* * *
Dreams(3)

 ――かつて、夢があった。

 それは何時の頃だったか。磨耗した自分には、最早見当が付かない。
 だが、確かに覚えている。
 誓った。
 憧れた、その人がなれなかったという正義の味方に、自分がなってみせると。
 皆が笑っていられる世界を、この手で作ってみせると。ただそれだけが望みであり、夢だった。
 だけど現実は厳しくて。
 世界は冷酷だった。
 目の前で死んでいく母親。
 縋り泣く子供。
 其れを見ているだけの自分。
 味方だと思っていた女性に後ろから切りつけられる自分。
 助けた相手に刺される自分。
 目指せば目指すほど乖離していく理想。
 それでも、いつか必ず届くと信じて。
 ――世界と、契約した。
 待っていたのは煉獄だった。
 抑止力である自分が呼ばれるのは、いつも人が作る地獄だ。
 人を守る抑止力は。
 いつだって人を殺すために振るわれる。
 解決するには、それを殺すしかなくて。
 殺して。殺して。無限に人を殺し続けて。
 そうして、気付いた。
 ――自分は、間違っていたと。
 自分が目指していたモノは、欺瞞でエゴに塗れている。
 皆が笑っていられる世界など無い。
 世界は残酷で厳しい。だから、そんな世界など偽善者の語る、存在しない戯言だ。
 そもそも、これは己が持ちえたものではない。
 謳った夢は借り物の幻想。偽物だ。
 それが、夢を追った旅路の終。正義の味方などを目指した愚か者の結末。
 ……俺は、一体何だったんだ。俺の生きていた意味とは――何も無かったということなのか。
 時間は不可逆。
 引き返せる時間など、とうに過ぎている。
 後は、ただ世界に言い様に使われるだけ。
 人を殺し続けるだけの、抑止力という名の掃除屋。
 そのことに、ようやく思い知った自分に、怒りが込み上げてきた。
 身を裂くほどの憤怒。
 それを為した原因は、紛れも無い自分なのだ。
 何故。
 何故あの時、選択したのだ。
 下らない、欺瞞とエゴに塗れた正義の味方になってみせるなどと。
 憎い。
 どうして気付かなかった。
 どうして憧れた。
 どうして引き返さなかった。
 幾つもの下らない疑問が己を穿つ。
 憎い。自分が、憎い。
 愚かにも正義の味方など間違った思想を追い続けた自分が憎い。

 ――そんなに憎いのならば、いっそ殺してしまえ。

 そうだ。――憎いのなら殺せばいい。
 この身は英霊、抑止力の一員。いつか、自分が愚かな夢想を持っていた世界に召還される事も、在り得ない話ではない。もしかしたら自殺することすら許されない、この身の消滅すらも叶うかもしれない。ならば、それだけを存在の糧としても何の咎があろうというのか。
 自分殺しだけを望み、希望として。
 俺は剣を振るい続けていた。

 そうして、ついに到った。聖杯戦争と呼ばれる魔術師同士が殺しあうという馬鹿らしい祭りに、自分が参加していた時代に。

 内心、狂喜した。
 漸く、漸く自分の望みを果たせると。
 だが、望んでいたはずの気持ちが、何故か再び怒りに染められていることに気がついた。
 ソイツは自分がかつてそうであったように、正義の味方を愚直にも目指していた。
 殺したくない。殺させたくない。
 腹が立つ。よくも目の前の人を全て救いたいなどという戯言を、臆面も無く吐けるものだ。

 それは、いつかの記憶の再生で。
 それは、紛れも無くかつての自分そのままだった。

 やめろ。
 そんなものを見せるな。
 ――姉と呼んだ女性。
 ――いつも朗らかな笑みを見せてくれた後輩。
 ――背中を預けて共に戦った金髪の騎士王。
 ――憧れだった同級生の魔術師。
 そして、彼女らに囲まれて笑っているかつての自分――
 いつか考えて、蓋をして仕舞った筈の、とある疑問が鎌を擡げてくる。
 思い出してはならないはずの、その疑問。
 『夢を目指していたことに罪は無く。
 間違っていたのは何も省みなかった自分であったのではないか』
 否。
 そんなはずは無い。
 間違っていたのは『正義の味方』などという下らない理想を持つことで。
 道の過程など関係は無い。
 原点が間違っているのだ。それに連なっている道全てが間違っているのも道理だろう。
 もし。
 正義の味方を目指したうえで、歪まない、間違えない道が存在するならば。
 どこかで、この理想を持ちえたまま、間違えなかった衛宮士郎が存在するのならば。
 俺は

 それは考えてはいけない仮定だ。

 在り得ない。『正義の味方』なんていう理想そのものが歪で間違っているのだ。目指した時点で自らが崩壊するしかない一種の呪い、呪縛に過ぎない。
 ――ならば、何故こんなにも自分は憤っている。
 焦燥感にも似た怒り。どこかそれは理不尽に対するような――
 だから、気持ちに蓋をした。
 考えるでもない。自分は間違っている。目指した理想は借り物で、エゴと欺瞞だらけの単なる掃除屋。間違っている自分は死ぬべきだ。そんなものを目指したかつての自分も、――その果てに此処にいる自分も。
 目の前に立っているのは、かつての自分。
 既にマスターを失ったこの身では、チャンスも少ない。
 憤怒で気持ちを満たす。
 ――殺そう。
 俺は、この瞬間を待ち望んでいたはずなのだ。
 結末を変える。過去を改竄し、今ここにいる自分を抹消する。それのみが俺が血塗られた無限から抜け出すことが出来る、唯一の道。ならば躊躇する理由は何処にも無い。
 感じる理不尽のままに剣を振るおう。
 ただ思うままに、己が剣を叩きつけよう。
 この目の前に存在している、かつての自分を殺すために。
 ――じゃない……!
 負ける道理は何処にも無い。
 自分は目の前の存在が理想の果てに鍛え上げた最強の刃、一振りの剣。
 ――なんか、じゃない……!
 なのに、何故。
 こいつは未だに剣を振るっている――!

 決して、間違いなんかじゃない――――!!

 耳に届いた剣戟の音が、胸を貫いた。
 綺麗な理想だった。
 皆が幸せであって欲しいという願いは誰もが一度は夢見ること。
 それは一片の穢れも無い、純真で無垢な願い。
 だから憧れた。自分がそれをもたらす者であったなら。あの時の衛宮切嗣のようになれたなら。
 そんな綺麗な理想を追うことの何処に咎がある。ならば、間違っていたのは、どっちだったのか。
 答えは初めから決まっていたということか……。
 ――うん。大丈夫。お兄ちゃんの家は、私が守っといてあげるから。安心して行ってきて。でも、帰ってきてくれなきゃ嫌だよ?
 かつて、姉であり妹でもあった銀髪の少女が、どこか悲しげに言った。
 家を守ってくれると、そう約束してくれた。
 いつでも自分が帰ってもいいように。帰るべき場所が無くならない様に。
 だけども、俺は二度と家に戻らなかった。自分の家族を、その尊い約束を裏切った。
 そう、間違っていたのは、家族の声に耳を貸さなかった自分であったということ。
 ――姉と呼んだ女性。
 ――いつも朗らかな笑みを見せてくれた後輩。
 ――背中を預けて共に戦った金髪の騎士王。
 ――憧れだった同級生の魔術師。
 どうして耳を貸さなかったのだ。
 この身から剥がれ落ちるものをも省みず、ひたすら愚直に理想を目指した。
 だけど、その中にあったはずの振り払ってはいけないモノも全て、剥がし落としてしまった。
 故の結末。差し伸べられた手を全て振り払い、無視し続けた代価。愚者の旅路の果て。代償は赤い夢。
 ならば、この姿は道理なのか。
 それが、真実だとするなら――
 ――相変わらず容赦が無いな、イリヤ……。

 (……衛宮士郎。お前は、この俺を越えると言ったな)
 無限の剣の中、荒野の彼方に士郎は立っていた。
 目に据えるのは世界に在ってはならない歪んだ化け物だ。
 (お前が、この道を間違えないというのならば――)
 右手を天に掲げる。
 魔術回路が限界を超え、回転数を上げる。
 もっと上へ。
 もっと遠くへ。
 自らが望む、理想へ。
 士郎の意思が頂点へと駆け上がっていく。
 それは今の衛宮士郎では遥か届かない境地。
 だが、いつか必ず到達する剣が、士郎の手中に顕現していく。
 (――その証明を、俺に見せつけてみろ!!)

 「投影(トレース)開始(オン)
 原初の意思が、世界に現界する。

6/
 ■意志の音


 剣が落ちる音と爆発音が同時に起こった。
 一つは割れた日本刀、一つは風と風の衝突が起こしたものだ。

 リリィが放った暴風に対抗するように、凛は手持ちの宝石を全て魔力塊に変換、撃った。
 ただし、面への攻撃である暴風に対し、凛のソレは点の攻撃だった。
 魔力の槍は、暴風の塊を穿ち、一直線に突き抜けた。
 結果。まるで台風の目のように、穴が開いた。
 「――――!」
 直後。
 キュン、と空を切る音が響いた。
 それは黒い弾丸。
 視覚化された呪いが、暴風に空いた中穴を穿つように放たれる。
 呪いはあらゆるモノを裁断する風を物ともせず、一瞬で通過は行われる。
 そして、着弾。
 呪縛は黒い点から染みのように、身体全体に広がっていく。黒い瘴気が体を覆う。
 「あ、――くぅ!」
 寒気と頭痛と吐き気、風邪特有の症状が同時に襲い掛かり――リリィは思わず膝を付いた。
 「体を暖かくして、栄養のある物を食べて寝ていれば、まぁ五日で治るわよ。……そんな眼で見ても、お薬は出さないわよ?」
 凛は髪をかき上げながら、不敵に笑った。
 リリィは込み上げる嘔吐感を抑えながら、睨むように問うた。
 「何故――」

 「――殺さない」
 階上に立つ衛宮士郎を階段の下から見上げるリヒャルトが独白のように呟いた。
 過ぎた刹那が脳裏に過ぎる。
 剣戟が生まれた瞬間。
 士郎が振るう刃が空を走る。それに合わせるようにリヒャルトは刀を抜いた。抜刀。神速で行われるそれは駆ける刃とぶつかる。
 物理法則に従うならば、衝突した剣同士は止まる、もしくは反発するだろう。力量と相反する流れを持つ衝突した二つの刃は必ず影響を受ける。この世に存在する物質であるのならば、それは絶対の法則だ。
 ――だが、士郎の刃にその法則は届かない。
 届いた衝撃すら意に介さず、名も無き一振りの証明(ネームレス・ワン)≠ヘ日本刀を両断し、リヒャルトを切り裂いた。
 交差する二人。
 その結果は、リヒャルトが階段から転げ落ち、士郎が階上に立っているという構図だった。
 士郎はリヒャルトの目線に背を向け、沈黙を保っている。
 ただ、そうであるからそうしている、そう言いたげな背中だった。
 「お前は……その意味と重みを知っているのか――魔術師でありながら、死を容認出来ないということの重みを」
 切り裂かれ血を流す横腹を押さえながらも立ちあがり、恨むように静かに吼えた。
 敵を殺さない=Bその事実は思いのほか重い。
 「ここで私を殺さなければ、再び私はお前を襲うぞ。その時にお前の大事な日常とやらも守れるという保証は、何処にある?」
 「分かってる」
 振り向かずに士郎はそう言った。
 「それでも――俺は何も切り捨てずに生きていく方法を見つけていきたいんだ……」
 十を助けるのならば、一を切り捨て九を救う。
 それが最も効率の良く、最も人が多く救える方法だ。
 士郎の脳裏に赤い外套の男が蘇る。
 正義の味方という理想を貫くには、そうするしかなくて。
 だけども、それは決して衛宮切嗣が夢見た存在とは、違うモノだ。
 現実は厳しく、難しいのは妥協、その享受。
 今まで起きてきた事件の数々、そしてロンドンでの霧生朱美の事件。どうにか出来た事件もあれば、どうにも出来なかった事件もあった。その度に胸は軋み、剣の墓標は刻まれた。
 だからだろうか。
 一の理想を絶対とし、救えるものだけを確実に救っていった者がいた。
 心を鉄にして、ただ現象を整理する機械として生きた者がいた。
 黒いコートと赤い外套を纏う二人。
 彼らを越えるというのならば、そんな妥協は許されない。
 それがどんなに茨の道であっても。偽善と呼ばれようが。欺瞞と呼ばれようが。

 ――それが衛宮士郎の生きる道だから。

 「私が居る」
 階下、リヒャルトの背後から声が響いた。
 それは遠坂凛だ。
 黒い長髪を靡かせて、慄然と言う。
 「リヒャルト・フォン・アインツベルン。アンタがそれを為そうとするなら、私が止める。――私には、コイツみたいに面倒くさい思想を抱えているわけじゃないしね」
 「――凛」

 二人で一緒に行こうよ……
 ―――はは。そうだな、うん。そうだ、二人なら決して間違えない

 三ヶ月前にあった、一つの言葉と一つのやり取りが士郎の脳内で再生される。
 ――そうだ。二人なら、間違えない。
 きっとこれからも色々あるだろう。
 だけど。それでも。
 凛がいるなら、俺は間違えない。
 そう確信し、士郎は笑みを作った。
 振り返り、凛の元へ行こうと階段を降りた。
 半ば呆然としたリヒャルトと交差する。
 過ぎる瞬間、リヒャルトは士郎の目を見た。
 それは鷹の目。鋭い目つきには、さっきのことを本当に実行しようという強い意志が宿っていた。
 (こいつは……一体何なんだ……!)

 狂っている。
 リヒャルトが思ったことは、それだけだ。
 例えば、銀行強盗が一人居たとする。強盗は大勢の人質をとって銃を振り回している。
 この状況において、人質を全員救うというのは難しい。
 身体能力、年齢、性別。様々な要因が絡み合い、各人の救える確率≠ニいうのは個々違っている。ならば、救える確率の低い者は救えない者≠ニして初めから扱ったほうが、残りの者達の救える確率は上がることは自明の理だ。
 仮に奇跡的な方法で、人質全員を救えたとしても。
 それでも、どうしても救えない者が出てくる。
 人質を取った犯人だ。
 銀行強盗は犯罪者としてのレッテルが貼られ、最悪な場合、殺すことも躊躇われないだろう。
 そうしなければ一を切り捨て九を救うどころか、十全て救えない可能性すら出てくる。
 ――この男は、それでも殺さないと言っているのだ。
 救う、と。目の前にいる人たちを全員救う、と確信し、言葉にしたのだ。
 幾らなんでも常軌を逸しすぎている。それは偽善でも欺瞞でもない。
 壊れている。
 人間としてマトモな機能を持っているならば、そんな思考には決して至らないはずだ。
 そもそも、おかしかった。
 ホムンクルスとしての衛宮切嗣、聖杯の具現たるリリィ、そしてアインツベルンの魔術師の自分。こんな絶対的な戦力の差なのにも関らず、衛宮士郎はたった一人で乗り込んできた。
 その意思。その執念。
 こいつには自己というものが全く無い。省みる自分は無く、ただ人を救うという一念のみで動いている。
 これを狂気と呼ばずに何と言う――――!

 交差が終わる。
 リヒャルトの目は士郎の背を追う。まるで信じられないモノを見る目つきで。
 勝てない。
 リヒャルトは激痛の止まない横腹を押さえながら、そう思った。
 ――衛宮士郎は止まらない。如何な攻撃を与え、どんな致命傷を与えても、この男は立ち上がり続ける。自己保存という機能が欠けている人間に対し、痛みや恐怖が何の意味を持つだろうか。
 ならば、自分が勝てる要因が何処にある?
 「……私達は、負けたのよ。リヒャルト」
 リリィが仰向けに倒れたまま、そう言った。
 うな垂れるリヒャルト。その様は確かに敗者の姿だった。
 (私は一体何のために、こんなところまで来たのだろうか――)
 一人リヒャルトは何故と、自らに問う。
 ここに居る理由を。
 負ける道理の無い戦力を持ちながら、今こうして血を流している理由を。
 ――決まっている。全ては聖杯を手に入れるためだ。
 アインツベルンの悲願、その成就。
 それのみが自らの望みだったはず……。
 
 ――じゃあ、どうしてアナタは、それを為そうと思ったの?

 記憶の遥か彼方、一つの問いが今、打撃となってリヒャルトを穿つ。
 それは、三年前――いや四年前、第五次聖杯戦争が開始される数週間前のこと。
 一人の少女に問いかけられた。
 ふん。ならば、お前はどうなのだ、イリヤスフィール。何のために、お前は聖杯を求める
 記憶の中の少女はクスリ、と笑い。
 あら、アナタが其れを問うのかしら?
 ――そうだったな。下らない質問だった
 ……太陽に『何故輝いているのか』と問うと同じようなことだ。
 自嘲する。
 自分に似合わない、随分詩的で下らない思考だな、と。
 で、結局、アナタはどうなの? ……まさか忘れたとは言わせないわよ。この数ヶ月に渡る訓練という名の仕打ちを。あんなの考え付くなんて、アナタ間違いなくサドね。そうまでして聖杯を求める理由は何?
 それは――
 それがアインツベルンの悲願だからだ、と言おうとして止めた。それはアインツベルンの理由で、リヒャルト個人の理由ではないと思い至ったからだ。
 一度言葉を切って
 ――御館様に、認められたいからだ。子供の頃から思っていたことだ。……祖父のようになりたい、とな。認められることは、その第一歩だろう?
 そう答えた。
 お爺ちゃんのように立派な当主になってみせる、と子供の頃、祖父に吼えたことがある。
 我ながら子供だな、と思い苦笑する。
 笑うか?
 イリヤはクスリ、と笑いを漏らし
 ええ、お腹の底から笑わせてもらうわ、リヒャルト。――アナタの口から、そんな可愛い事が聞けるなんてね
 そう言い、リヒャルトに背を向けた。
 じゃあね、リヒャルト・フォン・アインツベルン。……今の話は冥土の土産に貰っていくわ
 それがイリヤスフィールとの最後の会話だった。
 聖杯として生まれた彼女にとって、聖杯を得ようが得まいが聖杯戦争が終われば生きることは出来ない。少なくとも、アインツベルンには戻って来られない。
 そのことを知りつつも、なお彼女は冬木の土地へ向かった。――自分の死に場所へ。
 何のために行われたのか、何が彼女を突き動かしていたのか。今はもう答える者はいない。
 だが、推測することは出来る。
 (私もお前も――血に縛られているんだな……)
 それは、きっと血統に込められた因縁だ。
 『衛宮』という血の呪縛、歪な憧憬。そして――かつてあった家族の情景。
 自分は祖父、彼女は父親。それぞれがそれぞれに、因縁と思いがある。
 去っていく背中。幾ばくか寂寥感を感じさせるソレを見て
 (……間違っているのは私か、お前か、アインツベルンか。それとも)
 ――間違っているのは、この想いか。
 一つの疑問を、思った。
 誰かのようになりたい≠ニ思うことは、それはつまり目指す誰かの模倣だ。そんなものを理想(ゆめ)と置くことこそが癌。間違った思想。
 否。――それは違う、と心の中で必至に反発している自分がいた。
 それを間違いだと烙印するには、あまりにも不躾すぎる。
 子供が、生んでくれた親に憧れることは、恐らく誰もが一度は経過する儀式のようなものだ。
 子が親を模倣し、オリジナルへと昇華させていく。その過程は、どんな生物であっても、須らく存在する。
 ならば、間違っているのは――自分か。
 ここで、敗北の痛みを感じているのは、自分のせいなのだと。
 ……恐らく全てが急ぎすぎた、ということか。
 認められたくて。一刻も早く、祖父に認められたくて。
 そして――
 「そうか、私は急いていたせいで忘れていたのか。……アインツベルンの誇りを。ならば、この結果は道理か。
 ――久遠寺アリスよ」

 「ええ、そうね。リヒャルト・フォン・アインツベルン」

 声が響いた。
 「――――!」
 ここにいる者、全員が息を呑む。
 誰かが声を上げる間もなく――
 ズ、と鈍い音と共に血の柱が上がった。
 「敗者に与えられる物は、死のみ、ということか――」
 見る。
 一瞬、皆が皆、己が目を疑った。
 視界に目立つ赤い点が映っている。
 リヒャルトの胸を一つの左腕が貫いているのが見える。
 赤い点――リヒャルトの心臓は突き出された五指に握られていた。
 だが、本当に奇怪なのはその事ではない。

 心臓を掴む左腕が、何も無い虚空に浮かんでいた(・・・・・・・・・・・・・)

 突き出された左腕、肘からその先からは存在していないのだ。
 「が、――」
 リヒャルトは苦悶の表情のまま吐血する。その血が地面に到達する前に――
 ――グシャリ、と腐った果実のように心臓を握り潰した。
 (ああ。これが、私の結末か――)
 ある冬の景色。聖杯として遠き異国に旅立った彼女の背中が思い出される。
 リヒャルトは、その背中を脳裏に焼き付けながら、絶命した。
 「ま、遅かれ早かれ、アナタは処分するつもりだったし……。私の存在がアインツベルンにバレるのは、色々と拙いのよ」
 声に誘われるように、左腕から先が姿を顕していく。まるで透明人間が実体に戻っていくように――一人の女性の姿が現れた。
 その顕現と同時に、リヒャルトの身体は地面に崩れ落ちる。
 現れたのは片腕の無い、返り血まみれの黒髪の女性だ。
 名を、久遠寺アリスと言った。
 「リヒャルト、アナタ――アインツベルン以外の者と手を組んだの?」
 リリィは、その事実に愕然とした。
 アインツベルンの家系が、いや魔術師の家系は安々と他者の血統を取り入れたりはしない。そも、魔術師とは閉鎖的な人種だ。好んで外界と接触する者など決して多くない。
 だが、士郎と凛は突如現れたアリスに驚きの目を見せる。
 「久遠寺、アリスですって……その名前どこかで――。いや、その前に、これはどういう……」
 凛は予想だにしなかった事態に、半ば混乱の様を見せていた。
 まさか、と彼女は思う。
 在り得ないと思い、事実目の前で起きていることに驚く。
 かつて世間を騒がせた、ある二人の魔術師が凛の脳裏に過ぎる。
 しかし、対照的に士郎は静かだった。
 目は驚愕に見開かれつつも、その五指は強く拳として握られている。
 ――それは怒りだ。
 突然現れて、リヒャルトを殺害したという事実。
 その、忌まわしいはずの作業を平然と行う精神。
 それだけでも士郎の頭は沸点に昇るというのに――
 ある一つの事実が、士郎の心を打ちつけた。
 忌まわしきロンドンで起きた事件。その最中に――あの女を見たことが無かったか。
 あれは確か――
 「……お前、まさか――」
 「あら、お久しぶり(・・・・・)ね。衛宮士郎君。――朱美からお話はよく聞かせてもらったわ(・・・・・・・・・・・)
 「き、さま……!」
 エーデルフェルトの屋敷からの帰り道、その情景が蘇る。
 ロンドンを騒がせた事件の最中、犯人を見つけようと躍起になっていた士郎が見た、路地裏に向かう一人の女性。
 それに誘われるように向かった路地裏には、何が居た?
 ――何かを啜る音が聞こえる。
 声をかけようとした彼女は、あの時何処に居た?
 ――鼻をつく異臭。死≠フ臭い。
 もし、それが自分を彼女のところへ誘う、罠だったとしたら――!?
 ――人の脳みそを喰らう、見知らぬ霧生朱美の姿――――

 「お前が朱美さんを……!」
 「ええ、正解よ。彼女は実によかった。その境遇、その能力、その憎悪。どれをとっても――
 ――最高の、実験体だったわ」

 ニヤリ、と赤いルージュが弓の形に歪んだ。
 「きっさまぁああああああああああ!!」
 駆ける。
 砕けた両の手、深い斬撃痕すらものともしないで、士郎は怒りに任せて駆け出す。
 今、想うは一人の女性。
 優しかった。
 アナタの名前は? 衛宮士郎? ――良い名前ね。私の名前は霧生朱美。同じ日本人として、仲良くしましょ?
 不慣れな地で右往左往していた二人に、何の打算も無く手を差し伸べてくれた。
 ――料理上手いのね。お姉さん、びっくりしちゃったわ。……大丈夫よ、凛ちゃん。そんな目で見なくても士郎君を取ったりしないから
 例え身の内にどんなモノを抱えていたとしても、そんなものは関係ない。
 彼女は家族だった。
 遠く異国の地。冬木とは違う新たな土地の、新しいもう一つの家族。
 『正義の味方』? ううん、笑わないわよ。私は、笑わない。だって――
 それを、蹂躙し、完膚なきまで破壊したことを、許せる人間が――この世界の、どこに居る。

 だって、――私と一緒なんだもん。私もね、叶わない夢を追いかけてるんだ――――

 「あああああああぁぁぁああああ!!」
 今だ、手の内にある無骨な刃を、力の限り握り締める。
 朦朧とする意識も、失神しかねない痛みも全て振り払い、全力でアリスの元へ、士郎は駆け出した。
 振るう。
 物理法則を無視する閃光が、アリスを両断するように走る。
 それら全ての挙動が刹那の内に収まるほどの速度であったが――
 しかし、久遠寺アリスに刃は届かない。
 「――!?」
 殺意の刃が空を切る。
 当たる、と士郎が確信した瞬間、アリスの姿は視界から消え去った。
 気配を感じて、振り向く。
 「士郎――?」
 そこには、チェシャ猫のようにニヤついた笑みを浮かべるアリスが、凛の真横に立っていた。
 「凛っ!」
 なかば叫ぶように凛に対し警告を送る。
 すぐさま、状況を理解した凛はアリスの居る方向とは逆に足を踏み込んだ。
 跳躍。
 空気の流れを頬で感じながらも、凛の目は標的を確認しようと、元居た位置に視線を流す。
 だが。
 「――いないっ!?」
 その姿はどこにも居ない。
 気配の痕跡すらも感じ取れない。
 思考が身体と共に流れる。
 (空間転移!? それにしても発動が早すぎる! どこに――)
 困惑と共に、凛は視線を巡らす。
 「――――な」
 身体が流れる、その先に――アリスの姿が、あった。
 一言。
 「through and through(貫きて、なお貫く)――」
 凛の足先が地面につくと同時、抉るような一条の閃光がアリスの手から放たれた。
 「く――」
 それに対し。強引に身を捻ることで、回避した。
 だん、と背中から、不恰好に着地する。強引な身体の使い方の所為で、節々が痛む。
 一秒でも早く戦闘態勢に戻るべく、まずは敵の位置を確認しようと顔を上げる。
 そこには――避けられたのにも関らず、変わらず笑みが顔面に張り付いた、久遠寺アリスの姿があった。
 その視線の先にあるのは――凛のガンドによって身動きが取れなくなった、リリィに向かう殺意の閃光が――――
 「あ――」
 呆然と、何が起きているのか理解出来ないといった顔のリリィ。
 だがその表情を、士郎は一つの言と共に打ち砕いた。
 「投影(トレース)開始(オン)――!」
 閃光と閃光が衝突する。
 バキン、とガラスが砕けるような音が空間に響き、再び静寂が訪れた。
 「あらあら、惜しかったわね。――そんな身体でよくやるわ」
 自らの攻撃が防がれたのにも関らず、涼しい顔をしているアリス。
 対し、士郎は肩で息をしていた。痛みが酷いのか、顔は脂汗と苦悶で埋まっている。
 だが、それでもなお、手にした名も無き一振りの証明(ネームレス・ワン)≠握り、構えなおす。
 「……今のは、まさかけしにぐの剣(ヴォーパルソード)=Aか。お前は一体――」
 「へぇ。今の一瞬でアレを解析したの? ……なるほど。その変な魔術特性にリヒャルトは敗れたのね」
 アリスは興味深そうに士郎を眺める。
 「面白い坊やね。だけど、私の姿を見た以上、生かしておくわけにはいかないわ。そう、ここにいる全員――
 ――皆殺しよ」
 その言葉が終わる前に、リリィは風塊をアリスに放った。
 「馬鹿! そんな身体で魔術を使うなんて、自殺行為もいい所よ!」
 凛が一喝する。
 風はアリスが居た場所を通過し、城壁に激突し、瓦礫に変えた。
 「く、ぁ――駄目だった、か――」
 グラリ、とリリィは揺れ、そのまま倒れた。
 瞬間、目線は衛宮士郎と交錯する。意識が断絶しそうになる。
 ――朦朧とする意識の中、リリィは無意識に言葉を紡いだ。
 「…………」
 士郎は、その様子を見て、眉尻を下げる。
 (『お兄ちゃん』、か――)
 リリィが放った、声無き言葉。
 それに応えるように、士郎は鷹の目を一層きつく絞る。
 (――何処だ)
 ぐるり、と視界を回すが、アリスの姿は見えない。
 声だけが、響く。
 「――起きなさい、魔獣(ジャバウォック)
 アリスは宣言するように、一言告げた。

 アリスが告げた、その言葉の意味を理解するより先に、凛の慟哭のような叫びが聞こえた。
 「士郎っ! ――後ろっ」
 「っ!」
 ぞくり、と背中に悪寒が走る。
 感覚を総動員して、その一撃――手にしている無骨な刃を、背に回し防ぐ。
 歪な短刀が、音を立てて折れ、世界から消滅した。
 (――破壊すべき全ての符(ルールブレイカー)!? ということは、まさか――)

 「■■■■■■――――!!!!」

 沈黙したはずのホムンクルスが、立ち上がり、空に咆哮した。
 その壮絶な咆哮は、空間を揺らし、あらゆる物質に響く。
 士郎と凛は、不意の、在り得ない叫び声に驚いた。
 「まさか、動くはずの魔力(ねんりょう)は既に無いはずだ!」
 (じがを持たない、戦闘人形である切嗣(ホムンクルス)は自力で魔力を生成出来ない。その供給源はリリィスフィールで、それに繋がるパスは完全に断ち切ったはずだ。なら、アレが動く道理は無い。
 その事実をリリィは脳内で錯綜させる。
 「――――在り得ない。一体、どういうこと――」
 だけども現実として稼動している。ということは、何か自分の知らない理由があるということだ、とリリィは白濁とした意識の中で思考する。
 それは何か、と思考したところで、当たり前のように存在している異物に思い当たった。
 「久遠寺アリス……あなた、何か細工したわね」
 ふらつく頭を押さえながら、リリィは虚空に確信を投げかけた。
 応える声が空間に響く。
 「実験よ、実験。そう――ただの、実験よ」
 ご、と地面を踏み砕いて、ホムンクルスは駆け出した。
 爆発的な加速力は一瞬にて、その距離を縮める。――リリィの元へと。
 「――っ!」
 その動きに、今のリリィが反応できるわけが無く。
 ――瓦礫が砕ける音と共に、その小さな身体が宙に舞った。
 「士郎っ!」
 「分かってる!!」
 瞬間の内に視線を合わせ、同時。
 士郎は駆け出し、凛はガンドを放った。
 リリィを撃ったときとは違う、手加減も容赦も無い、機関銃のようなガンドが雨霰とホムンクルスに撃ち込まれた。
 対し、士郎は宙に投げられたリリィの身を受け止めた。
 意識は無いが、身体に致命傷は見当たらなかった。士郎は幾ばくか安堵を得る。
 (ギリギリのところで、直撃は避けたのか……)
 思考は一瞬。すぐにホムンクルスと距離を取る為、士郎は足を踏み出し、バックステップを行う。
 見ると、何発ものガンドを穿たれたホムンクルスが、ぐらついて倒れようと――
 (いや、違う!あれは倒れようとしているんじゃなくて――)
 這い蹲るように四肢を床に付けた。それは、まさに獲物を狩る獣の姿。
 (――戦闘態勢に移行しようとしているだけ――!)

 瞬間、大気が歪んだ。

 「■■■■■■――――!」
 人の形をした、獣が吼えた。
 その咆哮に呼応するように、膨大な魔力が獣を中心に、宛ら台風のように渦巻く。
 それは水を啜るように。
 それは真空が空気を吸い込むように。
 世界から夥しいまでの魔力(マナ)を汲み上げる。
 決して人の身で制御できるような、そんな半端な量では無い。
 正に魔獣と呼ぶべき情景に、凛と士郎は驚愕を越え、恐怖を覚えた。
 「こんな、こんなことって……」
 見れば、先ほど凛が撃ち込んだガンドの痕も、既に無い。
 誰もが誰も、知覚できないほどの速さで傷は再生していた。
 (この姿……桁は違うが、まるであの時の――)
 その中で士郎は思う。頭の理解より先に、感覚の理解が先行する。
 ――この魔獣は、あの霧生朱美と同一のものだ、という思考が。
 だが、理解に思考を進める前に魔獣は動く。
 膨大なる魔力が、腕先へと収束していく。そのまま、肉食獣の爪が如く、その腕を振るった。
 ゴ、という風切り音がなったと士郎が知覚した瞬間――
 破壊が来た。
 「っ―――!!」
 衝撃が地面を抉り走り、あらゆるモノを蹂躙し、破壊して暴れまわる。
 ゴガン、と音の衝撃が、廃墟の城を揺らしたとき。
 大きな横穴が一つ、穿たれていた。
 魔獣から一直線に走った破壊の痕は、トンネルのように城の外にまで突き抜けている。
 「■■■――!」
 その結果に満足したように、魔獣は一声咆哮を上げる。
 「で、出鱈目にも程があるわ……。あの破壊力、下手するとバーサーカー並よ?」
 凛は、かつて経験した聖杯戦争を思い出す。常識を超えた破壊の舞踏。それは正にサーヴァントの証ともいえる。
 なら、アレに勝てる道理は何処にある。
 「落ち着け、凛」
 最悪の想像を打ち破るように、士郎が言う。
 「確かに破壊力だけは、サーヴァント並かもしれない。だけど、見ろ」
 「……! 身体が……!?」
 魔獣が振るった右腕。それは恐るべき破壊を生み出したが、同時に自身にも反動が来ていた。
 筋繊維は所々千切れ、指の骨が折れている。一撃でアレなのだ。複数回振るえば、どうなるか想像に難くない。
 でも、と凛は否定を置いて言葉を続ける。
 「あの破壊力なら、アレの腕より私達の死が先だわ。……その身体で、どう立ち向かうつもり?」
 既に士郎の顔は蒼白を越えて、土気色になっている。明らかに出血多量だ。
 「それでも、アンタは……行くのね」
 「――ああ。リリィスフィールを、頼んだぞ。凛」
 アレの打倒は自分の仕事だ、と付け足して、士郎は一歩を踏み出した。
 凛はその後姿を見る。
 (確かに、これが最善か……)
 怪我こそ無いが、手持ちの宝石は尽きた。宝石魔術はもう使えず、それ以上の攻撃魔術を自分は習得していない。
 なら、後出来ることはリリィスフィールを不意の攻撃から守ることくらいか。
 だけども、それを悔しいとは思わない。
 (――私は私に出来ることを精一杯やることだけよ)
 凛は決意の瞳で、士郎を見つめる。
 そこには、陽炎のように揺らいだ、赤い外套の男が――
 「え、――?」
 確かに、瞬きの間、見えた。

 魔獣の前に、士郎は立った。
 ぎらついた魔獣の目、それは標的を士郎に変えたという証拠。
 士郎は自分の状態を再確認する。
 出血多量。
 腕は砕け、五指も満足に握れない。
 顔面は血だらけ。
 意識は壊れた蛍光灯のように点滅を繰り返す。
 ――敵はあまりにも強大。
 士郎は剣を握りなおした。
 ――それなのに。
 「■■■■■■――――!!!!!」
 人の形をした獣が吼える。
 ――負ける気がしないのは、何故か――――!

 「固有結界(リアリティ・マーブル)……展開(オープン)
 ――My whole life was unlimited blade works(この体は、無限の剣で出来ていた)=v

 魔獣が爆ぜるように駆け出した直後。
 握りなおした無骨な両刃の剣を、地面に突き立てた。
 瞬間、剣が砕ける音と共に世界が形成された。
 衛宮士郎が持つ唯一にして無二の世界。
 それは無限の剣の墓標。
 それは錬鉄場。
 具現化された心象世界の中、時が静止する。

 士郎の目の前に、居ないはずの赤い幻影が、何時の間にか佇んでいた。

 「……道理で、こんなに力が湧いてくるはずだ」
 『そうだ。――世界は、こんな化け物を決して許しはしない』
 抑止の力が、働いている。
 それは僅かだが、だけども確かに士郎の身に満ちていた。
 目の前に立っているのは、赤い外套を翻す人類の守護者。
 何故、と士郎は問わない。
 恐らくあの時≠ノ繋がったのだろう。自分が『剣の起源』に目覚めたときに。
 きっと全てがそこに揃っていた、ということ。『起源』も『根源』も――『座』も全て。否、それら全てが『根源』と呼ぶべきなのだろう。
 つまりはそういうことだ。あの時=A士郎を『起源』へ導いたのは、確かに赤い外套だったのだから。
 士郎の中に宿った微かな残滓。
 それがこうして目の前の男を意識ある守護者≠ニして存在させていることの答え。
 世界で誰よりも、何よりも近しい存在だからこその現状だった。
 『……衛宮士郎。お前は、この俺を越えると言ったな』
 ――当たり前だ。そう、俺は誓った。……『正義の味方』になってみせると。
 切嗣が、アーチャーが、目指して成れなかった存在になるということの意味。それは両方の存在を越えることに他ならない。
 『お前が、この道を間違えないというのならば――』
 ――間違えない。彼女がいる限り、俺はきっと間違えないでやっていける。
 右手を天に掲げる。
 目の前の魔獣を打倒するために。
 己が理想の証明を、この世界に刻むために。
 『――その証明を、俺に見せつけてみろ!』
 「投影(トレース)開始(オン)
 時が、動き出す。

 士郎の一言放つと、腕先に魔力が収束していく。
 魔術回路がフルスロットルで加速する。ギアは最初からトップへ、狂ったように走り出す。
 士郎は、その領域≠ヨと手を伸ばす。届く、と信じて。
 溜め込んでいた魔力を全て魔術回路に回す。
 部品を撒き散らしながらも構わず走る。まるで暴走したような魔術回路。
 ――だけども、足りない。
 衛宮士郎の全ての魔力、あらゆる魔術回路を以ってしても、その領域≠ノは届かない。
 それでも、手を伸ばす。
 天を衝くような右腕は決して下ろさず、魔術回路が暴走したかのような加速は止めない。
 それは信じているから。必ず『ソレ』を投影できると。
 『――やはり、今の魔力では届かないか』
 条件は揃っている。知識と専用の魔術回路、理論的に言えば可能である。
 しかしながら、絶対的な魔力と魔術回路の錬度が圧倒的に足りない。
 これから培っていくべき経験と自己研磨の量の絶対差。いずれ届くとも、今の衛宮士郎では届かない。
 だから。
 『そうだ。俺は衛宮士郎(おまえ)が目指し、果てに行き着いた姿、何れ届く領域だ。故に――』
 士郎の掲げた右手とアーチャーの掲げる右手が重なる。
 同時。
 世界からの抑止力――アーチャーの魔力が、衛宮士郎に流れ込んできた。
 防波堤は全て決壊。あらゆるモノが流され、奔流に飲まれていく。
 それでも、流れ狂う魔力を一点へと制御、収束させていった。
 『――故に、俺に出来ないことを一つでもお前がやり遂げたなら、それはお前が俺を越えたことの何よりの証明だ。……さぁ、力を貸してやる。だから見せてみろ。俺たちが持つ世界の意味、究極の一を――!』
 投影も強化も、全ては自分の世界から零れた落ちたもの≠ノ過ぎないと、士郎はいつか聞いたことがあった。
 錬鉄の世界。剣製の世界。それが、衛宮士郎が持ち得る唯一の世界だと。
 ――ならば、ソレが存在する意味とは、一体何なのだろうか。
 魔力回路が限界を超えて駆動する。
 ――きっと。それは。
 魔力が、意思が、今は届くこと叶わぬ領域へと駆け上がっていく。
 失敗することなど在り得ない。
 難しいはずは無い。
 不可能なことでもない。
 ――それは、この、たった一本の剣を投影することだけに。
 元より、この身は、ただそれだけを為すために生まれてきたのだから――――!

 「投影(トレース)完了(オフ)
 原初の意思が、士郎の右手に顕現した。


 遠坂凛は、その一部始終を全て見ていた。
 それは僅かな時間に行われた。
 魔獣が飛び出そうとする、一瞬の刹那。
 士郎は何かを呟き、そして剣を地面に突き立てた。
 炎のサークルが秒も経たない内に広がる。
 虚像の世界が、実像の世界を塗り替える。
 ――収束させていた固有結界を、展開させた……?
 辛うじて付いて行ける凛の思考は、そのことだけをまず思った。
 剣という形に収束させていた固有結界を、分解、元の形に展開させた。
 その事実、固有結界の制御≠ニいう魔法染みた芸当に驚きの声を重ねる。
 ――本当に、どこまでも強くなる……。
 聖杯戦争以来、加速していく彼の能力に、一つ感嘆の息をついた。
 だけども、士郎はそのことに自惚れず、埋もれず、ただ理想を求めて邁進する。
 あの危うさ。一歩間違えれば、自壊すら許す天井知らずの強さ。
 それは身の強さではなく、精神の強さ――いや、脆さか、と凛は思考する。
 強くなっていくごとに、経験を積むごとに、大きくなっていく心の罅割れ(つよさ)
 ――私は、抑えられるのかな……アナタの、その罅割れを。
 凛は一縷の不安を胸に抱く。しかし同時に、だけども、とも思う。
 ――それを為すことが、私の約束だから。
 誓い、約束、決意。様々な意志が、凛の心を錯綜する。
 その行為を、人は決心と呼んだ。
 幾度と無い決心の直後、士郎の様子に変化が見えた。
 天を掴むように右腕を突き出す。すると、その先端に――
 莫大な魔力が収束していった。
 士郎と繋がったパスから凛の魔力が、根こそぎそちらに持っていかれる。
 「――――っ!」
 急な魔力の吸引に、身を捩る。遠慮も何も無い、強引ともいえる行為に、凛は驚きの意と体の変調を得た。
 だが、事態は、それだけに留まらない。
 何か、別のところから魔力を得ているように、更なる増大の加速を見る。
 その魔力を。
 「……アーチャー?」
 懐かしいモノだと思うのは、何故だろうか。
 だが、その挙動も一瞬にして終わる。
 今の士郎では、おおよそ持ち得ることの出来ないだろう、莫大な魔力が一つの結果を示す。
 それは。
 「――石の、鏃……?」
 莫大な魔力を要した投影とは思えない、小さな石の鏃だった。
 全長は二十センチほどだろうか。鏃のようなソレは、とてもじゃないが剣と呼べる代物ではない。
 確かに刃としての機能を持つと思われるエッジは刻まれているが、切れ味はたかが知れているだろう。恐らく、精々道端に生えている雑草を両断する程度のもの。
 まるで石器時代に使われた、原初の石包丁のようだ、と凛は思う。
 だけど、どうして。
 ――どうして、その石が、とても尊いモノだと、思ってしまうのだろう。
 弓兵が持っていた黒白の夫婦剣よりも、最強の幻想である騎士王の黄金なる剣よりも。
 士郎の握っている、あの石は。人が持ち得ることが出来ない、最上級の幻想、意思、思い、限りない人々の想いを――
 そこで凛の視界は、士郎の様子を映す。
 士郎が限界を越えていることを、その様子から知った。
 掲げていた右手が項垂れるように下がり、顔は俯き、表情は見えない。
 まさか、立ったまま気絶している……?
 対する魔獣は、目の前の異物を危険と判断したのか。
 飛び出すために四肢をバネのように縮めて――
 「士郎っーーーーーー!!」
 凛の叫び声が上がると同時。
 ――士郎の右手が、振るわれた。

 衛宮士郎の体は、最早死に体と呼んで、差し支えない状況だった。
 出血してから時間が経ち過ぎた。血が、圧倒的に足りない。
 体中で無事な部分のほうが少ないくらいだ、と士郎は思う。
 ――だが、とも思う。
 目の前の、切嗣の形をした獣は倒さなくてはならない、異端の化け物だと。
 この世界に決して在ってはならないモノだと、理解よりも本能が理解していた。
 恐らく、抑止力が発動してしまうほどの。
 だからこその現状。今、右手に握られている――究極の剣=B
 流れ込んできたアーチャーの魔力をも使った、衛宮士郎最大の投影だ。
 ――いつか、自分の身だけで、投影できるようになるだろうか。
 きっと、それは自らが理想を達する時、『正義の味方』になり得た時だろうと士郎は思った。
 魔獣が獲物を狩るために、身を縮める。加速の勢いを得る体勢。
 (絶対、なってやるよ……。なぁ、爺さん――アーチャー!)
 士郎は握った石の鏃を、袈裟に振るった。

 ガキン。

 突如、魔獣の横にあった瓦礫が真っ二つに割れた。
 「……!?」
 凛の驚きの息が聞こえる。
 「■■■――――!」
 魔獣が吼える。自らを打倒し得るモノを目の前にしたからか、その目は完全に士郎を捕らえている。

 ガキン。

 振るう。
 次は魔獣の真上、天井を一の字に抉った。
 (ち……狙いが、定まらない……!)
 荒れ狂うような意志の奔流を、上手く制御出来ない。意識が朦朧としている。景色が揺らいで、消えそうになる。
 それを。

 ガキン。

 右手を振るうことで、強引に押さえ込む。
 今度は魔獣の斜め右、スレスレに斬撃の痕を作る。
 魔獣が、疾駆を開始する。
 ――時間が圧縮していく。

 ガキン。

 全てがスローになる景色の中、士郎は再び意志≠飛ばす。
 意志≠ヘ先ほどまで魔獣が居た場所の地面を一直線に切り裂く。
 士郎の右手に握られた鏃が、徐々に姿を薄くしていく。
 顕現は、長い時間保たない、と士郎は認識した。

 ガキン。

 疾駆する魔獣の右腕を、地面ごと抉り、切り裂いた。
 ソレを為すのは、切り裂く≠ニいう意志そのもの。意志という絶対命令を、士郎は振るうごとに飛ばしているのだ。
 右手に宿る石の鏃の形をした、原初の思い。
 ――それに、名前は無い。

 ガキン。

 魔獣の疾駆は止まらない。狙い定まらない士郎の剣は、またもや見当違いの所を切り裂く。
 その音を、まるで――あの日の剣戟の音のようだ、と思いながらも。
 ――それは、名前無き一つの意志。
 ――それは、全ての剣の始まり。
 ――衛宮士郎の右手に握られているのは。
 ――剣の起源≠サのものだった――

 ガキン。

 魔獣の左足を切り飛ばす。それでも、なおスピードは揺るがない。
 弾丸のような速度の魔獣は、すぐそこまで迫っている。
 士郎は剣の起源≠握りなおす。
 切り裂く≠ニいう一つの方向性を。
 ――原初の人々が切りたい≠ニ願った、濁っていない純粋な想いを。
 その願いは、何よりも尊くて。
 その願いは、何よりも美しくて。
 その願いは、正に、究極の剣に他ならなかった――

 「■■■■■――――!!!!!!!」
 「おおおぉおぉおおおおおおお!!!!」
 魔獣が吼える。士郎が叫ぶ。
 最早その距離、残された時間は一つの斬撃しか許さない。
 意識が狭まり、闇に落ちそうになる。
 だけども、それを強引に覚醒させ。

 (聞こえるか、アーチャー……)

 この、想いは――

 士郎が右手に握られた剣の起源を――
 魔獣が残った右腕を――

 (剣戟が、世界に証明を響かせる、その音を!)

 決して、間違いじゃないんだから――――!

 振るった。

 世界が消える。人の意志によって形作られた固有結界という名の世界が。
 景色が、元のアインツベルン城廃墟に戻る。
 士郎と魔獣は交差を終えた結果として立ち位置を逆にして、しかし微動だにしない。
 リリィスフィールを抱えた凛は、固唾を飲んで見守る。
 そして、密度の濃い刹那が流れた後。

 士郎は膝を折り、前のめりに倒れ。
 魔獣は真っ二つに割れ、砂となって消え去った。

 「士郎っ!」
 凛はソレを見届けた後、士郎の元へ駆け出した。
 ボロボロな体の士郎は、それでも意識は崩さず。
 「――凛。勝った、ぞ」
 笑った。
 「馬鹿……。こんなときに強がってどうするのよ……」
 それを見て、呆れながらも、凛もまた笑みを作る。
 士郎は、一瞬笑ったあと、直ぐに顔に険を寄せた。
 「でも、まだ終わりじゃない……」
 
 「あははははははははっ! 面白い! 面白いわよ、士郎君!」

 久遠寺アリスの声が、虚空に響き渡った。
 「そっか……まだコイツがいたわね。大丈夫、士郎は寝てていいわよ」
 凛は立つ。
 魔力はほとんど無い。先ほど、士郎のほうに持っていかれてしまった。
 だけど、それは士郎も同じだ。いや、五体満足なだけ凛のほうがマシといえるだろう。
 「だから、アイツとやるのは、私よ」
 それでも、士郎は立ち上がった。
 「――いや。一緒にいこう、凛。それが約束だろ?」
 「全く、都合の良いときだけ、そういうんだから」
 そうは言うが、凛は笑っていた。
 二人、雄雄しくその場に立ち上がる。
 その姿を見て、どう思ったのか、見えない声は更に笑いを重ねる。
 「ふふふふふっ。非常に面白いわ、アナタ達。その能力、その在り方、その思想! ――正にうってつけね」
 何、と聞く前にアリスは先に言葉を繋げる。
 「――気が変わったわ。今は殺さないであげる。元々私の目的は果たされていたわけだし……」
 気配が消える前兆を二人は捉える。
 久遠寺アリスは、恐らく今全世界で起きている事件の元凶だ、二人は認識していた。
 それは最早確信だ。
 ここで逃げられたなら、また同じような事件が起き、世界に更なる混乱を呼ぶだろう。
 だが、アリスは自ら、その行き先を提示した。
 「……私を止めたいなら、ロンドンへいらっしゃいな。貴方達も招待してあげましょう、赤い月の夜――その演劇の舞台に」
 そう言い残し、アリスの気配は消え失せた。
 残るのは、凛と士郎の息を呑む音と、リリィの苦しげな吐息だけだった。
 「ロンドンに……? アイツ、一体何を企んでいるのかしら――士郎っ!?」
 ガタン、と派手な音を立てて士郎は倒れた。
 凛が自分を呼ぶ声も、急速に聞こえなくなっていく。
 意識が断絶する刹那、赤い外套が一言。
 ――気をつけろ
 と言って、いつもの嫌みったらしい笑みを浮かべるのを見た。
 
 ――道は遥かに。

 かつてと今の剣戟を頼りに、少年は荒野を目指す――

 

.......to be continued

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