......Prelude of Pandra's song
Episode.1<Side:Fate>
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それは天使のような笑みだった。
私は『辿り着けない』と理解したのはいつだったか。
確かに才能はあったと思うし誰にも負けないほど努力をしたという自負はある。だから出来ないことなど理解できないことなどは何も無かったと本気でそう思っていた。
だがある時唐突に理解してしまった。その
何でも出来るが故に、何も出来ない。
『根源』。全ての情報を得る事ができ、物事の始まりと終わりを知る事ができるという大元の一。
ソレはそういう場所なのだ。最初から
所謂天才と呼ばれる類の人間だ。――否、そんな単純な言葉で置き換えられる者ではないだろう。かく言う私も天才、神童ともかつて呼ばれた――呼ばれている人間だ。
言うなれば『窮めし者』。
多くの道を往くのではなく、ただ一つの道をがむしゃらに追うことの出来る人間が根源に辿り着けるのだ。
だから辿り着くのが目的の
魔術が唯一叶う術だと信じながら、ただがむしゃらに学んでいた今までの私の姿が酷く滑稽に見えた。
そも、"魔術師≠ニいう存在そのものが矛盾しているのだ。学べば学ぶほど遠ざかっていく真理を追い求める道化。逆説の上に逆説を重ねていく行為。自己を透明にし、自我を保つ者達―――永遠に報われない群体。
―――形を持たない、夢幻を求める愚かなイキモノ。それが魔術師だ。
しかし私の目的は違った。願いを叶えるために必要だっただけ。根源に辿り着くことそのものはさして重要ではない。あくまで過程なのだ。
だからこそ。十の魔術を一つの結晶にして遺していき血筋をより濃くしていくなど、他の魔術師みたいに"いつか≠ネどと悠長なことは言ってられない。今の私が叶えなければ意味が無い。辿り着けなければ意味が無い。所詮後継者なんて言っても
私が求めるのは魔術師ではなかった。だとしたら私は何を求めているのだろう?
『――力が、欲しいのでしょう?』
そう彼女は問うた。彼女が何者かどうかなど、どうでもよかった。力を与えてくれるという彼女の言葉は絶望に満ちた私にとって何より魅惑的な誘いだったのだ。
―――例えその誘惑が私を崩壊させてしまう悪魔の囁きだとしても。
何より重要なのは彼女の紡ぎだす、その言葉。
『そのままじゃ一生あなたの望みは叶わない。
ソレは世界の常識。何よりも当たり前な真実。
血のようにアカいルージュが映える唇を歪めながら音を紡ぐ。
――それは天使のような笑みだった。
浮かべるは無垢で無邪気な天使の笑み、問うは外道の業を背負わせる悪魔の囁き。
彼女は、私に、手を差し伸べた。
『さぁ、あなたは、どうしたい?』
私は、その手を―――
パンドラの唄〜前奏曲 第1話
『夢幻錯綜』
1/smile like an angel
俺はいつものように眼を閉じ、聞きなれた呪文を唱える。
「
イメージは撃鉄。激しく打ち下ろされる鉄の衝撃に火花が散った。生成された魔力が、二十七の回路を通って全身の隅々にまで行き渡るのを感じた。
読み込みを開始―――瞬時にそれは完了。何故ならば、その概念、創作者の思想思惑道徳信仰は変更も歪みも全て胸に固く刻まれている。当たり前だ。今、
「ぐっ―――」
ぎしりと音がした。分不相応な魔術のせいだろう。体のそこらかしらがぎしぎしと悲鳴を上げている。
これは警告だ。これ以上進めばお前は死ぬという、無意識下の警告。
俺はそれらを全て無視し、創造理念基本骨子構成材質製作技術憑依経験蓄積年月それら全てを身の内に用意し―――現界させた。
「
そして、この手には有り得ざる一振りの剣が握られていた。何の装飾も無い無骨な両刃の剣。それは俺の理想そのもの、
「なぁに?またダメだったの?」
「へ?」
何の前触れも無しにドアを開けて遠坂凛が部屋に侵入してきた。俺は吃驚して思わず持っていた剣を落としそうになる。
「頼むから鍛錬中くらい部屋に入る時はノックぐらいしてくれ……」
「何を言ってるのよ。今のあんたが投影に失敗したくらいで死ぬわけ無いじゃない。
……どうやら彼女の中ではマナー問題は死活問題に直結しているようだ。死ななければ何をやってもいいというその概念は何とかならないのだろうか。おまけに治すつもりは微塵も感じられない。
「それで成果は―――って聞くまでも無いか」
彼女は投影したての剣を見て率直な感想を述べた。
「ああ、見てのとおりだよ。これじゃ使い物にならない。外見だけだ。中身に何も詰まっちゃいない」
そう。とりあえず投影して形になったのはいいが肝心の中身ががらんどうなのだ。カタチだけでは意味が無い。これならそこらにある鉄パイプでも『強化』したほうが余程マシだ。
失敗作を砕く。カタチだけの剣は跡形も無くこの世から消え去った。俺は幾度と無く訪れた結果に対して同じ回数目の溜息をつく。
「はぁ、やっぱり生半可にはいかないな。本人の
投影とはつまるとこ術者のイメージを現界させる魔術である。ならば、他人の創造理念だけじゃなく術者本人の創造理念そのものを現界することも可能ではないだろうか。
つまりは他人の
だが、あくまで理論上できるのではないだろうかといった程度のもので、実際その工程は今までの投影とは全く異なる。
そもそも俺の
―――だからこそ、俺はやり遂げなければならなかった。
「そうそう簡単にいかないわよ。自分自身を顕現させる『投影』≠セなんて、そんなのは投影の先の、更に先の魔術よ。元々あなたの投影は通常のソレとはかけ離れているんだから」
そんな様子に呆れたのか、凛が見かねたように言った。
むぅっと唸る。確かに俺がやろうとしていることは投影の遥か高みにある魔術だ。
分不相応な魔術は自らを滅ぼす。そんなことは既に身に染みている。元々投影の魔術もこの身には過ぎた力だ。以前は一回使うだけで魔術回路が焼き切れるかと思ったほどだ。
……だからといってやめるわけにはいかなかった。
贋作の山の中から唯一つの真作を選び取る。―――それは『アイツ』でも出来なかったことだ。
―――決して、間違いなんかじゃないんだから……!
あの闘いで得た答え。否、答えは初めから持っていた。ただ確認しただけだ。
だから闘った。未来の自分を否定し、否定し、否定し、その心の限り剣を振るった。
この生き方は変えられない。この理想は捨てられない。けれど、それでも進んでいけると。そう教えてくれたあの闘い。
そのためにアイツに追いつく―――否、
「っ――――!」
そこで自分の心がざわついていることに始めて気がついた。俺は眼を閉じ、自己精神制御を開始する。魔術師にとって自己の制御は基本中の基本である。そも、魔術とは世界の真理を解き明かす学問だ。自らのこともわからないで魔術なんてものを習得できるはずが無い。
『明鏡を経て止水へ至る』
それが魔術の基本であり奥義でもある。魔術師ではない魔術使いであるこの身であっても、いやだからこそ、俺は4年間に渡ってその技術を研鑽してきたのだ。こと自分にだけは負けるハズが無い。
脳の分泌物を抑えろ。冷静になれ。頭を冷やして
ばがんっ!
……突如、割と無視できない音が後頭部から――激痛と共に――聞こえた。
「痛っ!って考えている最中に、こんな分厚い魔術書で頭を殴るなっ!殺す気かっ!?」
たった今出来た大きなたんこぶを擦りながら、それを為した元凶に抗議する。しかし、凶器を持った彼女は平然とした顔で何でもなかったように話す。
「ふん、いつまでも怖い顔してるからよ。大体、真昼間からこんな狭い部屋で引きこもってるから……そうだわ」
そしてにやり、と満面の笑顔を浮かべた。その笑顔が子供が悪戯を思いついたときの顔に似ている。
「……何だ、一体」
―――この顔はヤバい。長年の経験からそれを知っていた。百匹の黒猫の行進もびっくりの不吉っぷりがびんびんに感じ取れたりする。こんなときは、まず碌な事が起きない。
「デート、しましょうか」
不吉はどうやらこれから始まるようだ。
◇
住み着いた当時は不慣れだったロンドンも、最近では目を瞑っても歩けるようになっていた。住めば都というわけではないが、最初は抵抗もあった外国語も、迷路のような道も実際暮らしてみると何とかなるものだ。
むしろ、この古きを残す優雅な町並みや街そのものの雰囲気は、私こと遠坂凛にとって心地よいものになっていた。
「うーんっと。いい天気だわ、デートにはもってこいね」
腕を上げて思いっきり伸びをする。空に広がるのは、まさに快晴に相応しい気持ちの良い青。まぁデートといっても近くのスーパーに買出しだけど。
ふと横を見てみる。するとそこに買い物袋を大量に持った士郎がいた。
「凛……こんなにいっぺんに買う必要あったのか?」
と思った途端、開口一番不満を漏らす。
凛、という私の名前を呼ぶ彼の姿は、ある一人の弓兵を思い出させる。
彼が私のことを名前で呼び始めたのは日本からここロンドンに留学に来てからだ。なんでも『凛だけが名前で呼ぶのは不公平だ』とかなんとか。
お人好しの性格とは裏腹に、意外と彼は負けず嫌いなところがある。
「ぐだぐだ文句言わない。日本の食品関係を売っているところってここぐらいしかないんだから、買えるときに買っておくほうが効率が良いでしょ?」
むぅと彼は眉をひそめる。それでも納得できないようで、少し持ってくれてもいいんじゃないかとか何とかぶつぶつ言ってるが、私はそれを無視する。
まぁ、少しは大変そうだなーとか思ったりしないわけでもない。が、何より味噌やら醤油やら米袋を持った彼の姿が、なかなか堂に入っていて、思わず吹き出してしまうのだ。
彼ほど主夫という言葉が似合う男性は、そうそういないだろう。
そんな姿は3年前の、ロンドンに来る前から変わっていなかった。
第5回聖杯戦争を生き残った私は素質ありと判断され、士郎と共にこの霧の街、
聖杯戦争……それは全ての願いが叶うという『聖杯』を巡る、7人の
その戦いに私は自らの意思で、士郎は偶然巻き込まれるという形で参戦した。
私達は同盟という形で共闘し、死線を越えた戦いの果てに―――私達は『聖杯』の破壊という選択肢を選んだ。
失ったのは互いの相棒、代わりに手に入れたのは大切な人。
これで良かったのか、と今でもたまに思うことがある。しかし過去は変えられないし失ったモノが帰ってくるわけでもない。だから、そんな行為は只の心の贅肉にしか過ぎないことは十分わかっているつもりだ。
……それでも後ろ髪引かれてしまうのは、私の心の
問題は士郎である。
私のサーヴァントであったアーチャーの真名は英霊『エミヤ』―――英霊となった衛宮士郎その人である。叶わないと知りつつも、その理想を追い求めた結果《すがた》だった。
それを見ているのは、正直堪える。
彼に対して私は何も出来ないという事実をまざまざと突きつけられている気がしてならないのだ。なまじ恋人という誰よりも近い場所にいるだけ、余計に辛い。
何より
答えは得た。大丈夫だよ遠坂。オレも、これから頑張っていくから
けど私はやり遂げなければならない。彼の、安らかな笑顔に応えるためにも―――
「あら、遠坂のお嬢ちゃんと士郎君じゃない。こんにちは、二人で仲良くお買い物?」
その声で考え事に耽っていた私は我に返った。えっと誰だっけ、このやけに気さくそうな女は……?
「あ、
士郎が苦笑しながら、答えた。
ああ、そうだった。彼女の名前は
天が二物も三物も与えた典型のような人で、美人で性格も明るい人気者。おまけに魔術に関しても、学院入学当初から天才と評され、ルーンから風水術まで彼女に理解できない魔術理論は無いと噂されるほどである。
そんな彼女が何故私たちと知り合いかというと、いわゆる、お隣さんというやつで、互いに日本人ということもあり、留学当初から色々お世話になっていたのである。そんなわけで、付き合いはそれなりに長い。
「確かにすごい荷物ね……。士郎君、重くないの?凛ちゃんも少しくらい持ってあげればいいじゃない」
私はその問いかけに近い非難を受ける。……その非難そのものはともかく、ある部分だけが非常に私をむっとさせた。
「だから霧生さん、『ちゃん』付けはやめて下さいっていってるじゃないですか。来た当時はともかくもう私は1人前です。そろそろ自分の工房を持つことが出来るようになりますし、子ども扱いされる年齢でもありません」
彼女はどうにも、私たち二人のことを弟か妹みたいに見ているようで、事あるごとに子ども扱いする。……まぁ私もそんな彼女のことは嫌いじゃない。というかむしろ好きな部類の人間だ。
ただ、妙にこそばゆい。士郎と出会う前の私は、あまり人と関わらないように生きてきた。友人とも一歩線を引いた付き合いだったし、学校でも近所付き合いでも波風立てないように優等生を演じてきた。
『魔術師よ、孤高たれ』
そんな大層なことを掲げるわけでも無いけど、遠坂凛は長きに渡って魔術師は他人と交わらないもの≠ニ認識してきた(なまじ間違ってはいないのだが)。
そんなわけで以前の私という存在はいまいち他人の親切というのがわからなかったのである。
それが聖杯戦争の開戦前で、戦いが始まると、そんなことは気にする暇も無かった。
自分のサーヴァントと魔力を通い合わせ、魔術師ですらない只の魔術使いという偏屈者と同盟を組んだり……
要するに突然周りに今までいなかった
私と同じ同業者な故に、交流は否応なしに増えていった。で、朱に交われば紅くなるというわけでもないが、気づけば他人と交わらないどころか、他人に染まってしまった自分がいたわけである。
……その張本人が、今隣にいるこの朴念仁だったりするのだが、まぁそれは置いておく。
そんなわけで、私はどうも『姉』というものがよくわからない。いや血のつながった妹というのは実際にいるのだが、魔術師の家系ということもあり、普通の姉妹とはおよそかけ離れた関係であった。戦いが終わってからの一騒動があって、漸く『妹』だと認識したくらいだ。
つまり幼い頃に父を亡くし、十何年間家族がいなかった私を、子ども扱いする人間なんていなかったわけである(私が子ども扱いすることはともかく)。
しかし目の前の彼女は違った。
にこっと見る者を安心させる笑みを浮かべて、楽しそうに話す。
「あははっ、そんなことを言ってる内はまだまだ子供よ。それにね、私にとって凛ちゃんはいつまでも凛ちゃんなんだから。私から見れば、士郎君の方が大人に見えるわよ?」
ぴくっとこめかみが引き攣る音が聞こえた。
「聞き捨てなりませんね。誰が誰より大人に見えるんですって?」
「そういうところが子供ってことよ。それに士郎君、年のわりに悟ったような、そう、年寄りめいたところあるし。たまに私より年上に見えることもあるのよー」
む、と隣にいる士郎が唸った。子供っぽいって言われるのもアレだが、年寄りって呼ばれるのもどうかと思う。まぁ、この人から見れば、どちらも同じようなものなのだろう。……言われた私たちは納得がいかないが。
「用はそれだけですか?用が無いならもう行きます。早く冷蔵庫に入れないといけない食材もあるので」
幾分むすっとした声で彼女に告げた。そんな私の声に彼女は、
「ごめんごめん、ちょっとからかいすぎたわ。心配しないでもあなたはもう一人前の
などと言って私の頭を撫で始める。
ぼっと一気に顔が赤くなるのを感じた。これには毎度毎度参る。何せ頭を撫でられる、なんて行為は子供の頃、父親にされた以来だ。しかも男の人のごつごつした手でなく、女の人の白くてすべすべした手で、赤子をあやすように撫でるので、撫でられる側としてはたまったものではない。
彼女は私たちを一頻りからかった後、必ずこうやって頭を撫でてくる。……それが私たちを子ども扱いしている何よりの証拠だっていうのに気づいているのだろうか、彼女は。
そんなわけで彼女のこの行為にたいして反抗してやりたいのはやまやまなのだが―――私は顔を真っ赤にしたまま動けないでいた。
私より名実共に年上な彼女は、私がどんなに反論しても、まるで流水の如く受け流される。
人生経験の差なのか何なのか、人一倍人を言い負かすのが得意な私ではあるが、――慣れてないせいもあるのか――彼女の前では子供同然の扱いになってしまう。
ていうか、それがなかなかに心地よいと思ってしまうのは問題ではないだろうか。
どうにかしたいと思う反面、このままでいいのかもしれないと思ってしまう自分がいるのも事実。
彼女はある意味で私の理想だ。聡明で、明朗で、才能があり、人をこんな気持ちにさせてくれる。彼女のように、人をこれだけ心地よくすることが出来るのならば。
それは、どんなに素晴らしいことだろうか―――
「あっと、私、友達と約束してたんだっけ。まっずいなぁ、このままじゃ遅刻しちゃうわ。急がないと、またあの皮肉を聞かされる羽目になる。それじゃね、お二人とも気をつけて帰るのよ―――!」
突然、時計を見ると弾けるように駆けていった。その様は本当に無邪気な子供のよう。
「全くどっちが子供なんだか。そのくせ気をつけて帰れですって?大人なのか子供っぽいのか―――」
何だかんだ言っておきながら、彼女にとって私たちはまだまだ子供なのだ。
「まぁまぁ、これがあの人なりの心配なんだよ。しつこく言うのは藤ねえもだったし。……確かにここのところ少し物騒だしな」
と彼女を見送った目をそのままに士郎は言った。
「藤村先生と、一緒ねぇ……。まぁ姉代わりという点では違いは無いけど。……ん?物騒って何かあったっけ?」
これでも一応毎日新聞は欠かさず読んでる。とりあえず目立った事件は無いはずだが。
「凛が知らないのも無理ないさ。俺もルヴィアに忠告されなければ知らなかったし……」
そう言うと、思い出して暗い気分にでもなったのか、彼は俯いた。
―――否。人が暗い気分になった時には。彼のように爪が食い込むほど拳を握るということはしない。
彼は傍目から分かるほどに憤っている。
どうやら思ったより只ならない事が起きているようだ。
「……何があったの?」
2回目の問い。だがそれ一度目とは違い、鉛のように重い問いかけだった
俯いていた顔を上げる。その目に宿るのは、悲しみでもなく怒りでもなく―――決意という
「所詮、噂話に過ぎないから、凛に話すかどうか悩んでいたんだが―――
……今月に入って、わかっているだけで三人殺されているそうだ。だがその事実は協会によって隠蔽されている。噂話に過ぎないというのは、そういうことだ。
何故なら、―――
『魔術師連続殺人事件』。
彼が口にしたその言葉に、私は戦慄にも似た震えを感じざるをえなかった。
◇
純黒の空に、蒼白い大きな球体が浮かんでいる。
この霧の街ロンドンにも例外なく夜が訪れる。ただ他の街と違う場所があるとするのなら、この街は夜こそが本当の姿なのだ。陽の光に満ちている昼など、ここでは
―――ここは霧の街ロンドン。
「
静謐なる夜のしじまを破るように、風の如く駆ける人影があった。
その叫び声は助けを請う神への祈りではなく、神秘を為すための呪文。つまり人影は只の人ではなく、―――ソレは魔術師であった。
詠唱によって発動した魔術を纏った幾十の鍼≠ェ、目標に向かって飛散していく。その目標、自らを喰らおうとする人の姿をした化け物に。
呪文を紡ぎながら彼女は心中で毒づいていた。
(何だって協会の総本山で、こんなに
そう、この地に根付くは、外敵に対抗する為の武力を持ち、魔術の研究機関を抱える、そして魔術の犯罪を抑止する法律を敷く裏の世界の絶対支配者、その胴元だ。幾ら協会と仲が悪いとはいえ、聖堂教会の異端狩りも出動するだろう。
そんなわけで、どんな怪物であろうが堂々とこんなことをしていたら、すぐに捕捉され慈悲も無く殺される。例え、それが吸血鬼という人を遥かに越えた超越種だとしても。
だが実際に自分は今、その
確かに今日もいつも通りの日だったはずだ。いつもの様に
……確かに噂は耳にしていた。今月に入って既に三人の魔術師が殺されているという噂を。
だが正直、与太話だと思って信じていなかったのは事実だ。魔術師を狙うなど、そんなことをすれば犯人は殺す前に殺される。なのに既に三回も犯行に及び、死体が出ている。だからそれは、一般人が流す只の吹聴、一種の怪談話だと思って警戒しなかった。
否、例え銃を持った殺人犯が外をうろついていても、何時も通りに学院に通い続けただろう。何か矛盾した物言いだが、それは紛れも無い真実だと確信がある。
この身は既に魔術師。死は、常に隣に存在している。
だから実際に殺人犯が居て、それに自らが遭遇したところでどうとしたことは無い。
この身を打ち滅ぼそうとするなら、逆に打ち滅ぼしてやるだけだ。相手が誰であろうと関係無い。
―――そう思った矢先のことだった。
魔術による強化が行われた鍼は、その全てが正確無比に急所に向かって飛んでいく。その鍼一本一本に、喰らえば蜂の巣どころの騒ぎではない威力が込められている。例え避けられたとしても付加された魔術効果により、標的を追っていく不可避の針山。
必中にして必殺。彼女が『鍼使い』と異名を持つ所以である。目の前のこのヒトガタの化け物は、それで息絶える―――はずだった。
化け物は自らに死を齎すはずの細い凶器を一瞥しただけで、決して防ごうとはしなかった。
ならば死は必然、数秒後には見るも無惨な屍が転がっているはずだ。―――が、そのときは永遠に訪れなかった。
最初は当たっていないのだと思った。だがしかし
(―――!?)
魔術師は困惑した。何せ鍼は『当たっている』のだ。不可避の鍼を何らかの方法―――瞬間移動などで回避したのならまだわかる。弾かれたのならまだ納得できる。だが今回はそういう訳ではない。しっかりと急所に刺さって血が滲んでいる。が、所詮その程度に過ぎないのだ。必殺と呼ぶには程遠い。
つまりこれが意味する事は―――
「やっぱり……
魔術師はチッと舌打をする。
そう、これが三人もの魔術師を殺した要因である。
理論としては確かに存在するが、習得できる者は存在しなかった。否、習得しようとする者がそもそも居なかった。何故ならば、習得したところで意味が無く、そもそも魔術としての在り方として
ともあれ、理由はわからないが目の前に居る殺人鬼は
鍼使いの魔術師は観念したのか、駆けていた足を止めた。
「あなた魔術師くずれ?―――吸血鬼さん」
吸血鬼―――人間の血を吸い、人間を超えた存在。オカルトの一種にすぎない存在とされるが、それは魔術師と同じように、社会の裏で確実に息を潜めている。
目の前の化け物がそうだとするなら、この身体能力そして魔術殺しという異能も納得できる。
だが
彼女は観念したわけではない。走っても助けを求めても、無意味だと理解したからである。
(ここら一帯『括られて』いる。それも並大抵の結界じゃない。霧や暗闇を上手く利用しているとはいえ、異層による
なるほど、これほどの結界ならば外界に何も影響を与えず事を遂行できるだろう。協会の本拠地とはいえ、これを看破するのは難しい。否、計測することすら叶わないだろう。―――異常を決して外界に洩らさない完璧な密室。
「ふん、ここまでやるとはね。そんなに
そう、例えこれが完璧な結界だとしても『この世界』に存在する以上綻びは必ずある。いずれ看破する者は必ず出現するだろう。
この世界はそういう場所なのだ。
目の前の化け物はクッと声を上げた。
初めて見せたその感情は、子供のような無垢な喜び。
「魔術協会だろうが聖堂教会だろうが関係ない。見つかる前に『辿り着ける』から。それにアナタは勘違いしている。
……私はね、血なんて興味は無い。
吸血鬼?一緒にしないで欲しい、私はあんな不完全な生物ではない」
(……コイツは一体、何を言ってるんだ?)
その言動は魔術師の理解を遥かに超えていた。
だがそれは当たり前だった。彼女が対峙しているのは常識から逸脱した存在。人の世に在ってはならない異端。
ただ、ここにあるのは目的を果たすだけの狂気そのもの―――!
(辿り着く?血に興味は無い?コイツが何を言ってるのか理解できない……!)
そこで初めて魔術師は、
『ああ、ここで死ぬのか』
と漠然と死を覚悟した。
「私の目的は唯一つ
―――ワタシは、オマエの
そういって―――目の前のヒトガタをした何か≠ヘ極めて歪な笑顔を浮かべた。
「な―――」
ゾクリと、鍼使いの異名を持つ魔術師は、気が遠くなるような怖気を感じ思った。
狂気を纏った声。その行動原理。今までの凶行。そして何よりも恐ろしいのは、無邪気で無垢な、
―――それは天使のような笑みだった。
「オマエは、何者だ」
極限の恐怖を感じながら、しかして自身は魔術師然として問うた。
そう、彼女は死の目前まで立派な『魔術師』だったのだ。
そんな彼女に敬意を表すように鍼使い生涯最後の問いに答えた。
「―――
学院屈指の鍼使いは、為す術も無く文字通り『食べられ』た。
* * *
やがて音も立てずに結界は消え去った。
協会すら欺くソレは、やはり散るときも完璧だった。
今夜の凶行の痕跡は跡形も無く、残るのは―――脳を喪い、人としてのカタチを失った無残な死体のみ。
その屍を、遠くから見つめる視線が在った。
青白い月を背に、廃ビルの屋上に佇む影。しかしそれには、あるはずの右腕が無く、―――つまり隻腕だった。
「まさか、あれほどまでに成長するとはね……。後、三人も取り込めばもしかすると―――」
にやり、と笑う。それはまるで思いがけないものに出会ったかのような微笑みだった。
「『実験』は順調。7体目にして完成することができたか」
闇に溶けるかのような姿は、しかして
頭上の月を睨み付ける。その目に宿るのは唯一つの感情。
それは、迸るほどに渦巻いた凄惨なる―――『憎悪』
「いずれアナタ方に辿り着く―――見てなさい、この腕の借りは必ず返す」
廃ビルの屋上には既に誰の姿も無かった。
―――残るは憎悪に満ちた怨嗟の声。しかし最早それすら聞こえなく、あるのは夜の静謐のみ。
頭上の月だけが、全ての傍観者だった。
.......to be continued
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