――深い闇の中に、浮かんでいる。
広がる虚無感。現実感の欠いた感覚。夢幻にしか思えない、黒いセカイ。ならば此処は地獄へと通ずる賽の河原か。
(そうか、俺は――死んだのか)
走る一筋の閃光。
上がる己の血飛沫。
消えいく意識。
自分を呼ぶ、誰かの声。
スローモーションで再生されていく映像を、酷く冷めた感覚で見つめていく。
冷めた、否。感覚から冷めていく。
あのとき感じた、生きたい≠ニいう
凍結の果て、死という絶対零度へと感覚が走っていく。
士郎はそのことに、何の感慨も湧かなかった。
感覚だけではなく思考も閉じられようとしている。
つまり、魂の死。自我の消失。
――これが、本当の死か。
冷めていく意識の中、士郎は思った。抗う気力も足掻く意識も、既に希薄。ならば、あとは消え行くだけ。
思い出しては消え、思い出しては消え。
輝かしいと思えた記憶も。
暖かいと思えた記憶も。
忘れえてはならない決意の記憶も。
そして、決して忘れてはならなかったはずの、大事な人の笑顔すらも――
『お前は本当にそれでいいのか?』
声が聞こえた。
絶対なる闇の深遠。生の彼岸の最果てに、在りえざる幻が見える。
事実、それは幻だろう。そう士郎は認識した。せざるを得なかった。
一つの幻想。一つの結末。揺らぐ陽炎。手の届かないユメ。
それは、赤い外套をはためかせ、唯一無二の存在として衛宮士郎の前に立っている。
白髪の、黒い肌を持つ青年が、もう一度、問う。
まるで衛宮士郎を蔑むように。まるで自嘲するように。
『お前は、それで、いいのか?』
問いは打撃。短いが、されど重い打撃が、士郎を穿つ。
――それでいいのか、だって……?
ドクン、と体に火が灯る。
結局、このまま。
ドクン、と体に火が灯る。
何も出来ず、何も残せず。
ドクン、と体に火が灯る。
大切な人も、皆守れず。自分の信念すら貫き通せず。
ドクン、と体に火が灯る。
このまま、朽ち果てていいのか――――!?
灯った火は莫大な熱となって、衛宮士郎の体を駆け巡る――
「いい、はずねぇだろぉぉおおおおおお!!」
5/
■『正義の味方』
「っ士郎ーーーーーーーっっ!!」
凛の絶叫が、蒼空の下、かつてのアインツベルン城に響く。
凛の視界に映るのは、血を撒き散らしながら階段から落下する衛宮士郎の姿。
階上に佇むのは、城の王であるが如く見下ろしているリヒャルト・フォン・アインツベルンだ。
「――っ」
その威圧感に、凛は駆け出した足を、思わず止めた。
魔術師の本能。それが凛に警戒をもたらした。
リヒャルトは一振り、日本刀に付いた士郎の血を振り落とした。
地に展開した魔法陣と、右に握られている刀身に描かれた魔法文字。
――日本刀?
凛はそのことに微かな疑問を抱きつつ。
だん、と背中から派手に落下した士郎の元に駆け寄ろうとする。
「士郎……!」
凛は一見、士郎の体を見る。
体中に穿たれた、数えるのも億劫なほどの打ち身。特に両腕――特に前腕から手の甲にかけて――は酷い。両方共に前腕の筋繊維は幾本か断線している。あれでは骨も砕けているかもしれない。確実に砕けているだろうと思われるのは両掌だろう。筋肉は千切れ、指の骨も五指、ほぼ全てに罅が入っている。何本かは折れているかもしれない。あれでは握ることすらままならないだろう。レイ・ラインから感じる、あまり減っていない魔力量だけが唯一の救いだろうか。だが治癒魔術を習得していない士郎では大した意味を持たない。
何よりも酷いのが、斬撃痕。鮮やかな切り口から、夥しい血液が流れている。――あれでは命に関るだろう。
感じる警戒を押し殺し、士郎へと駆け出す。
だが。
それら全ての警戒が警鐘となって、凛の脳内を揺さぶった。
地を蹴る。士郎に対して直角の方向に身を跳ばす。
ざん、とまるで振り子の刃が通ったように、地面が抉れた。
(これは、カマイタチ? 風≠ゥ――!)
それを放った術者――リリィスフィール・フォン・アインツベルンの姿が、階下に見える。
(手出しは、させないってことね……!)
凛はコートの内側から宝石を取り出す。
「くそっ!」
魔力の渦が風となり、リリィから放たれる。瓦礫を蹴散らしながら、暴風が凛に迫る。
「
凛が空に放り投げた宝石が蒼い光と共に魔力が迸り、リリィが放った破壊の風と衝突しコンフリクトする。
閃光と爆音。
暴風と魔力塊が相殺、消滅した。
「くっ――!」
衝撃に思わず身が縮こまる。
視界は残光と爆発煙で、あまり良好とは言い難い。
その中。
嫌な予感がして、凛は足を踏み出し、横に跳んだ。
三つ、風の斬撃が地面を抉りながら一直線に走った。
飛び散った飛礫を足に感じながら、凛は思う。
(この速さ、
聖杯として生まれたイリヤスフィール、リリィスフィールは生まれつき魔術を習得している。生まれてから魔術を習得したのではなく、生まれたとき既に専用のシステムとして体系化していた。
そのシステム――彼女の魔術は
こと魔術のスピード勝負ならば随一と言える。確かに、凛は宝石さえあれば、
(長引くと不利ってわけね……私にとっても士郎にとっても)
士郎の怪我は間違いなく致命傷だ。一般人なら即死級、魔術師でよくて重傷。駆け寄って縋りたいのはやまやまだが、それでは何の解決にもならないことを遠坂凛は知っている。
――なら、為すべきことは一つだ。
だ、と力強く足を踏み込む。
魔力を指先に集中させる。生成されたガンドを拳銃ほどの速度で撃ち出す。
勿論、その程度の魔術はリリィの一睨みで発生した魔力壁によって消滅を余儀なくされた。それどころか更なる風の追撃が凛を襲う。
凛はそれをサイドステップで回避する。
(一つ……!)
その体勢のまま、間髪入れずに宝石を投げ打つ。バイオレットの色彩そのままに、リリィの撃ち抜こうと――――
相殺。腕を掲げる動作だけで、凛の宝石魔術は跡形も無く消滅した。
(二つ……!)
その僅かな動作の間隙を縫い、リリィの後方へと回り込む。
身体能力ではリリィと凛の間には差がある。純粋な立ち回りにおいて、天秤は凛のほうへと傾く。
そのまま魔力を込めた拳を手加減無く打ち込む。
だが、鈍い音共に魔力によって発生した壁によって遮られる。
バックステップ。
ドン、とリリィの撃ちだした風が、足元の瓦礫を打ち砕く。
(っと――――三つ!)
「この……うろちょろと……!」
ステップを用いて翻弄する凛にリリィは幾らかイラつきを覚えた。手に力が入り、それに同調するように魔力が収束していく。
右と左の掌間。その中空の一点にリリィが発生させた暴風が収束していく。
瞬間、白光が凛の視界を染めた。
「――!?」
発生した風が恐ろしいほどの速度で圧縮されていった結果だ。風は凝縮されることで熱を持つ。それを凄まじい圧縮率で行うことにより、風は高熱の塊となる。原子をイオンと電子に分解した電離状態――人はそれをプラズマ≠ニ呼んだ。
あらゆる物質を融解させるほどの熱量。その余波で凛の肌は焼かれるのを感じる。
(じょ、冗談……! あんなの受けきれるわけないじゃない……!!)
何のバックアップも無しにプラズマを生み出すなんて規格外にも程がある。流石はアインツベルンの聖杯か、と冷や汗と共に凛は感嘆を漏らす。
「これで、終わり」
リリィは何の表情を見せないまま、その手からプラズマを放った。
轟、と周囲の風を巻き込み、コンクリートの瓦礫を融解させながら、摂氏一万度の高温が凛を襲う。紙一重で避けたとしても、膨大な熱量の余波からは、どう足掻いても逃れられない。
熱の余波を感じながら、凛はコートから一つの宝石を取り出す。
(一か八か、ね……)
握りこんだ宝石を「
パチ、と電気が走ったかと思うと、瞬間。
――爆煙と耳を劈く音が空間を満たした。
「――――!? え、何が…」
驚く声はリリィのものだ。見るとプラズマは姿を消し、空気が拡散しているのが分かる。
(プラズマが、無効化された……!?)
先ほどの宝石――あれは電離状態を乱すための触媒だ。プラズマとは原子が陽イオンと電子に電離されている、固体でも液体でも気体でもない、第四の物質形態。つまるところ、風を圧縮することによって発生する熱により電離状態を維持しているわけである。ここで肝になるのは風の圧縮率。風を一点に収束させ続けることによって、プラズマ状態を維持している。
ならば、その風を収束を乱し圧縮率を下げることにより、プラズマが消滅するのは道理であろう。
この場合、どの程度風の収束を乱すことが出来るのかが、問題になってくる。電離状態になる境界の収束率……それを下回らなければプラズマは解放されず、凛は融解死していたところだろう。
凛は、賭けに勝ったということだ。
対してリリィは拡散した風によって思わず目を閉じてしまい、僅か四半秒であるが――リリィは凛を見失ってしまった。
「四つ目……私の勝ち、ね」
目を開けて、視界が現れるより先に、遠坂凛の勝利宣言を耳が捉えた。
リリィを中心に、菱形上に宝石が瓦礫に混じって配置されていた。
パチン、と凛の指鳴りを合図に、一斉にそれらが光を放つ。
ご、と赤光が空間に宿り、とある魔術が起動する。
地に描かれた魔法陣は――『捕縛』の効果を持つ魔術文字で構成されていた。
魔法陣から発せられる魔力によって、リリィスフィールは雁字搦めにされ、その動きは封じられる。
「く……年代モノの宝石を四つも使用、か。随分と大盤振る舞いね、トオサカリン」
「士郎を助けるためだもの。出し惜しみをしている場合ではないわ」
踵を返し、士郎の元へと駆け出そうとする。
が。
「――――っ!!」
その足は、巨大な氷柱の落撃によって止められた。
見上げれば、リヒャルトが刀の切っ先をこちらに向け哂っていた。
「流石、『遠坂』の血筋……シュバインオーグの系譜だけはある。だが、この状況を何とかできるなど、思い上がりも甚だしくはないかね?」
「残念。私は、少し諦めが悪いのよ……!」
残る宝石は五つ。内二つが年代物の切り札で、後は神秘の度合いが薄い物ばかり。――この手持ちでリヒャルト・フォン・アインツベルンを倒さなくてはならない。
(厳しいけど、相手はあのキザったらしい男だけ。何とかなるはず……)
視界を僅かに横にずらす。映るのは血溜まりに伏せている士郎と、崩れ落ちた姿勢のまま何の反応も見せないホムンクルス――衛宮切嗣だ。
首筋に突き立った短刀――
(弟子のアイツがやるべき事を果たしたのに、師匠の私がやらなくてどうするのよ……!)
決意の元に振り向き、そしてリヒャルトに向けてガンドを放った。
対するリヒャルトは避けようともせず、ただ嘲笑を浮かべているだけ。
ご、と散弾銃のようなソレは、リヒャルトを撃ち抜こうとして。
――遥か、後方の壁を打ち貫いていた。
「!?」
(かわされた……? いや、違う。これは――流動の結界=Aか)
リヒャルトの足元で展開している五芒陣、あれを境にして
アインツベルンの魔術特性は『力の流動、転移』だと聞く。ならば、魔術を逸らす結界の構築も難しくは無いだろう。何しろ同じ特性を持つ私が出来るといっているのだから間違いない、と凛は思った。
コートの内ポケット一つ、宝石を取り出す。虎の子の切り札、二つのうちの一つだ。
(まずは、あの結界を破壊する。次の一手で、ありったけの宝石を使って仕留める……)
狙うのは結界の端。あの魔術は本人に付加されるタイプではなく、一定の空間に働いているタイプだ。その基点となっているのは床に描かれた五芒陣。それさえ崩せば魔術は崩壊する。結界は境界線。それを越えなければ、流動≠ヘ働かない。ならば、、その外から衝撃を与えれば――崩すことは簡単だ。
「――
魔力の渦が螺旋となり、一つの点を穿つために収束していく。
だが、それを見て、猶リヒャルトは笑った。切っ先をこちらに向け
「それが」
刀身に魔術文字を走らせながら、言った。
風が渦巻き、まるで竜巻のよう。
「思い上がりだと言うのだ! 遠坂凛!!」
凛とリヒャルトを結ぶ階下と階上の直線、その中間に。
――巨大な氷柱が顕現した。
凛が放った宝石魔術が氷柱内に閉じ込められる。
「なっ……こんな大それた魔術を
す、と切っ先を下ろしたと同時に、氷柱に亀裂が入り、割れた。
リヒャルトが厭らしい笑いで告げた。
「そこで転がっている士郎君が
――つまりは、彼の思い通りに事は動いていたということか。
士郎と切嗣を戦わせ、疲弊したところを二人を一気に叩く。全体から見ればそれだけの、単純な戦略。
だが、幾つにも張り巡らせた巧妙な策略が、それを死角とさせた。
(それも想像の内だったけどね……まさか、ここまでやるとは。だけど相手は一人なら、まだ――)
出し抜くことは出来る。凛が、そう思ったとき。
リヒャルトが残酷な、宣告を一つ告げた。
「おい、リリィ。いつまでそうしている。いい加減こちらを手伝え」
まさか、と凛が振り向き、見えた光景は。
凛が仕掛けた渾身の捕縛魔術が、ガラスが砕けるような音と共に崩壊したというものだった。
「魔術師にしては、なかなかの拘束力だったわ。だから、今まで時間がかかったのだけれど――私には通用しない」
――まさか、あの拘束を抜けてくるとは。
とっておきの宝石を四つも使用したのにも関らず、いとも簡単に解呪されてしまったことに、凛は戦慄を覚えた。
次いで襲い来るのは絶望。冷や汗が流れる。
(これは……流石にヤバイかもね)
手持ち少ない宝石。十年単位の宝石四つをものともしないリリィスフィール。完全な臨戦態勢のリヒャルト。援軍は求められない郊外の森。――倒れている、瀕死の衛宮士郎。
魔術師でなくとも、直感が死を警告するだろう。
……逃げるか。
凛は思わず逃走を思考した。ただ逃げるだけなら、手持ちだけでも何とかなるかもしれない。だけどそれは――
「衛宮士郎を置いて、逃げるか? ああ、それなら逃げることも許そう。元々我々が一番殺したいのは裏切り者の息子だからな。……君はそのおまけに過ぎない。ここで逃げ出すようなやつに、次回の聖杯戦争で生き残れるとは思えない」
(言ってくれるわね……)
凛は決意する。
そう、士郎を置いて逃げるなんていう選択肢は最初から彼女には無かった。そのことに気付き、だがそれでは恐らく状況は打開できまい、と思う。
このままでは、間違いなく衛宮士郎と遠坂凛は死亡する。
嫌だ、と思考しても現実は無情だ。生還の確率は恐ろしく低い。
死。死が、迫る。それはジリジリとにじり寄って来る。まるで密室で壁が迫ってくるように。
死が迫る。
死が迫る。
死で、圧死する。
――嫌だ。
今、思考を占めるのは死への嫌悪感。
――嫌だ。
このまま死ぬこと。それは彼≠ニの約束を何も果たせないことを意味する。
――嫌だ。
だから思うのは。
――士郎が死んじゃうなんて、嫌だ――――!
「士郎ーーーーーーーーーーー!」
その叫び声に共鳴するように、誰かの立ち上がる音が聞こえた。
◇
――終わった、と私は思った。
自らを拘束していた渾身の魔術を打ち破られ、二対一の状況。リヒャルトが、あの戦闘態勢に入ってしまえば私ですら、打倒は怪しい。
これで詰みだ。
宝具の投影なんて規格外の魔術を使う衛宮士郎と違い、遠坂凛は才能こそ溢れているが、所詮は魔術師。真っ当な魔術師が聖杯の具現たる私に敵うはずが無い。相性の問題だ。魔術を使う者として既にシステムとして体現している私と、魔術回路をわざわざスイッチさせる必要がある人間とでは話にならない。一個の生命種として格というものが違うのだ。私が負ける道理は無い。
唯一、私を出し抜けるとするならば――
ちらり、と衛宮士郎を見る。
恐らく、彼だけだろう。宝具なんて想定外の代物を投影出来る彼のみが、唯一脅威だ。
衛宮士郎。
体は打ち身だらけ。腕の筋繊維は千切れ、骨すらも砕け、今血溜りに倒れている。――あれでは立ち上がることは、もう出来ないだろう。
すぐに何らかの処置を施せば、息を吹き返すかもしれないが、そんなのを遠坂凛に許すほど私は寛容じゃない。
「――っ」
でも、何故か、自分でも分からないシコリのようなものが胸の内に残っているのを感じた。
……私は彼を殺したくないと思っているのか。
いや、そんなはずは無い。
そもそも私は彼を殺しに、こんな極東の地まで来たのだ。必要性が無いのに、わざわざこんな所に来るほど、私は酔狂ではない。
――じゃ、何か理由があったんじゃない?
内なる声が聞こえる。声は陽炎となり、次第にその輪郭ははっきり映し出していく。
それは、此処で亡くなったと聞かされた、姉の姿によく似ていた。
亡霊が、今更私に何の用事があるというのか。
――亡霊とは言ってくれるわね。感動の再会に涙の一つもないの?
景色が傾いで揺らいでいる境界で、一つの幻が私に語りかける。
――もう一度言うわ。アナタが此処にいる理由は何?
それは衛宮士郎を殺すために。
――違う。そんな理由ならば、此処に居るのはアナタでなくてもいいのよ?
ならば、私が衛宮士郎を憎んでいるから。
――それも違う。アナタが衛宮士郎を憎む理由が無い。私はそうだったけど、アナタはそうでなかった。だから前回の聖杯戦争では私がアインツベルンの代表としてマスターに選ばれた。
――――
――答えられない? そんなことはないはずよ。私はアナタの夢の残滓、一つの陽炎。だから知っている。そう、アナタはただ、答えが知りたかっただけ。
――ああ、それなら僕は救われるのかもしれない
――自分を偽ろうとしないで。あなたが望むのは、衛宮士郎の死ではなく、衛宮士郎が受け継いだ『答え』のはずよ。
そう私は理解していたはず。
父親が何故
だが、ここで彼が死んでしまえば、それは永遠にわからくなってしまう。
それが心の膿、しこりの正体。
だけどどうする? 直接問いただすというのか。衛宮士郎が私の父親が切嗣であると知らぬままに。リヒャルトも居る。そんな場違いな行為を行えば、下手をすれば裏切り行為と見なされ処刑される危険性すらある。何より――
――怖いの? 衛宮士郎がそのことについて答えられないことが。……お父さんが、本当に私達を裏切っていたという、真実かもしれない答えを聞くことが。
切嗣が、本当に私達を裏切る意味で、聖杯を破壊していたならば。
最後まで彼を信じていた母親は。
お父さんは、裏切ってなんかいないのよ。だから、どうか恨まないで――――
誰よりも何よりも、酷い裏切りを受けて、死んでいったことになる。
そのことが何より怖い。
私が切嗣の娘だと理解した上で、彼がアインツベルンを否定していたという事実を、彼の息子から突きつけられるのが怖くて仕方ない。
――子供なのね。
うるさい。
そんなことは分かっている。
分かっているけど――
うん、しょうがないから。私がお父さんを正義の味方にしてあげる
どうしても、受け入れがたい事実は、存在する。
私は今でもお父さんは正義の味方だったと信じているから。
――大丈夫だよ。リリィ。
目の前の姉は、ニッコリと笑った。
それはかつての幸せだったころの笑顔そのもの。憎しみに囚われず、私達家族が歪み始める前の純真無垢な笑顔。
す、と姉はどこかを指差し。
――誇ろう。私達のお父さんは、ちゃんと正義の味方だったんだって。そのことを、お兄ちゃんが証明してくれるわ。だってシロウは私を救おうとしてくれたんだもの。
さぁ、と風が吹く。
綺麗な笑顔を保ったまま、イリヤの幻は掻き消えた。
「お姉ちゃんっ――――!?」
お姉ちゃんが指差した先。
私がそこに視線を動かすと――
――――死に体で、立ち上がろうとしている衛宮士郎の姿が、見えた。
「え、――」
息も絶え絶え、顔面は蒼白。額は割れて血だらけだ。
両腕の筋繊維が千切れ、骨は軋み、五指は砕け、幾本かは折れてさえいる。
胸の刀傷は相変わらず血が止まらず、今にも出血死してしまいそうだ。
「――何で」
それでも。それでもなお。
立ち上がろうとする。
瞳に決意を宿し、握ることは出来ない拳を握り。
顔面は血だらけ、吐血すらしているその有様で。
それでも彼は立ち上がろうとしていた。
「――何で」
その姿は無様としか言いようが無い。
足は震え、息も絶え絶え。今すぐにでも倒れてしまいそうだ。
仮に立ちあがったところで、その傷では直ぐに返り討ちだ。どう足掻いても、この状況を突破出来るとは、到底考えられない。
彼には絶望しかない。
足掻きは届かず、希望は無い。
それなのに。
どうして、立ち上がることが出来るだろうか。
――だけど、それでも倒れない。
全部知っていると。絶望も死も全て飲み込んで、なお立ち上がろうとしている。
その姿を、どうして無様と笑えるだろうか――――
「何で――!」
そうして、衛宮士郎は倒れることなく、その場に雄雄しく立ちあがった。
象徴である黒白の双剣を投影、手に握り締める、その姿は。
まるで――――
「何で、アナタはそうまでして立ち上がろうとするの!!」
――まるで物語の中に出てくる
「――――『正義の味方』だからだ」
光景が、フラッシュバックした。
私は見たこともない景色。
それは恐らく幻。
一つの在った情景を、幻視する。
ゴォ、と熱風が吹いた。
剣のサーヴァントを携えた切嗣の姿が見える。
炎が舞い、まともな建物は無く、瓦礫しか存在しない。
目の前には、黒い穴が一つ。
天高く泥を撒き散らしながら外に生まれでたいと願い嘶く
――黒い聖杯が其処にあった。
彼の姿は今の彼と同じくボロボロだ。
それでも立ち、まるで聖杯を親の仇が如く睨んでいる。
こんなものを望んでいるわけではなかった、と言いたげな顔で。
そうして一瞬、悲しげな顔をして。
「御免な、皆。僕は、
そう呟き。
聖杯を破壊した。
――ああ、そうか。
お父さんは私達を裏切ったわけじゃないのか。
アインツベルンを裏切った事実には変わらない。それでも
――うん、しょうがないから。私がお父さんを正義の味方にしてあげる――
私の正義の味方は私を裏切らなかったのだ。
リリィの正義の味方であるために。そのためには聖杯を破壊しなければならなくて。でもそれはアインツベルンを裏切ることに他ならなくて。
私とアインツベルン。どっちかを切り捨てなければならないという状況において。
彼は自らの救いを選んだ。
衛宮切嗣は、最後まで『正義の味方』であったのだ。
「っ――――!!」
それが真実だ。
今更知ったところで、何が変わるというわけではない。
だがしかし――
お父さんは、裏切ってなんかいないのよ。だから、どうか恨まないで――――
母親は全てを知っていたのだ。そのことを。彼が最後まで私の『正義の味方』であったことを。
それが真実。
それが答え。
そのことを知って、私はこれからどうするべきなんだろう……。
私が、そのことに辿り付いた時。
「全く以って茶番だ。……下らない。二度と立てないように、その首刎ねてやろう!!」
リヒャルトの死刑宣告が響いた。
◇
リヒャルトは言い様の無いイラつきを覚えていた。
(何故こいつらは、こうまでして私に抗う……)
遠坂凛は、この絶体絶命の状況においても諦めず、今なお戦意を剥き出しにする。
衛宮士郎においては論外だ。
(この男、何故こうまでして私に牙を剥く……!)
リヒャルトは思う。
魔術師にとって死は最も回避すべき事態だ。
誰だって死にたくは無い。だが魔術師のソレは常人あらざる。
自らの研究を以って根源へ到ろうとする彼らは、あらゆる手段を使って死を回避しようとする。
不死を求めるあまり、吸血種という人外にまで身を堕とす者すらいるというのに。
――なのに何故、この男は立ち上がる。
逃げることなど毛頭考えなく、殺したくない¢シ人のために身を削ってリヒャルトを打倒しようとしている。
正に狂気。とても正気の沙汰とは思えない。
その執念が、切嗣を打倒した。
悪寒がリヒャルトを包む。
その正体が、衛宮士郎に対する恐怖からきていることに気付くことなく。
「さぁ来るがいい。衛宮士郎。お前を殺して、アインツベルンは聖杯の奪取を磐石とするのだ!!」
リヒャルトは日本刀を硬く握り締めた。
「士郎! あんた本当に大丈夫なの?」
遠坂凛は、その一部始終を見ていた。
傷つきなお立ち上がる姿は、本当に『正義の味方』のようだ、と思いながら。
士郎は血だらけの顔のまま、振り向く。
「ああ――まぁ何とかな。……それより凛。アイツは俺が相手をするから、リリィスフィールは頼んだ」
「相変わらずアンタは無茶を言うわね……。リリィスフィールには私の宝石魔術が通じないのよ?」
士郎は不敵に笑い。
「それでも頼むよ。――大丈夫さ。アイツは俺の、妹なんだから」
そう言って、駆け出した。
「え――妹?」
凛は思わぬ新事実に目をパチクリさせた。
士郎は駆ける。段上で見下ろしているリヒャルトに向かって一直線に。
「――気付いたか! 衛宮士郎。魔術師の家系が血を受け入れるとはどういうことなのかを!」
そう、血を受け入れ利用するということ。
それは単に協力するという事柄だけに留まらない。
優秀な血と交わり、より魔術師としての格を後世のために高めていく。
魔術師が他家の傘下に下るとはそういうことだ。
そのことを踏まえれば、リリィスフィールと衛宮切嗣とアインツベルンを繋ぐモノが何なのか自ずと見えてくる。
リリィスフィールは衛宮切嗣の娘。
それが回答だ。
士郎は駆けながら、手にした干将・莫耶をリヒャルトに向けて投擲した。
黒と白の閃光がリヒャルトを中心に交差しようとする。
リヒャルトが日本刀に魔力を込める。
コ、と切っ先が床を静かになぞった。
瞬間。
氷柱が突然空間に現れ、双剣を氷の中に閉じ込め、そして閉じ込めた双剣ごと砕かれた。
「無駄だ。この布陣で私が負ける道理は無い」
一定の範囲内に近づくと氷柱の迎撃。もっと近づいても待っているのは力のベクトルを逸らす結界と――日本刀による閃光の斬撃。
――なるほど、よく出来ていると士郎は思う。
何らかの武器を投影して撃ち込んだとしても、氷柱に閉じ込め、それを容易に砕いてしまう。仮にそれを潜り抜けたとして、攻撃を与えたとしても、全て結界によって逸らされてしまい、あの居合い術が来る。攻撃の一瞬の隙をついて。
だが、とも士郎は思った。
(それを為しているのは、全て人の意識……!)
あの魔術――恐らく氷柱は自動的ではない。あくまでリヒャルトが対象を意識しなければ術は発動しない。
――なら。
「
何も無い虚空に弓を番える。瞬間、捩れた矢が黒き弓に番えられた。
「――
一言、そう告げ。
捩れた矢は空気の層を穿孔するように、リヒャルトに一直線に向かう。
「――!」
驚きの息はリヒャルトのモノだ。
士郎はニヤリ、と笑い。
「
「――で、一体アンタはどうするつもりなわけ?」
遠坂凛が髪を掻き揚げ、威圧感たっぷりに言い放った。
これが自身における渾身の魔術を打ち破った者に言うことなのだから、凛の肝は大したものだと言っていいだろう。
「――……」
対するリリィは何も言わない。
それを見て凛は肩を竦めた。
「確かに、ちょっと考えてみればわかるわよね。アナタ、いえ貴方達が士郎に固執する訳。……思えば、イリヤスフィールもそんなところあったわね」
言峰教会からの帰り道。待ち構えていたように、月光の下、佇んでいた聖杯の少女を思い出す。
あれは恐らく、聖杯戦争のためというより、士郎に会うために――殺すために待っていたのだだろう。
その固執の正体。傘下に下った衛宮切嗣のことを思えば、答えを推測するのは簡単だ。
ただ確信するには論拠が薄いわけだが――
「それも今のアナタの反応を見れば、納得できるわね。アナタは衛宮切嗣の娘。――何? 姉妹の仇でも討ちに来たの? 悪いけどそれはお門違いよ。イリヤスフィールが死んだのは彼女自身のせい。……ま、言ってみれば運が悪かっただけよ。あんな出鱈目なサーヴァントが相手なんだから仕方ないと言ったら仕方ないわ」
――運が悪かった? 仕方が無い?
イリヤが殺されたのは、運が悪かったと。回避できなかった、どうしようも無い運命だったと。
ギリ、と奥歯を噛み締める。
言いようの無い怒りが込み上げてくる。
凛の言葉は続く。
「もう一度言うわ……。イリヤが死んだのは、イリヤ自身が弱いせい。彼女自身も彼女のサーヴァントも、お話にならないくらいに弱かったってこと。まだ私のほうが全然強いわ。ま、所詮はホムンクルスってことね。一流の私と比べるまでも無い――」
ご、と凛の言葉を遮るように風が舞い上がった。
リリィはその中心に、暴風を纏うように立ち竦んでいる。
「――何も知らないアナタが、お姉ちゃんのことを自分の独善で語るな!!」
凛は宝石を五指に握り締め。
「そうよ。溜め込んでいるものは全て出してしまいなさい……」
不敵に笑った。
爆煙が士郎とリヒャルトの間を漂う。
双方ともダメージは受けていない。
士郎が放った螺旋剣はリヒャルトまで届かず、中間で爆裂したのだ。
爆裂は煙となって空間を満たす。
その中で、士郎は呟く。
「
ゴァ、と士郎の足元に炎のサークルが描かれる。
士郎は胸に、心臓を上から撫でるように手を添えた。
一つの世界が収束し、一本の刃を形成していく。
ズ、と手を添えた場所から、柄らしきものが引きづり出るように顕現する。
顕現は止まらず、柄、鍔、刃、とその姿を顕していき――
そうして胸の内から無骨な両刃の剣が現界した。
掲げた、その剣の
「――
世界に証明するように、士郎は告げた。
「ちぃっ」
煙で視界を遮られたせいで、リヒャルトに幾ばくかの不安が過ぎる。
だが、と思う。
この爆煙を利用して何らかの攻撃を加えるつもりなのだろう。
不可能だ。
氷柱はともかく、自分の周りを覆っている結界は常に発生している。
士郎の攻撃では破ることは出来ない。
逸らし、斬撃を与えて、それで終わりだ。
右手を左腰に構える。
体勢を低く、重心を下げる。
まだ見えぬ視界を凝視し、力を溜める。
――さぁ、決着だ。衛宮士郎。
ぶぁっと煙が拡散する。
リヒャルトの予想通り――そこには一本の両刃剣を両手に構え、駆けてくる士郎の姿があった。
秒の一瞬、刹那のときを経て。
二人の視線が、交錯した。
凛とリリィ。
士郎とリヒャルト。
二人二対の視線が、それぞれ互いに交錯する。
待ち、世界が望むは一つの音。
決着の時が、訪れる。
――一つの剣戟の音と。
――一つの閃光と爆音が。
蒼空の下、アインツベルンの城に響いた。
.......to be continued
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