......Prelude of Pandra's song
Episode.4<Side:月姫>
それは黄金の昼下がり
気ままにただよう僕ら
オールは二本とも危なげに
小さな腕で漕がれ
小さな手が僕らのただよいを導こうと
かっこうだけ申し訳につけて
――『不思議の国のアリス』巻頭詩
化粧台の鏡に一息で書かれた、『さようなら』という文字。そして部屋の中央に居るのは、膝を崩し天に慟哭する遠野志貴。
シエルが部屋に入ったとき、それがまず、視界に入った。
こうなるだろう、とシエルは思っていた。
アルクェイドに会ったとき、確かに自分で決着をつけると彼女は言った。ならば遅かれ早かれ志貴とは離れることになるのは時間の問題だっただろう。
だが。
私は、私で決着を着けるわ。……志貴のことを困らせるような真似は、したくないから
――これが、彼女の選んだ選択なのだろうか。
自分といれば志貴が困る。だから自分が、どこかに消えればいい。
そんなことを、あのアルクェイド・ブリュンスタッドが思うだろうか。
そして、このタイミング。まだ結婚式は全て終了していない。あまりにも唐突すぎる。
何か、おかしい。
違和感が、シエルの胸を過ぎる中――
「――アルクェイドはいなくなったんじゃない。
シエルの心を読んだように、志貴が言葉を放った。
それは、まるで地獄の底から響くような、声。
シエルは思わず見る。その足元には、粉々に砕かれた――魔眼封じの、眼鏡。
「遠野君、あなた――」
「遠野、じゃない」
ゆらり、と幽鬼のように志貴は立ち上がる。
そして。
「オレは、七夜だ」
反転した遠野志貴が、蒼き眼を宿して、其処にいた。
パンドラの唄〜前奏曲
第四話
『対立存在』
Alice in Wonderland
1/
蠢動 [“Down the Rabbit-Hole” ]
シオンは夕暮れの中、カイロの街を一人歩いていた。
エジプトの気候は暑い、とよく言われているが、ここカイロやルクソールなどは、とても過ごしやすい気候だ。アスワンやアブシンベル方面へ行くと話は別であるが。
近代的な道路を走る車を横目で見つつ、シオンは生活用品の買出しのため歩き続ける。
――こうして街を歩いていると、まるであの時のようだ。
普段あまり街を歩いたりはしないからか、ふとそんな事を思った。
四年前、極東の島国であった一つの出会いがシオンの脳裏を過ぎる。
あんなにも暑い――夜の徘徊のことを。
あの、ワラキアの夜のことを。
貴方が私を必要とした時、私は必ず貴方の力になる
四年前、極東の島国にある事件が発生した。
聖堂教会ですら正体すら掴めない吸血鬼。死徒二十七祖の十三位。正体不在の吸血鬼。誰も見たことが無いが、存在するとされる死徒――ワラキアの夜『タタリ』と呼ばれるモノの発現である。
それは人の噂を媒介に顕現し、噂どおりに人を食らう化け物だ。
環境に依存し、生物ではなく現象として永遠を目指したモノ。
シオンはソレを討つために、日本へと渡った。勝ち目が無い、と知りながら。
そこで在ったのは一つの出会いと一つの結末だった。
――遠野志貴との出会い。
志貴はあらゆる面において、シオンの想像を遥かに越えるものだった。
直死の魔眼、真祖からの寵愛、混血の家族、滅んだはずの退魔の一族――そして何より、お人好しで飄々とした、その人格。
何だかんだ言いながらも志貴は、シオンと共に戦った。ワラキアとの戦いのときも何も言わず、ただそこに居た。
(私が間違いに気付き、逃げようとしたときも、彼は叱咤してくれた……)
ワラキアはシオンと自分は同類だと言い、志貴は違うと否定した。
その否定が何よりも嬉しかったと、シオンは思う。
(だからこそ私は、弱い自身と決別できたんだ)
そして朱い月の介入と直死の魔眼という在り得る筈の無いイレギュラーもあり、決して消滅させることの出来ないワラキアを、この世から消し去った。
――ズェピア。
シオンは滅びの未来に至って足掻き、狂った一人の錬金術師を思う。
最後の瞬間、ズェピアはシオンに優しく語りかけた。
優れた錬金術師ならば、辿り付けると。世界の全てを知り計算すれば、誰にでもその領域へ辿り付けると。
それは、人類の滅び。
足掻けば足掻くほど拭いきれないその破滅。恐怖。焦燥。狂気。
滅びの結末に至った錬金術師は皆狂ったと、慟哭のようにスェピアは語った。
だからこそ吸血鬼になり、第六法を経て、滅びに挑もうとした。
だが、そこまでしても結局は未来は変わらなかった。
人のためを想い、その果てに狂った錬金術師は、消滅する寸前。
ただ計算しきれぬ未来こそが欲しかった、と泣いた。
(あなたは馬鹿だ、ズェピア)
シオンは志貴との別れの際、一つの契約を行った。初めての友人と初めて交わした約束という契約を。
(予測できない未来など――)
その後の出来事は正に多事多端というべきものだった。
アトラスの学院に戻ったシオンは、教授・重役たちを片っ端から説き伏せていった。もちろん禁を破ったシオンに彼らは首を縦に振らない。それでも友人との約束のために必死になって説得を続けた。
(――何処にでも、転がっているというのに)
そして、結果としてその行動は実を結び、シオンは今ここに居る。
アトラスの人達と協力して、研究を続けている。
いつか、あの約束に報いるために。
(……うん。もっと頑張ろう)
シオンは歩みを速める。
この四年間、ゆっくりだが確実に研究は進んでいた。
吸血鬼化の抑制は、ほぼ成功したと言っていい。
シオンは更なる研究の高みに至ろうと、決意を新たにする。
だがしかし、次の瞬間には、その顔が曇る。
頭に浮かぶのは、その約束をした友人の姿だ。
(志貴。あなたは今、一体何処で何を――)
その時、ちりん、と鈴の音が聞こえた気がした。
(――え)
人ごみの中、視界を横切る黒い『何か』。それはどこか見覚えのあるものだった。
まさか、とシオンは思い、黒い影を追っていく。
ここはエジプトだ。彼女がいるはずが無い、と疑問を抱きながら駆ける。
黒い何かは、シオンが見失ったと思ったら、視界の端に突然現れ、また消えるという動作を繰り返す。
まるでシオンをどこかへ誘っているように。
そのことに不審感を覚えつつも、導かれるように、雑踏から離れていく。
狭い路地を抜け、段々と人気が無くなる。
やがて、完全に人の気配が無くなった袋小路の路地に入ると、そこには。
差し込んだ夕日を背に、白い布で目を覆っている七夜志貴と使い魔の少女の姿があった。
「な……まさか、志貴?」
シオンは驚きに目を開かせる。
二年前、志貴とアルクェイドの結婚式以来、彼とは全く会えていなかった。といより、その行方すら皆目わからなかった。
式の最中、何があったのかはわからない。だが、気がつくとアルクェイドは消え、それを追うようにして志貴も姿を消した。
シオンは元より、妹の秋葉にすら何も言わないで。
埋葬機関の代行者――シエルが言うには、彼女を探しに行った、ということだったが、それ以上は何も言わず、シエルもまた聖堂教会へと戻っていった。
残されたのは、砕けた志貴の眼鏡と、何も知らないシオン達だった。
式へ呼ばれた皆は揃って落胆と衝撃を受けることになった。
特に秋葉が一番ショックが大きかったらしく、しばらく声をかけることすら躊躇われたほどだ。
二年経った今でも、その傷は癒えず、遠野の屋敷で侍女達と共に彼の帰りを待っている。
その彼が。
今、シオンの目の前に居た。
「レン、ご苦労さん。あとでケーキでも食べようか」
志貴は傍らに寄り添うレンの頭を撫でる。嬉しそうに目を細めるレンを満足気に眺めると
「――やぁ、シオン。久しぶりだね」
まるで毎日会っているかのような軽さで、そう言った。
白い布で覆われた、しかし笑いだと分かる表情で。
それは二年前と何ら変わりの無い、
◇
シオンの視界にはムシャムシャと一心不乱にケーキを食べている志貴の使い魔――レンの姿がある。
ここはアパートの一室、シオンの部屋だ。
いつもは研究室で寝泊りしているため、ほとんど使用していない部屋だが。
特に高級アパートというわけではく、五階建ての一般的な
質素だが、小奇麗な部屋の中、シオンと志貴はテーブルを挟んで座っていた。
紅茶を一口啜った後、シオンは口を開く。
放つ言葉は疑問のソレだ。
「……志貴。この二年間、一体何をやっていたんですか? 私達にも、秋葉にも何も連絡を寄越さず……。そして何故突然、よりにもよって秋葉ではなく私のところへやってきたんですか?」
一息に言ったシオンに対し、志貴は困ったように笑う。
「いやいや、シオン。そんなに一杯質問されても……。そうだな、何処から話そうか――」
「最初からです!」
だん、と勢いよくテーブルを叩く。うわ、と思わず引く志貴。黙々とケーキを食らうレン。
「全く確かにアルクェイドさんがいなくなったのはショックだったかもしれませんが、何も言わずに出て行くことはないんじゃないですか? その人の気持ちに気付かない鈍感なところはいつまで経っても――――」
(まずい。シオンが説教モードに入っている……)
「分かった、分かったから。最初から話すから、とりあえず落ち着いてくれ」
シオンは気持ちを抑えるように、ぐいっと残っている紅茶を一気に飲み干した。
一息ついたのか、持ち上げた腰を椅子に戻す。
その姿に志貴は、ほぅと安堵する。
「まぁ、話すことなんて、ほとんど無いんだけどね。アルクェイドを探すため、世界中を駆け回っていたんだ。これが結構忙しくて、連絡する暇もなくて、さ」
悪いとは思っている、と志貴は最後に付け足した。
ふぅ、と志貴の表情に何か思うことがあるのか、一先ずは納得した風にシオンを息をつく。
「それで、失踪した真祖――アルクェイドは見つかったのですか?」
ここにいるということは、全てが片付いたから、とシオンは思ったのだが――
「
――志貴の冷酷な殺気と共に、それは否定された。
突き刺すような鋭利な殺意。白い包帯から漏れ出すソレは、まるで徹底的に磨かれたナイフのようだった。
「――アルクェイドは、さらわれたんだよ」
ギリ、と志貴は奥歯を噛み締める。
一瞬シオンは言葉を奪われる。ナイフで心臓を抉られるイメージがフラッシュバックのように脳裏に焼きつく。
ぴく、とレンの耳が逆立つ。
「……ああ、御免御免。犯人の目星は付いてるんだけどね。なかなか上手くいかないんだ」
次の瞬間には、いつもの表情。
「…………」
一見穏やかな表情だが――シオンには、とてもソレがいつもの彼だとは思えなかった。
何かシコリのような違和感が残る。
その正体。
――彼はこんなにも不安定な人格だっただろうか、という違和感。
志貴は以前も敵対する者には殺気だけで殺しかねないという二面性を確かに持っていた。
だが、今のこれは、あまりにも突然すぎる豹変だ。
スイッチが変わったかのような急激な温度変化。ゼロから最高値への加速。常温から絶対零度までの過程をカットした殺意の温度差。
殺される、と一瞬でシオンに理解させてしまうほどの、それは過剰な変化だった。
(志貴、貴方は――)
「……貴方、その目はどうしたんですか?」
二年前とは違う、目を覆う白い布は彼らしくない、そう――とても不気味な雰囲気を醸し出している。
あれでは何も見えないだろう、とシオンは思うが、ここまでの彼の動作は正しく見えている者のそれだ。とても視界を閉ざしているものだとは思えない。
ふと脳裏に過ぎるのは一年前の光景。粉々に砕かれた魔眼殺しの眼鏡――
「ああ、これかい。どうしてか魔眼の力が上がっていてね。こうやって直接、魔封じの布を巻いているんだ。……それでも時たま
(――こんなにも、変わってしまったのですね)
両極端の用途。完全に別物としての思考回路。――そうでもしなければ存在できない、矛盾。
殺人貴=B
そう呼ばれている正体不明の人物が、一部の界隈では噂になり始めているのを、シオンは聞いていた。
決して自ら殺人を行わないが、敵対する者に対しては容赦なく無慈悲に殺す。
その手際は正に鮮やか。殺していく過程は、彼にとっては解体作業に過ぎない。
殺人を嗜好しながらも、決してそれに飲まれず、逆に何より殺人を貴ぶ者。
故の字――殺人貴=B
アトラスの学院でも噂の端々に上がっているソレは、目の前にいるこの男のことだとシオンは確信した。
「シオン? どうかしたのか?」
「……いえ、何でもありません」
シオンはいつもの冷静さで微動だにしないでそう言った。
志貴は言葉を続ける。
「それで、まぁここに来たのは観光じゃなくて、ちゃんと理由があるんだよ。一つは是非とも調べてみてもらいことがあってね。もう一つは――」
「っ――!」
ゾクン、と漏れた絶対零度の殺意がシオンに突き刺さる。
先ほどの殺意とは比較にならない、まるで形になったかのような殺しの意志。
それは、殺気。
殺意が昇華した、凍えるような熱い意志だった。
その殺気を志貴は全く押さえようとはしなく、むしろ加速していくばかりだ。
空間や時間が凍結していく。
そして志貴は、まるで獲物を前にして舌なめずりするように、ニヤリと口元を歪ませ。
「もう一つは、この地に久遠寺アリスが居るからだ。ああ、それだけでオレが此処にいる理由には――十分、過ぎる」
その事実が愉しくて仕方が無いという風に、言葉を放った。
◇
「先輩、せんぱーーぴゃぐっ!」
障害物も何も無い廊下で、盛大に転ぶ後輩の声に嘆息しながら、シオンは振り返った。
「クリストファー・クリスティ。……ここは世にも名高いアトラスの学院ですよ。もう少し静かに出来ないのですか? あと歩いていても転ぶくらいですから走ったら、どうなるかなんて自明の理でしょう。それでも貴女は錬金術師なのですか?」
「う〜先輩、そこまで言わなくても……。自分でも気にしているんですからー」
「なら、さっさと治すことですね」
う〜と唸るリスのような少女。栗色のショートの髪が揺れている。
その姿を見て、ふぅっと一息。
「それでクリス。私に何か用事があるのではないのですか?」
「あ、そうだった。忘れるところでした」
えへへ、とはにかみながら立ち上がった。
クリップに挟んだ報告書を、丸っこい眼鏡を押さえながら、読み上げる。
「えーと、先日のロンドンの魔術師連続殺人事件は知っていますよね? 一時、
「……何ですって?」
(本当に、依頼が……?)
昨日の夜、志貴に言われた調べて欲しいことがある≠ニ頼まれたのは、この事だ。
志貴に言われたときは、まさかとはシオンは思った。
魔術師が集い研究を重ねる魔術協会。ソレは決して一枚岩ではない。
魔術協会は大きく三大部門に分かれている。
『時計塔』『巨人の穴倉』『彷徨海』。
同じ魔術協会といっても、本部が『時計塔』になってからは交流が廃れる一方だ。
特に『巨人の穴倉』――アトラス院は三大部門といえば聞こえは良いが、実際は独立した頭脳集団。
一方的に嫌われているわけでは無いが、煙たがれるているのは事実。稀に錬金術師を貸し出すこともあるが、そのためには過去アトラス院が発行した契約書≠ェ必要となる。その契約書にしても七枚しか発行されていないのだ。生半可なことではない。
志貴が昨夜言っていたことを思い出す。
ロンドンで起きた事件の犯人の死体が、時計塔からそっちに回される。解析のためにね。頼みっていうのはソレだ。その死体に何の技術が使われているのか調べて欲しい
聞いたときは半信半疑だったが、こうして現実に依頼の報告書が来た。
先日、魔術協会本部『時計塔』のお膝元で起きた連続殺人事件。
それは魔術師のみを標的としたもので、死体は頭部が無いという異常なものだった。
犯人の正体、姿どころか魔術の痕跡すら見当たらないという、『時計塔』の名にあるまじきもの。
だが、その事件は被害者が四人に上ったところで、事件は意外な解決を見せる。
一人の学生魔術師とその従者が犯人を打ち倒したというのだ。
事件はそれで終わったが、結局犯人の正体は公表されなかった。噂によると実は『時計塔』に属する魔術師だったのではないかと、シオンは聞いている。
意外とそれは当たりなのかもしれない、とも思っていた。もし本当に犯人が『時計塔』の魔術師ならば、スキャンダルどころの話ではない。
魔術師の管理は協会の第一目的であり、存在意義といっても過言ではない。だが魔術の痕跡すら発見できず、あまつさえ単なる一介の学生魔術師二人に解決させられたのだから。
結局犯人の正体は判らず終いで、そのまま人々の記憶から薄れていくはずだったのだが。
――世界はそんなに優しくはなかった。
クリスの言葉は続く。
「その、犯人の死体から、ソレを打ち倒すことの出来る武器の開発しろ――とのことです。場合によっては、契約書≠フ履行も厭わない、というのが『時計塔』からの依頼です」
「――な」
更にシオンは目を見開かせる。
その言葉だけ聞くと『時計塔』は正に形振り構わずだ。
こう言われれば、アトラス院としても無視できない。全力を持って依頼を為すだろう。だからこそ、こうしてシオンにも声がかかっている。
(かつての栄華は既に無く、禁を破った、半端な吸血鬼である自分に声がかかるとは……。アトラスは、本気だ)
だが同時に納得もした。
武器の開発=B
ロンドンの事件を始め、似たような事件が各地で起きている。数自体は決して多くないが、先の事件から分かるように解決の難易度が半端ではない。『時計塔』ですら、事件の全貌どころかその端すら分かっているのか怪しいのだ。
これでは魔術協会も何もあったものではない。
だから、こうして形振り構わずにアトラスに依頼が来ているということだ。もしかしたら、聖堂教会のほうにも話が行っているのかも知れない。
「これが今現在判っている、その死体のデータです。どうぞ。……まぁ、破損状態が酷く、まともな解析すら出来ていないんですよ。これで武器を作れっていうくらいですから、相変わらず無茶を言ってきますよね」
苦笑を浮かべるクリスから何枚かの報告書をシオンは受け取る。
ざっとシオンはその場で流し読みする。このようなデータの読み解きは錬金術師の初歩中の初歩。いつものようにシオンはデータを読み込んでいき――そうして導かれた事実がシオンの頭の中に浮かび上がった。
「これは……!」
その事実は。
シオンにとって。
「クリス! 今すぐその死体の前へ案内しなさいっ!」
「ふぇっ!」
――決して許されざるものだった。
クリスの手を引いて強引に歩き出すシオン。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。先輩、どうしたんですか!?」
(こんなことはあってはいけない……こんな、ことが)
逸る動悸と不安を抑えながら、シオンは奥歯を噛み締めた。
道行く人すら、視界に入っていないのか人を押しぬけて、院の奥へと歩みを進めていく。困惑し続けるクリスに強引に案内をさせながら。
ばん、と派手に扉を開ける。
白衣を着たそれなりの地位を持っている錬金術師が驚きに目を見開く。
シオンは上がった息を整えることすら惜しいのか、視線は忙しなく目的のものを探していた。
――そして死体を目の当たりにしたとき、不安は確信に昇華した。
だん、とシオンは拳を壁に撃ちつける。まるで思いを吐き出すように。在り得ない、と。否、在ってはならないとシオンは毒づく。
クリスは普段目にしない先輩であるシオンの様相に驚き、問いを口から放つ。
「先輩、落ち着いてください! 先輩らしくないですよ!」
「これが落ち着いていられますか!」
ギ、と後輩を睨みつけるシオン。
言葉が、練り上げられた呪詛のように放たれる。
「この死体の身体に使われている技術は――
――
それは吸血鬼化の治療というシオン生涯の研究と、真っ向から対立するものだった。
(久遠寺、アリス……!)
ギリ、とシオンは奥歯をかみ鳴らした。
撃ちつけた拳の痛みすら、気にしないで。
* * *
爛々に輝く月が目立つエジプトの夜。街は眠りにつき、静寂が辺りを満たす。
だが、その静寂を破るように駆ける足音と息を吐く音が響いた。
(私は一体――
走る人影は男性の形をしていた。その顔には困惑とも恐怖ともつかない表情が張り付いている。
何かに追われているのか、時折振り返りながら、息を上げながら走っていく。
男はアトラスに属する錬金術師だった。普通アトラスの錬金術師にとって、こんなにも動揺することなどは決して無い。
だが、今の男は、とてもじゃないが落ち着いてるようには見えない。汗だくになりながらも、ひたすら走り続ける。
駆ける音は、一人分しか男の耳には聞こえていない。
(本当に、私は追われているのか……?)
確かに先ほどは自分を追う気配があったはずだ、と男は思う。
(――確かめてみるか)
その足を止めてみる。
ざざ、と木々が揺れる風の音が聞こえるだけ――ではなかった。
錬金術師特有の高速思考で、風を読み、音を聞く。その結果は何者かが自分を追っている、という事実を指し示していた。
それは最早、確信だ。
闇の中、何かが蠢く。
「っ――――!」
堪らず男は駆け出す。
(何故私は、こんなにも恐怖しているんだ……!)
錬金術師は思う。自分は何を怖がっているのか、と。
死は恐ろしくはない。錬金術師とは魔術師に区分されるもの。魔術師にとって、死の恐怖を克服することは最低条件の一つ。
だが男の胸底には、確かに得体の知れない恐怖が渦巻いていた。
錬金術師は気付かない。
その恐怖の正体。
何が追っているか
だけども、現状恐怖≠ェ迫っていることは確実で――
判らないものが、自分に迫っている。
そう、全てを計算し尽す錬金術師にとって一番の恐怖は判らないこと≠ニいう不安なのだから――――
刹那。ゆらり、と殺意が揺れる。
一瞬だったが確かに殺意が男の胸に突き刺さった。
それは男に殺される≠ニ確信させるには十分で――
「ひっひぃいいいいいいいいい!!」
恐怖に耐え切れず、男は我武者羅に走り続けた。
街灯が点いている大通りを抜け、道路を駆け抜け、薄暗い路地の方へと走っていく。
(――待て)
錬金術師特有の冷静さが思考に語りかける。
(――どうして、私は)
狭い路地を走り抜けると、そこには。
(わざわざ、人気の居ない方向へ走っているのだ――!)
視界が壁に覆われた、袋小路の路地裏だった。
月光が舞台を照らす。まるでこれから演劇が始まるように。
「これは……」
――逃げれない、と男が気付くのと。
じゃり。
「…………!!!!」
――得体の知れない何かが、ぬるりと闇の中から躍り出てくるのは同時だった。
男には、『ソレ』は黒い影にしか見えなかった。
唯一、月光を反射する白のみが――
「ああああぁあぁぁあああああ!!」
絶叫が辺りに響く。
ごとん、と男の腕が路地裏に転がった。
人だった頃の形は既に無い。
四肢は切断され、辛うじて皮一枚で繋がっている首と胴体が達磨のように地面に投げ出されている。
右腕、左腕、右足、左足。
その全てに何かで穿ったような穴が開けられ、ピンク色の中身を外気に晒されている。
胴体にも無数の穴が穿たれており、まるで無邪気な子供がナイフでぬいぐるみを刺したよう。
それらは全て、コンクリートの地面に無造作に転がっていた。
月光に照らされている惨劇の場は、スプリンクラーで血をぶちまけた様な真っ赤に染まり、血の水面に月を映すのみだった。
――そこに、一つの影が立っていた。
ギラリ、と爛々に輝く眼は――濃い、蒼い光を湛えていた。
手にしているのは白い刃。月光を反射して、血の海を照らす。
柄には二つの文字が刻まれていた。七夜=Aという文字が。
視界に広がる、一面の朱。
口元に焼きつくような法悦の笑みが浮かび上がる。
「――は」
それらを照らす、蒼い月光。
辺りを充満する、血の匂い。腐った果実のような匂い。流れ出る赤黒い血液。
ああ、此処には、死のみが満ちている――――
「は、ははははははははははははははははっ!!!!」
黒い影は何をするでもなく哂った。ただ可笑しくて堪らないという風に。
狂ったような哂い声が、夜に響く。
月光に照らされた処刑場で、黒い影はひたすら哂い続けた。
.......to be continued
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