――epilogue

 微睡みの中、何かの光を感じて、俺は目蓋を開けた。

 「――ん」
 「あ、起きた? ――お兄ちゃん」
 陽光がカーテンの合間から漏れ、体を照らした。
 視界に映るのは、見慣れたいつもの部屋と――見慣れない、銀髪の少女だった。
 その姿に、かつて死なせてしまった冬の少女と重なる。
 「――イリヤ、スフィール?」
 「もう、また間違えた。私はお姉ちゃん(イリヤ)じゃなくて、リリィ。リリィスフィールよ。いい加減覚えてよね」
 幾ばくか不機嫌を含んだ声だが、しかし顔は穏やかな笑みを浮かべていた。
 「……リリィスフィール? そうだ、あれから一体どうなったんだ――っつ!」
 起き上がろうとすると、全身に痛みが走る。
 見ると、全身が包帯まみれで、まるで重傷人だ。
 押さえた頭にも包帯が巻かれている。
 「あのね。まるでも何もアナタは重傷なの。まだ寝てないと駄目じゃない」
 そう言ってリリィスフィールは俺を寝かしつけ、立ち上がった。
 「さて、リンに知らせてこないとね。シロウが起きたこと。何せ三日三晩、意識が無かったんだもの」
 「三日……? リリィスフィール、一体何が――」
 「リリィ(・・・)
 リリィスフィールは唇に手を当て、楽しそうに笑った。
 「――え」
 「私のことは、リリィって呼んで。……私もシロウのこと、お兄ちゃんって呼ばせてもらうから」
 そう言って、パタパタと音を立てて廊下を走っていった。
 (……ごめん、凛)
 陽光に晒された、あどけない笑みを見て。
 (ちょっとだけ、可愛いって思ってしまいました……)
 俺は一人、赤面のまま布団をかぶった。

7/
 ■旅立ちの空


 俺は凛と桜の合作だというお粥を食べながら、俺が倒れた後の経緯を聞いていた。
 「もう、あの後大変だったんだから」
 「私もビックリしました……先輩が、あんな酷い怪我をして帰ってきた時は、生きる心地がしませんでしたよ」
 何でも、凛が言うには、ぶっ倒れた俺と意識を失ったリリィの二人という大荷物を担いで国道沿いまで歩き、慎二の車に乗ってここまでやってきたという。
 ……まぁ、何ていうか。
 「相変わらず馬鹿力だな、凛。女にしておくのがもった――ぃがふっ!」
 「言うに事欠いて、それかぁあああああ!!」
 見事な水平チョップが、俺の首に叩き込まれた。
 「もう! 姉さんっ! 暴力は駄目です。先輩は怪我人なんですよ。――やるなら、食事に一服盛る系じゃないと」
 「……桜。アンタって時たま何よりも恐ろしく見える時があるから注意しなさい。主に私の安寧のために」
 「――申し訳ありませんでした、ご両人」
 家主の俺よりも権限が上なお二人に、素直に頭を下げる。……この家における衛宮士郎の地位を、これ以上格下げしないためにも。
 そんなことをしていると、足音が響き、リリィが部屋に現れた。
 「駄目よ、お兄ちゃん。そういう時はごめんなさい≠カゃなくてありがとう≠チて言わないと。紳士としての嗜みよ? ……それはそうと、お客さんが来てるわよ」
 「……お兄ちゃん(・・・・・)?」
 姉妹の声がハモった。
 同時。
 蛇のようなジト目が、二対俺の方へと向けられた。――ていうか殺意混じってないか、コレ。
 獲物に嬲られる蛙のような面持ちでいると、ひょっこりと慎二が顔を出した。
 「よぉ、衛宮。どうやら死に損なったみたいだなぁ、お前。ほれ、見舞いの菊の花。ありがたく涙を流しながら頂戴しろ」
 「……慎二。今ほど、お前が居てくれて有り難いと思ったことは無いよ」
 「――お前、どうした。何時にも増して気持ち悪いぞ。脂汗流しながら、笑いかけるのやめれ――――って、藤村せ……ぶへぁっ!」
 「しろぉおおおおおう!! 大丈夫!? 頭おかしくなってない? お姉ちゃん心配したんだからぁあああああ!!」
 あたかもカタパルトデッキから、突っ込んできたかのような勢いで突如現れた、ロケットタイガーもとい藤村大河通称藤ねぇに抱きしめられる。無論、道中にいた間桐慎二(じゃまもの)など跳ね飛ばして。……哀れ、慎二。その内いい事あるさ。
 「ちょ、藤ねぇ。俺怪我してんだから!」
 そう言いながらも、自分の顔がにやけるのが分かる。心配してくれたという証の抱擁は、やはり不謹慎ながらも嬉しいモノがある。
 「もう! 士郎ったら私の知らないところで、怪我するんだから……。いつも心配させて……いつも―ーいつもいつもいつもいつも」
 「ちょっと、藤ねぇ――って待ったまった! 極まっているから、極まっているから藤ねぇーーーーーーー!!」
 「藤村先生……そこまで先輩のことを思っていたなんて、なんて美しい家族愛なんでしょう!」
 「ホント、ホント。もう私、涙が止まらないわ――モットヤレ」
 「もしかして、今俺味方誰もいない危機的状況なのか――――!?」
 綺麗な四の字固めを極められている中、明らかに家族愛とは違う涙を流す自分。
 そして、ふと気がつく。
 ――ああ、俺は日常に戻ってきたのだ、と。
 いつものように繰り返される喧騒と、いつものように並んでいる笑顔。
 俺の、帰るべき場所。
 ここがあるから、戦っていけた。そして、これからも、――きっと戦っていけるだろう。
 暖かい陽だまりのような、この場所があるなら、俺はこれからも間違えずに進んでいける、という確信が湧き上がった。
 そんなことを、思っていると。
 「あ、あははははははっ! シロウったら、その格好……はははははっ」
 リリィの突き抜けるような笑い声が、聞こえた。
 俺は四の字固めを極められている姿勢のまま、凛と顔を見合わせた。
 凛は肩を竦める。
 ――これで、よかったんじゃない?
 そう言ってる様な目だった。
 うん。俺もそうだと思う。
 彼女の姉は助けることは出来なかったけれども、妹はこうして暖かい日差しの中で笑っている。
 それが、贖罪になるとは思わないけど。
 この笑顔は、きっと誰にも否定できない、価値あるモノだと思う。
 四の字固めの痛みも忘れ、そんなことに思いを馳せていると。
 「――士郎」
 「うん?」
 「あの子、誰?」
 藤ねぇの疑問が放たれた。
 「あ」
 ――すっかり、忘れてた……。
 あの子、リリィのこれからの処遇、そして藤ねぇや桜に対する弁解を……。
 どうしようか、と迷い、凛の方を見ると。
 桜と顔を合わせ、二人とも肩を竦めていた。
 何だ……?
 その様子に嫌な予感を感じている中、リリィは突如真面目な顔をして、こちらに一礼して
 「私、衛宮切嗣の娘のリリィスフィールです。今日から、この家でお世話になります。――よろしくね、お兄ちゃん」
 「――ふぇ?」
 そんな、爆弾発言をした。

 日々は穏やかに流れていく。
 リリィは魔術師のことやアインツベルンの事は隠しながらも、親父の娘だということは決して隠さなかった。
 そんなものだから、藤ねぇと桜――特に藤ねぇはショックを受け。
 「切嗣さんの、甲斐性アンド節操なしーーーーー!!」
 と暴れまくったのは、自明の理と言えるだろう。
 俺と凛の方も、流石にこのままアインツベルンへ返すわけにはいかないという結論に到った。サーヴァント無しとは言え、聖杯戦争前に敗北したリリィをタダではすまさないだろうと思われるからだ。
 そんな経緯もあり、本人のたっての希望もあって、彼女はここに居候させることに決定されたのである。
 その際、藤ねぇが藤村家に来ないか、と提言したのだが。
 「気持ちは嬉しいけど、私は此処がいいの――お父さんの、この家が」
 と突っぱねたのだ。こう言われては、流石の藤ねぇも強く言うことは出来ず、しぶしぶリリィの意向に従った。
 まぁ、桜もほとんど毎日来ているわけだし、過剰な心配は要らないだろうと思う。
 そんなわけで、ドタバタと騒がしい二日が過ぎた今日。
 俺達は遅めの昼食を摂っていた。
 「――え? それじゃあ、アインツベルンはもう聖杯戦争をしないっていうの!?」
 「そうよ。大聖杯の汚染が酷くて、まともな聖杯が出来上がらないっていうのがアインツベルンの見解」
 「……どうして君達は食事中に、そんな不穏な会話をするかなぁ?」
 俺の忠告も虚しく、三人はカチャカチャと箸を動かしながらも会話を続ける。
 「それじゃあ、もうあんな戦いは起きないってことですよね? だって賞品が無いんですから」
 「残念だけど、サクラ。聖杯戦争自体は起きるわ。何せ、そんな状態にも関らず大聖杯は起動しているから。あと、賞品が無いっていうわけでもないわ。腐っても聖杯だからね。きっと喉から手が出るくらい欲しがるヤツは山ほどいると思う。……まともな聖杯が手に入らないっていうのにね」
 全く、困ったものだわ、とリリィは嘆息する。
 「……アインツベルンが参加しないって事は、降霊のための触媒はどうなるのよ? 確かアインツベルン製のモノが必要だったんじゃなかったかしら?」
 「別にアインツベルン製じゃなくても構わないけどね。実際レプリカは、この町の教会にあるはずだし。それに――これは私の憶測だけど、多分今の聖杯には小聖杯(わたし)はもう必要ないと思うの。それぐらい、歪んじゃってる」
 「ってことは、私達の知っている聖杯とは、全く別物に変質しているということか……厄介ね」
 ズズ、と味噌汁をすする凛。物騒な話をしている割には呑気な顔である。豪胆であるというか何というか。
 「もし次の聖杯戦争に参加する気があるなら気をつけることね。恐らく次は既存のルールが通用しない、今までに無いほどの混沌とした聖杯戦争になるはずだから。……お兄ちゃん、おかわり」
 空になった茶碗を差し出すリリィ。――この小さい体のどこにそんなに入るのだか。
 俺は白米を茶碗によそぎつつも話す。
 「でも今、大聖杯を破壊したらこの町が大変なことになっちゃうんだろ? だったらやってやるさ。ほれ、リリィ」
 「わ、ありがとう。お兄ちゃん」
 嬉しそうに茶碗を手に取り、食事を続けるリリィ。
 ここまで美味そうに食べてくれると、こっちも作った甲斐があるってもんだ。
 そんなことを思い、リリィを見ていると、凛から目配せを受けた。
 ――そろそろ切り出すわよ、と。
 「ねぇ、話は変わるけど――私達、ロンドンでやり残したことあったのよね」
 「――え?」
 キョトンとした表情の桜とリリィ。そして目で何やら催促する凛。
 ……俺からも言えってことか。
 「ああ。――ちょっとばかし野暮用を残していてな。割とすぐに行かなきゃならないんだ。突然でごめんな、桜、リリィ」
 「そういうこと。留守は任せたわよ、二人とも」
 「はぁ。姉さんと先輩がそう言うんでしたら……でも何なんです? やり残したことって?」
 俺は味噌汁の水面を見つめながら、言った。
 「――野暮用だよ。ちょっと厄介な、だけどやらなきゃいけない、野暮用だ」
 濁った水面が、微かに揺れた。

 後片付けを終えて、ゆっくりと縁側でお茶を飲んでいると、横から足音が聞こえた。
 「よぉ、リリィか。お前もお茶飲むか?」
 「――野暮用って、久遠寺アリスに関すること、だよね」
 リリィが俯きがちに、そう言った。
 ……やっぱり気付いたか。
 だから、俺は素直に答えた。
 「――アイツは何か、とんでもない事を考えてる。だったら、止めないと」
 「それがどんなに危険なことでも?」
 「ああ」
 「例え、命を落とすような場合があるとしても?」
 「ああ」
 「それは――正義の味方だから?」
 リリィは俯きから顔を上げ、しっかりと俺の目を見ながらそう言った。
 俺はそれを、キチンと受け止めてやるべきだと思い、見つめてくる瞳を見つめ返す。
 「そうだ。……だけどそれ以上に、アイツは止めなきゃいけないと思う。だから、行く」
 目的を間違えてはならない。
 俺が正義の味方だから久遠寺アリスを止めるのではなく。
 俺が久遠寺アリスを許せないからこそ、正義の味方足りえるのだと、そう思う。
 正義の味方はあくまで結果に過ぎない。
 自身が生きた、その先に――正義の味方が待っている。
 目標と過程を挿げ替えてはならないのだ。
 正義の味方になりたい≠ニいう感情を忘れてしまったら、それは単なる殺戮する怪物なのだから。
 「――うん。そう言える士郎なら間違えることは無いわ。胸を張っていってらっしゃい。……でも」
 リリィは何かを堪えるような笑顔を浮かべ。
 「でも、ちゃんと帰ってきてくれないと、嫌だよ?」
 どこか悲しげに、そう言った。
 刹那、光景が微かに脳裏を過ぎった。
 ――それは、俺と遠くて近しい男が、かつて守れなかった約束。
 残滓に残った限りない悔恨の空。
 ああ、なら。
 お前が、それを後悔しているなら。
 俺は忘れないように、この約束を――
 「ああ。約束する。俺は絶対に、ここに帰ってくるよ」
 胸に、刻もう。
 「うん。約束」
 リリィは笑顔を浮かべ。
 差し出した、俺の指と、彼女の小さな指と絡ませた――

 「士郎ー。そろそろ行くわよー」
 「ああ。そうだな」
 晴れ渡る快晴の空の下、凛と士郎の旅立ちを告げる声が響いた。
 衛宮家の正門の前、荷物を持った二人とソレを見送る人々が、勢揃いしていた。
 「先輩、姉さん。気をつけてくださいね。こっちは任せといてください」
 「健康には気をつけるのよ、士郎も遠坂さんも。あ、お土産忘れないよーに」
 「ちゃっちゃっと済ませて、早く帰ってきてね。お兄ちゃん、リン。この家は私が守っといてあげるから」
 見送る人、それぞれの声を旅立つ二人にかける。
 「ああ。よろしくな、皆。なるべく早く帰ってくるようにするから」
 「桜、リリィ。色々任せたわよ。コイツはこう言ってるけど、帰れるのがいつになるのかは分からないんだから」
 「おい、行くなら行くぞ。キリが無いだろうが……というか僕最後までパシリかよっ」
 慎二の叫びを無視し、二人は車に乗ろうと歩き出す。
 凛が乗り込み、士郎が続いて乗り込もうと、ドアに手をかけたとき。
 「お兄ちゃん、リン」
 リリィの呼ぶ声が響いた。
 二人が振り向くと、皆の笑顔があった。
 皆から放たれるは、旅立ちの声。

 「――いってらっしゃい」

 三つの声が重なって、空の下に響く。
 それは紛れも無く、此処が帰るべき場所だという証明だ。
 士郎と凛は顔を見合わせ頷くと。
 「いってきます!!」
 同時。笑顔で、そう告げた。
 帰ってこれる場所と、その約束を胸に。
 少年は旅立ちの空の下へと、その一歩を踏み出した。


 二人が出発した後も、私はしばらく立ったままだった。
 「リリィさん、家に入らないんですか? 風邪引いてしまいますよ」
 サクラの声が後ろから聞こえる。
 それに私は笑顔で答える。
 「大丈夫。――もうちょっと私、ここにいるわ」
 サクラは頷くと、家の中へ入っていく。
 私はソレを見送り、二人が旅立った方向に顔を向ける。
 
 ――そこに、一つの幻が見えた。

 「……お姉ちゃん」
 秋の終わりを告げる寒風の中、陽炎が揺らいでいる。
 姉の形をした陽炎は、何も言わず、何もせず。ただそこに在った。
 私は告げる。
 「私、決めたんだ。――シロウを、私のお兄ちゃんを見届けるって。お父さんの、この家で」
 正義の味方でありたいと願った父。
 その想いを名前と共に受け継いだ息子。
 彼が本当に正義の味方なのか。本当にお父さんを越えることが出来るのか。
 それを真の意味で見届けることが出来るのは。
 ――父が、正義の味方であって欲しいと願った自分だと、そう思う。強く。
 約束だと絡ませた、自分の小さな小指を見つめる。
 「私は、見届けたい。この約束の、行き着く先を」
 決意の言葉を口にする。
 この約束を守られることが私の願いなのだと。
 陽炎に告げた。
 ザァ、と風が吹く。
 瞬きの瞬間に、幻は消えていた。
 消える刹那、笑っていたような、そんな錯覚を残して。
 だから、ではないけれど。
 私も笑みを浮かべた。
 あれが単なる幻だとしても、決意を言葉にしたのは、決して無駄ではないから。
 私は空を仰ぐ。
 広がるのは、空。
 青に染めた視界を、忘れぬように心に刻む。
 さぁ、ここから始めよう。
 ――夢の、旅路を。
 旅立ちの青に、そう誓って。
 私は一歩を踏み出した。


 ――――『剣戟音響』 了

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