を地面に付け、身を沈めた。スプリンター選手のような構え。さながら蜘蛛か。
 迫る。迫る。叫ぶ獣が死を与えんと駆けてくる。
 先ほどのアッパーカットが脳裏にちらつく。直撃していたら、間違いなく首から上は吹っ飛んでいただろう。
 僅か一センチで肉薄する『死』。直死()魔眼()に映る現実世界。ああ、何という芳醇な香りか。何という現実感か。
 死が臭う。死が香る。死が視える。ツギハギの世界で、獣が吼える。肉塊となっているオブジェ。コンクリートに視える点と線。凶獣に蠢く点と線。自らに刻まれた傷跡。月光の下、ありとあらゆる『死』が渾然一体となり、甘美な香りとして空間を満たす。

 ああ、世界は死に満ちている――――

 ゴ、と七夜は地面を蹴った。
 次いで、ぶれるような残像が微かに残り、七夜はバゼットの視界から消える。
 (――これだ。この男、恐ろしく『殺し』に特化している……!)
 バゼットは一度足を止め、周りを見渡す。
 七夜は、文字通り黒い影となり、路地裏の空間を三次元的に飛び跳ねる。
 壁を蹴り、地面を蹴って、上下左右三百六十度の空間を高速で動き回っていた。
 これでは、幾らバゼットといえども、そうそう捉えることは出来ない。
 (……この出鱈目な動きを可能としているのは、あの蜘蛛のような独特の歩法と……相手の死角を常に見つけ出し、そこを突き続けるという体術。は、正に暗殺者(アサシン)といったところか)
 客観的に分析したならば、総合的な戦闘力はバゼットの方が高い。
 ルーン魔術と拳闘技術(ボクシング)、それに加え、身体強化・能力も相当なものだ。魔術協会の武闘派は伊達ではない。
 だがしかし、それらが一番威力を発揮するのは、正面切っての真っ当な闘いだ。七夜のような奇襲を前提とした、変化級的な戦闘スタイルとは相性が悪い。
 (だが。そんなことは)
 グ、とコンクリートの壁を思い切り踏みしめ――七夜は弾丸の如く、バゼットの背に迫る。
 七夜が狙うは首筋に走る線≠セ。
 線≠睨みつけるように七夜の蒼眼が爛々と輝く。
 (どうにでも、なる――――!)
 交差。ナイフが首筋を切り裂こうとして――紙一重で避けられた。
 「――――っ!」
 そして、着地。無論、そんな隙を見逃すほどバゼットは甘くは無く――――
 大砲じみた拳撃が、七夜へと向けて撃ち抜かれた。
 だが、拳は刹那の差を以って、届かず。再び、両者は互いの間合いの外で対峙する。
 七夜は思う。
 (……あの女。こちらを微塵も気にかけることなく避けやがった。オレが何処を狙っているのかなんてお見通しというわけか。畜生め)
 攻撃の一瞬、殺気が僅かでも漏れ出すのは致命的だ。純粋で異質な殺意は悟れ易く、その上直死の魔眼による一撃は必然、急所のみを突く。バゼットのような闘争を担う者にとって捉えやすいのだろう。
 バゼットは思う。
 (……あの脚力・体術は本物だ。最高速度こそ私に及ばないが、初速の加速は侮れない。二の歩にして既に最高速度に近い速度を出している。これは捉えるのに一苦労するな)
 攻撃の一瞬、隙を突いても逃げ出されるのは致命的だ。初速の差で追いつけず、拳撃の速度を以ってしても、紙一重で避けられる。
 近づいてナイフで一突きさえ出来れば、一撃絶殺であるのに、とても近づくことができない七夜。
 七夜の加速に追いつくことが出来れば、一撃必倒であるのに、とても捉えることの出来ないバゼット。
 このままでは、バゼットは七夜の加速に追いつけず、七夜はバゼットに一太刀も浴びせることが出来ない。
 いわゆる、千日手だ。
 このままでは消耗戦となり、やがては朝を迎えてしまう。それは、この殺し合いの終了を意味する。
 七夜は障害となるべきバゼットを見逃すつもりはないし、またバゼットも犯人かもしれない不審者を見逃すことはないだろう。そう、両者とも、この場の決着を望んでいる。
 「……」
 「……」
 動けない。此処に来て両者の相性の悪さが仇になった。動いても、動かなくても、結果は同じ。
 ――これの何処が、殺し合いだ。
 「ち、もう止めようぜ、こんなこと。惰性による硬直なんて惰弱極まりない。下らない下らない。血が流れない殺し合いに、何の意味がある?」
 七夜は緊張を崩したように、頭をボリボリと掻いた。
 「面白くない。吐き気がする。お前もそうだろ? バゼット・フラガ・マクレミッツ。アンタも中々短気そうだからな、堪えられないだろ? こんなこと」
 ふ、とバゼットは笑いの息を吐く。
 「ああ、遺憾ですが、その点については同意です。――私もまだるっこしいのは大嫌いです」
 それを聞いて、七夜は口元を吊り上げる。まるで三日月のように。
 「そうだろうそうだろう。アンタとオレは同じ世界に生きる人間だ。疑い合い、奪い合い、殺し合う、世界の裏側の住人だ」
 くっくっく、と心底楽しそうに笑う。
 「……肯定です。両手は血塗れで、歩いてきた道には屍しかない。後にも先にも私達には闇しかない」
 バゼットも笑う。しかしそれは何処か――自虐的な笑みだった。
 ザァ、と風が吹く。
 どこか弛緩した空気は、一瞬にしてその硬度を取り戻す。
 七夜がバゼットを見据える。
 「――――だからさ」
 バゼットが七夜を見据える。
 「――――故に」
 視線は交差し、而して爆ぜる。無音無視の光爆。見えない紫電が走り、見えない焔が燃え盛り、空間を蹂躙していく。
 不純物は濾過され、純度百%の戦闘空間へと化学変化していく。満たす物質は『殺』『殺』『殺』『殺』『殺』の一文字。見えない神が囁いた。
 ――――さぁ、殺しあえ、と。
 声が、重なる。

 「「次の一撃に、全ての決着を……!!!!」」

 互いを分かつ、空気が震えた。

 まず動いたのは七夜の方だった。
 今度は視界から消えることは無い。残像も残らない。
 真正面、一直線に突っ込んできたからだ。
 重心を低く低く。鼻先が地面に付くぐらいの低重心で駆け抜けていく。さながら弾丸だ。空気を裂きながら、標的を殺害するために疾駆していく。
 相対するはバゼット・フラガ・マクレミッツ。だがしかし、その身は微動だにしない。
 ただ眼を閉じ。
 「後より出でて先に断つもの(アンサラー)=c…!」
 呟いた。
 路地裏に投げ捨てられたラック。その中から球の形をした石塊が出てきた。
 ゴォ、と石球は一瞬でバゼットの元へ。
 バゼットは体を捻り、右腕を振りかぶるようにして、右後方へと置く。
 握った拳の上に、吸い寄せられた石球が浮遊する。
 瞬間、紫電が走った。魔力がバゼットから石球へ流れ込み、魔術文字が浮かび上がり、閃光が強くなっていく。
 宝具。物質化した奇跡――今なお現代に残る現物(ほんもの)が、人の手によって発現する。
 空気が走る。空間が高速に流れ行く。
 バゼットは声無き声で叫ぶ。
 ――――来い、と。
 七夜は声無き声で応える。
 ――――行くぞ、と。
 今や互いを遮るものは無い。迸る意志も感情の流れも相対する理由も過去も未来も現在も。
 全て、意識と共に流れていく。
 在るのはただ、殺気のみ。
 瞬間を以ってして、遂に両者は相対した。己が得意とする間合いの中で、視線がぶつかった。
 七夜が笑う。楽しくて仕方が無いとばかりに。
 「その魂、――――極彩と散れ」
 見るのは一点。心臓付近に穿たれた黒い点≠フみ。
 ――――――――閃鞘=@
 バゼットは思う。
 来る。敵が来る。
 今まで捉え切れなかった敵が、自分の間合いにやってくる。
 ――何も知らない、敵が。
 今から撃ち出すのは、究極の迎撃礼装。時を逆光する一撃。持ち主が手をかけるまでもなく鞘から放たれ、敵が抜刀する前に斬り伏せるケルトの光の神ルーが持つ短剣。
 因果を歪ませて自らの攻撃を先にしたものと書き換えてしまう確率の干渉。相手の攻撃が、いかに威力があろうといかに速かろうと、これが放たれればあらゆる攻撃をキャンセルし、相手に一撃を抉ることが出来る。
 この状況は自分にとってベストの展開だ。
 ――――決着は、自分のモノだ。
 真名を、解放する。己が決着のために。
 「――――――――斬り抉る(フラガ)=v

 まるで七夜の視線をなぞるかのように、ナイフが走る。その速度は高速を超えた神速。全身をバネに、己が持てる力を刃へと込める。

 "迷獄沙門=\―――――――!!

 堪えられないと言わんばかりに紫電が走り、迸った。宝具が、発動する。刃が顕現し、光に包まれる。プラズマが如き光球は、主人の命を今か今かと待っている。
 ――――往け。

 「戦神の剣(ラック)=\―――――――!!」

 光の軌跡が一直線に伸びる。光球は七夜を穿とうと――――
 ――――時間が、圧縮する。

* * *

 危険だ、と本能が警告した。
 七夜は疾駆しながら、その予感は止まらないことに冷や汗を掻いていた。
 何だ何だ何だ。この予感は何だ。
 ――死ぬぞ、と確かに感じている。
 視界の中央にいるバゼットが。
 「――――――――斬り抉る(フラガ)=v
 何か、言おうとしている。
 ドクン、と心臓が跳ねた。
 ――アレか(・・・)
 全ての予感の原因。球に短刀がくっついた異形の剣。死の匂い≠ェ、空気を満たす。
 恐らく、アレが放たれれば、自分は死ぬだろう。
 間違いない。自らの『嗅覚』がそう言っている。
 だが、と七夜は自らに問いかけた。
 だがどうする、と。
 既に攻撃態勢に入っている相手。疾駆している自分。突き出そうとしているナイフ。踏み込もうとしている足。
 そのどれもが七夜に回避を許さない。
 ――死ぬのか。、オレは。こんなところで何も果たせずに。
 ドクン、と心臓が吼える。否、と。
 ――ああ、そうだ。死ぬわけにはいかないな。
 ありとあらゆるものがスローモーションで流れる中、唯一自らの思考だけが流れるような速度で駆け抜けていく。
 ――なら、答えは簡単だ。避けられないのなら、殺せばいいだけ(・・・・・・・)だ。
 ぎらり、と睨みつけるように球を睨み、足の踏みつけの重心を強引にずらし、標的をバゼットから紫電走る球体へ変更した。だが――

 ――見えない(・・・・)!?

 それも当然。七夜が直死しようとしているのは、物質化した奇跡ともいえる宝具。神代から連綿と伝え続けられる生きている奇跡≠ネのだ。ただの概念武装とは神秘の桁が次元違いだ。
 死。その香りが、より一層芳しいものになっていく。
 ――死? 死ぬのか? オレは。
 ゾグン、と怖気が体を突き抜けた。
 今まで誰よりも何よりも死に近かった自分。そんな自分が遂に――周りの死に飲み込まれてしまうというのか。
 怖い。
 死ぬのが怖い、と心の底から七夜は思った。
 そうだ。自らの消滅よりも生きている証拠を残すことよりも家族達の悲しみよりも。

 もし私に『そのとき』が来たなら――――

 何よりも、この約束を果たせないのが怖い――――!

 ドグン。
 ――脳が加熱する。
 見ろ。見えないのなら見えるまで見ろ。どんなに小さくても細くてもいいから見つけ出せ。いいから見つけ出せ。早く見つけ出せ。早く早く早く。何よりも早く。迫ってくる死よりも早く。
 ――まるで熱湯を直接頭蓋に注がれたように熱い。
 ぎち。ぎちぎちぎち。眼球が熱い。頭痛が激しい。それでも視る。見つめ続ける。全ての神経を眼に。ありとあらゆる力のベクトルを視線に込めた。
 ――バゼットが言葉を続けようとする。言葉が途切れたとき、それはオレの死を意味する。
 視界が赤く染まる。頭蓋を万力で締め付けるような頭痛。内臓を吐き出してしまいそうな吐き気。それらは脳の警鐘だ。進めば崩壊するぞ、と七夜志貴に語っているのだ。
 ――は、ははは。
 笑う。時が静止したかのような精神の中で一人笑い続ける。
 ――くく。ああ、痛い。痛い痛い。痛い痛い痛い痛いイタイイタイいたいいたいいたいいたい――――!

 ああ、この痛みこそ我が生の証。超えられるものなら超えてみやがれ、バゼット・フラガ・マクレミッツ。

 ゴォ、と風が一陣吹いた。
 空間を満たしているのは静寂でもなく沈黙でもなく――静止だった。
 斬り抉る戦神の剣(フラガラック)≠撃った姿勢のままで動かないバゼット。
 その背後でナイフを振りかぶった後の姿勢のままで動かない七夜。
 さながら静止画の如く、二人は動かない。
 だがしかし、それでも動くものがある。世界だ。
 砂を幾分か含んだ乾いた風は微動だにしない二人を撫でる。
 ――その、バゼットの足元に積み上げられている斬り抉る戦神の剣(フラガラック)≠フ灰のような残滓を載せて。
 バゼットが七夜のほうへと振り返る。
 「……今ので決着が着かないとは思いませんでした。貴方、一体何をしたのですか?」
 足元を見る。
 白い灰と化した斬り抉る戦神の剣(フラガラック)≠ヘ風に流され、そのほとんどが無くなっていた。
 バゼットは思う。何だこれは、と。
 魔術師でもない代行者でもない。おまけに概念武装すら持っていない。随分と特異な体術を使うが、それだけだ。獲物も、ただの飛び出し式のナイフにしか見えない。
 なのに、どうしてここまで宝具を破壊できる?
 在り得ない。在り得ない。在り得ない。
 まさに死神だ、と笑う。
 一体どんな手品を使っているのか。バゼットはそう思い、七夜を視界の中心に置いた。
 そこにあるのは爛々と輝く蒼い浄眼。間違いなくアレは魔眼だろう。では、アレが手品の種か。
 さらさらと流れる灰と化した自らの宝具を思う。石化でもしたというのか。石化の魔眼? 否。これは石化といった感じではない。まるで、存在自体が死んだかのような――
 そういえば……見たものを誰でも殺すことができる邪眼を持つ神がいなかったか。
 「――まさか、バロールの邪眼……直死の魔眼=c…!?」
 半ば伝説とまで言われている魔眼の一つ。古い魔術書にも、名前だけは出てくる。が、しかしそれだけだ。実際に直死の魔眼持ちを見たことは無い。それどころか、本当に存在するかどうかすら危ぶまれていた。バゼットはずっと、いわゆる都市伝説や伝記にありがちな誇張表現の類だと思っていた。
 だが、まさかこうして目にすることになるとは夢にも思わなかった。
 「……はぁ。アンタにだけは知られたくなかったんだけどな」
 そうだ。直死の魔眼持ちなど、実際に魔術協会にばれたら封印指定どころの騒ぎではない。
 いや、魔術協会だけではなく、聖堂教会も動き出すだろう。それどころか世界中の魔術師の関心が一手に集まる。
 それほどのものなのだ。直死の魔眼とは。
 七夜はハァ、ともう一度溜息をついた。やれやれ、といった感じにポケットから包帯を取り出し、その両目に巻きつける。
 「――決着はつけないのですか? あれほど大口を叩いておいて、逃げるとでも?」
 逃さない、と言わんばかりのバゼット。直死の魔眼なんていうレア能力を目の当たりにしたせいか、幾ばくか興奮しているようだった。
 パチン、と音を鳴らしてナイフの刃を引っ込めると、七夜は言った。
 「ああ、勿論アンタは邪魔で、確かに決着は着けたい。だけどな。
 ――――こうも邪魔者が多いと、やる気も無くなるさ」

 瞬間。ず、と闇の中から幾つもの黒い何か(・・・・)が這いずりだした。

 「……!?」
 バゼットの目が驚きに見開かれる。
 それは正に影、だった。地面に映る影をそのまま三次元に起こしてみたような、薄っぺらい体。長方形に顔と手足がついており、手には武器を持っていた。武器は剣・槍・盾・弓など様々。一言で表すのなら、『黒いトランプの兵隊』そのものだった。
 ずずずずず、と次々に這い出してくる影は、その増殖を止めることは無い。
 気付いた頃には、三十体近くのトランプの兵隊に囲まれていた。
 「これは……一体どういうこと……!?」
 バゼットは七夜に問いかけるが、既に七夜の姿は無かった。
 声だけが、聞こえる。
 「あー、そいつらが今回の事件の犯人(・・・・・・・・)だ。下手人は、まだ別にいるみたいだけど」
 「――――は?」
 飄々とした声が路地裏に響き、余韻は虚空へと消えていった。
 ジャキン、と三十体の兵隊に剣や槍を一斉に突きつけられた。降参しろ、と言わんばかりに。
 七夜の声が。
 「――――まぁ、頑張れ」
 とやる気なさげに響いたのを最後に、気配は路地裏から消えてなくなった。
 「は、はは……」
 乾いた笑いを浮かべるバゼット。
 一体何が何やらわからない。だがしかし――

 「上、等です……!」

 確かなことは、あの男が目の前の状況が面倒くさくなって、自分に押し付けたということだけである。
 トランプの兵隊が、一斉にバゼットへと襲い掛かった。
 「あぁ、もう!」
 覚えておきなさい、と一言呟き、苛立ちをぶつける様にバゼットは拳を振るった。

■□■□■□■□

 シオンは夜の街を走っていた。
 その目的はエジプトで起きている殺人事件の犯人――そして、首謀者である久遠寺アリスを探すことだ。
 事態は、思ったよりも大きいようだ。
 『偽・真祖(デミ・アルテミス)』、黒い銃身(ブラック・バレル)=A『時計塔』、魔法使い、遠野志貴、殺人貴、アルクェイド・ブリュンスタッド、久遠寺アリス。
 ありとあらゆる単語が、双方向に関係持ち、絡まり、錯綜し、頭の中を駆け巡る。
 このままでは、とんでもないことが起きる、とシオンは思う。
 (……今ある情報だけでは予測は不可能だ。しかし、この胸の不安は何?)
 理性と計算のみで未来を予測付けるアトラスの錬金術師が、単なる嫌な予感がするだけという理由で、こんなにも不安がっているというのは可笑しな話だ。
 それでもシオンは不安に急かされるままに走り続ける。――何か、良くないことが起きていると、直感めいた確信を以って。
 その時、視界に轟音と光が来た。
 「――――!」
 轟音は何かが撃ちだされるような発射音に聞こえ、光は魔力による魔術の発光に見えた。
 ……路地裏か。
 だ、とシオンは加速する。
 厭な予感は止まらない。
 志貴。
 昨日の夜から見ていない志貴が、何故こんなにも気にかかる。
 脳裏に過ぎるのは、あの狂気の入り混じった冷酷な瞳。
 ――――殺人貴よ。このエジプトで獲物を見つけたのか?
 「……違う」
 志貴は、そんな人間ではない。
 ただそれを肯定するように、シオンは我武者羅で走る。

 ちりん。

 おおよそ場違いな鈴の音が聞こえた。
 現れるのは少女。黒い服を纏い、無機質な瞳をシオンに向ける。
 「――レン」
 遠野志貴の使い魔、レンだった。
 レンは語らない。ただ『通さない』と、シオンの前に立ち塞がるだけだ。
 「レン。――退いてください。私はアトラシアの名を冠する者として、現状を知る義務があります」
 ふるふる。
 目の前の少女は頭を振る。
 「っ――――!」
 思わずシオンは熱くなる。何故、と疑問とそうなのか、という確信が胸を穿った。
 「何故! 何故なのです! 志貴は一体何をしているというのですか!」
 叫ぶ。
 レンはそんな姿を見て、幾らか眉を下げる。
 そして、唇は無音の声を紡いだ。
 ――信じて、と。
 それを見て、更にシオンは激昂する。
 (この状況で……一体何を信じればいいというのか!)
 自らに溜まった激の熱を吐き出すように、レンに言葉をぶつけようと口を開く。
 だが。

 「あらあらあら、面白い組み合わせね。これだから良月の散歩は止められないわ」

 突如湧いた言葉に、それは遮られた。
 「――――!?」
 レンとシオンは月を見上げるように顔を上げた。
 シャー、と猫のように威嚇するレン。
 まさか、という表情で固まるシオン。
 それらを至極面白そうに見つめる黒髪の女性。ビルの縁に腰掛け、愉快そうに口元を吊り上げていた。 
 ――久遠寺アリス。
 思わずシオンはそう呟いていた。
 
 志貴が探し続け、『時計塔』と世界を混乱に堕とした魔女が、月光の下で哂っている。
 

.......to be continued

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