*  *  *
Dreams(2)


 「子供の頃、僕は正義の味方に憧れてた」
 冬の森の中、私達を抱きながらお父さんは確かにそんなことを言った。
 聖杯戦争なんてものは、まだ遠かったときのこと。
 まだ私達が人間(ふつう)の家族だったときのこと。
 お父さんが居て、お母さんが居て、お姉ちゃんが居て。
 それは、夢のような日々だったことを覚えている。
 ――例え、どうしようもない別れの日が来ることが確実だとしても。
 確かに私は、幸せだったのだ。
 「ああ、そうだよ。ヒーローというものは期間限定で、大人になると名乗るのが難しくなるんだ。そんなコト、もっと早くに気がつけば良かったのに。全く馬鹿だね、僕は」
 自らを馬鹿だと自嘲する切嗣(ちち)
 ――何故だかそのことに、言いようの無い反感を覚えた。
 何故だろう。正義の味方なんてものに憧れるような私でもないのに。
 多分私にとって、彼はヒーローであって欲しかったのだと思う。
 だってそうでしょう? 子供は父親の格好よい姿を、いつでも夢想しているものなのだから。
 ――だから。
 「うん、しょうがないから。私がお父さんを正義の味方にしてあげる」
 だから、私は彼のことをそうしようと思ったのだ。
 せめて(むすめ)の中だけでも、お父さんは正義の味方であって欲しかったから。
 彼は目を丸くして。
 「――ああ、それなら僕は救われるのかもしれない」
 なんて、どこか遠い目をして呟いた。
 思えば彼は、無意識下で理解していたのかもしれない。
 その終末。この家族ごっこが行き着く先のことを。
 この上なく、どうしようもない終わり方だった。
 彼が何を思ったのかはわからない。
 だけども彼が取った行動は、アインツベルン(わたしたち)を裏切ることそのものに違いなかった。
 妻と子を残して、遠き異国の地において、そのことがどういうことなのか理解した上で。
 彼は聖杯を破壊した。
 偽りの家族は崩壊し、(アイリス)は死に、人姉(イリヤ)は憎悪に身を委ねた。
 それで、(リリィ)はどうだったかというと。
 ――ただ理由を知りたかった。
 救われると。
 確かにあの時呟いたのだ。
 彼が私の中だけでも正義の味方であったならば、それだけで救われると。
 お父さんはそう言った。
 だから私達を裏切ったことが、どうしても腑に落ちなかったのだ。
 自らの救いすら放棄して、何故聖杯を破壊したのか。
 そのことが、ずっとわからなかった。
 彼に聖杯を破壊して、何のメリットがあるというのだろう。
 破壊された聖杯は、一帯を焼き煉獄へと変えた。
 そんなことを、彼が望む筈が無い。
 偽りとはいえ家族として傍にいた私は、そのことを誰よりも理解していたつもりだ。
 母は死に際、ただ一言だけ私に告げた。
 お父さんは、裏切ってなんかいないのよ。だから、どうか恨まないで――――
 その言葉を聞いたのは、私だけだった。
 姉は既に次回の聖杯として、次々回の保険である私とは隔離されていた。
 私は余計に分からなくなっていた。
 本人に聞こうにも、遠き海の彼方。
 私はただ想像するしかない。
 ――そして彼が結局その地で死に、彼の息子が居ると聞いたとき。
 憎しみでも嫉妬でもなく、ただ羨ましいと、それだけを思った。
 切嗣によって救われた彼ならば、恐らく理由を知っているだろうと。
 それを考えたとき、私は無性に彼に会ってみたくなった。
 姉のように憎悪を持つことは無く、ただそれだけを――――

 そう、私はただ、知りたいだけなのだ。


3/
 ■抗いの問い


 今でも鮮明に思い出す。あの赤い丘の風景を。

 ソイツは走り続けた。その身を理想と現実の摩擦に焼かれながら。
 体から剥がれ落ちるものなんて無視して、ひたすらに人々を救っていった。
 それが間違っているとか、歪んでいるとか、そんなことを考える余裕も無かった。
 ソイツにはソレしかなかったから。一度空っぽになった体に残った幻想を追い続けるしかなかった。
 走るしかなかった。例え間違いでも、愚直に突き進むしかなかったのだ。
 その結果が、あの夢。
 救ったはずの人間に裏切られ、それでも救いたい≠ニ願って、命を落とした。
 ――馬鹿げている。
 あまりの馬鹿さ加減に腹が立つ。
 たった一人。
 誰かが言ってやれば良かったのだ。はっきりと、目の前で。
 お前は間違っていると。自らに何も返らない行為は何の意味も持たないと。
 ――そんな在りかたでは、いずれ破綻するということを。
 だから私が、何とかしてやろうと思ったのだ。
 報われない、その人生を。
 せめて意義あるものものにしてあげたかった。
 たった一つでもいい。彼が救われたという証明を立てられるように。
 そのためには終始監視していないと駄目なのだ。
 あの馬鹿は放っておいたら、一人で勝手に進んでしまう。
 己の身など省みず、ただ愚直なまでに突き進む。
 ――そんなのは私が許さない。
 彼が救われたという証明を打ち立てるまで、私はアイツの側に居続ける。
 ロンドンで掴みそうになった答えを、私は待っている。
 そう、だから私の選択肢など決まっているのだ。
 彼がこれから、どんな道を取ろうと。
 私はそれに着いていくだけなのだから。

 「いててててっ! 凛! もう少し優しく……」
 「何軟弱なこと言ってるのよ! 少しは我慢しなさい。男の子なんだから」
 言いながら凛は包帯をぐるぐる巻いていく。
 その表情は不機嫌そのものだ。
 痛みを誤魔化すために、士郎は視線を泳がす。
 その先にあるのは、素人目から見ても高級そのものといえる調度品の数々だ。
 テーブルから食器、自分が腰掛けているソファーもそれなりに値が張る物だろう。
 とはいえ、この光景を衛宮士郎は見慣れていた。
 ここは深山町の坂の上にある洋館。遠坂凛の住居でもある。
 学生時代は結構な入り浸り具合だったので、見慣れているのも当然であった。
 凛と共にロンドンへ行っていた二年で埃っぽくなっているだろうという士郎の予想は、桜が一週間に一度清掃していたという事実に打ちのめされた。
 ゴミどころか埃すらないという徹底振りに、桜の掃除に対する技能の高さが垣間見えると同時に、凛がまた無茶な注文を要求していたのか不安になるほどである。
 (凛は容赦がないからな……。もしかするとマジで何か言いつけたのかも)
 士郎が痛みを忘れ、考え事に集中していると。
 「はい、これでお仕舞い!」
 「っっっっ――――!!」
 凛が終了の合図か、背中を小気味良い音を立てて一打ちした。
 もちろん衝撃で痛みが倍加したのは言うまでも無い。
 「おいおい、終わりの合図にしては辛味すぎるぞ……」
 「ふん。私の知らないところで、ドンパチするからこういうことになるのよ」
 「……それは少々理不尽すぎないか?」
 抗議しながら、背中を摩る。
 銃弾が貫通した左肩は、全く動かせないというわけではないが、動かすには激痛を伴う。
 とてもじゃないが戦闘は出来ないだろう。
 そのことに士郎は嘆息しつつ。
 「で、どういうことか説明してくれる? そのために慎二を追い返したんだから、たっぷりと聞かせてくれるわよね?」
 怒気を含んだ凛の言葉にどう対応するべきか考え込んだ。 


 「ふぅん……。本物の聖杯は健在で、聖杯戦争が止まったわけじゃない。そしてアインツベルンが次の戦争に勝利するために、前回の勝者である私達を狙ってきた……か。おまけに衛宮切嗣っていう、とっておきの爆弾を抱えて」
 凛は士郎からの情報を掻い摘んで整理した。
 士郎はタイミングの良い凛の介入を、良いことなのか悪いことなのか考えていた。
 彼が切嗣と闘っている時、凛は帰りが遅くなることを見越して、慎二と共に迎えに行く最中だった。
 士郎と凛に繋がっているレイ・ライン。それが凛に士郎が戦闘中だということを教えたのである。
 士郎が身を以って体験した慎二の運転技術をフルに用い、冬の城へと直行したのだった。
 紙一重で命が繋がったのは、そのおかげだ。
 そのせいで間桐慎二の車が、幾らか破損したのは言うまでも無いことだろう。
 (……泣いてたなー慎二のヤツ。まぁ凛に無理やり付き合わされた上に、車が壊された挙句『あんた邪魔だから、とっとと帰りなさい』とか言われたら仕方が無いといえば仕方が無いか。……後で何か奢ってやろう)
 静かにそう誓う士郎に、突然凛が指を突きつけてきた。
 「で、アナタはどうして、とっとと逃げようとしなかったの? 今のアナタなら敵の力量を把握することくらいは出来るはずよ。……三人もの敵をどうにか出来るとでも思ったわけ?」
 ――どうにか出来るではない。どうにかしようと思ったのだ。
 士郎は心の中でそう呟いた。
 敵わないのは理解していた。
 切嗣の戦闘能力も強大だ。リリィスフィール、リヒャルトの両名にしても、アインツベルンの魔術師である以上生半可な実力ではないだろう。
 だけど。それを何とかしてこその正義の味方ではないのだろうか。
 日常に非日常を巻き込むわけにはいかない。
 それ即ち、平和を乱すことに繋がる。
 藤ねぇや桜、そして凛を危険な目に合わせるわけにはいかない。
 士郎がそう考え、しかし事実を言うわけにはいかず、何か別の言い訳をしようと口を開きかけたとき。
 それを制すように凛が先に言葉を発した。
 「――はぁ。全くアンタってヤツは、どうして『そう』なのかしら。藤村先生や桜を巻き込みたくないっていうのはわかるけどね。私まで含めなくてもいいでしょ。
 ……次、同じことしたら、今度こそ許さないんだから」
 怒気を含んだ、だけど悲しげな瞳で士郎を見つめた。
 そのことに頷くべきかどうか、士郎はわからず、ただ苦笑した。
 彼女の気持ちを知っている。だが、その近さ故に余計にどうすればいいかわからなくなる。
 (全く、馬鹿は一生治らない、か)
 凛は士郎の微妙な心の機微を捉え、嘆息した。
 ――なら徹底的に着いてってやるわよ。
 密かに彼女は決意を新たにした。
 対称に士郎はそんな心境には気付かず、負傷した肩に触れる。
 「凛。戦闘した様子はさっき話した通りだ。……何なんだ『アレ』は」
 切嗣と戦闘の際、士郎には認識出来ない動きをした。
 知覚がずれている感覚、とでも言おうか。
 最初に違和感を感じたのは、後ろに居たはずの切嗣が、いつの間にか目の前に居たとき。
 次に突然襲った衝撃。あれは衝撃が来た後に(・・・・・・・)体勢が蹴りだったから蹴りだと判断したのだ。
 蹴られている≠ニいうその前後の感覚が全く無かった。
 決定的だったのは、銃弾装填(リロード)の時だ。
 士郎の投影速度は切嗣の装填速度を、僅かながらも上回っていた。だがしかし、その差は一瞬の内――否、知覚できない内に埋まっていた。
 動作の完全な知覚など出来なく、せいぜい動作の切れ端を感知した程度だ。
 まるでビデオの早送りのような動き。
 逆に士郎が放った四対の干将莫耶は、巻き戻りのようなスロースピードになり、遂には停止した。
 切嗣が最初から本気で士郎を殺そうとしていたならば。
 最初の蹴りの段階で、終わっていたのかもしれない。
 士郎と切嗣の戦闘は、そういうものだった。
 つ、と冷や汗が士郎の頬を伝う。
 そんな士郎を見て、凛は一瞬思考した後、信じられないといった顔で言った。
 「――多分、それは『固有時制御』ね。物体が持つ固有の時間を制御する、限りなく魔法に近い特殊な魔術よ。アナタが見た知覚できない%ョきっていうのは、自己の時間を早めただけ。引き延ばせる時間は実時間で一秒程度だろうけど……彼の中では恐らくその何倍という時間を知覚しているはずだわ」
 士郎は凛の言葉を聞いても――何となく見当はついていたのか、驚きは彼女よりも少なかった。
 「俺の干将莫耶が防がれたのも、干将莫耶の時間を制御して止めたからっていうわけか……。幾ら何でも出鱈目すぎるだろ。俺の固有時間さえも制御できるってことだろう?」
 「それは無いと思う。幾らなんでもソレは人間の範疇から外れているわ。士郎の言から察するに、その投影は速度重視で密度はイマイチだったんでしょう? ――恐らく彼の固有時制御を働きかけることが出来るのは、自分ないし自分よりも存在概念が低い物体≠セけなのよ。まぁ、それでも十分に脅威なんだけどね……」
 士郎は『魔術師殺し』の異名の威を、肌で感じていた。
 衛宮切嗣という人物は、裏の世界ではそれなりに有名だった。
 ロンドンで聞いた彼の噂は、それこそ数知れず。
 曰く、彼に狙われたら生きて朝日を拝むことは出来ない。
 曰く、その眼光は鬼そのもので身動き一つすら取ることが出来ない。
 曰く、彼は殺しても死ぬことはなく、狙った相手を追い続ける猛鬼である。
 曰く、二十七祖の一角すらも苦も無く屠った、人間外の化け物である。
 などなど枚挙に暇がない。
 眉唾モノの噂が数々上がるという、噂が一人歩きしている現状に、士郎は聞いた当時大いに驚いた。
 だが無理もあるまい。
 『固有時制御』という規格外の魔術を行使し、自らの正義に容赦が無かった切嗣。
 時には恋人を人質に取り、親族を盾にし、建物ごと爆破することすら厭わなかったという。
 近代武装を良しとしない魔術師世界において、平気でタブーを犯すという異端者。
 故の字。異名。
 『魔術師殺し』。
 こと敵対する魔術師を殺すことにかけては右に出る者はいないとされているだけはある。
 そのことを思いながら、士郎は言う。
 「だけど、あいつ等は切嗣のことを只の人形だって言ってた。感情も思考回路もない、戦闘人形に過ぎないと。そんな状態で『固有時制御』なんていう大魔術使うことが出来るのか?」
 言いながら士郎はぎり、と拳を握り締めた。
 衛宮の血を利用されている。その事実が許せなくて、思わず力が入った結果だ。
 それを横目で見つつ、凛は応える。
 「この眼で見ていないから断言は出来ないけど、イリヤスフィールの双子とは擬似的なパスで繋がっていると思う。同じホムンクルスなわけだし、その程度は造作も無いんじゃない? リリィスフィールだっけ? そのリリィスフィールが士郎の父親もどきの魔術回路を制御しているということなのよ、きっと。言ってみればサーヴァントとマスターの関係に近い。リリィスフィール(マスター)切嗣(サーヴァント)令呪(コマンドスペル)を使っているようなものよ。勿論、簡単な戦闘行動くらいはプログラミングされているとは思うけど、『固有時制御』なんて大魔術を使うときは流石に手動で構築しないと出来ない芸当よ」
 「要するに切嗣を遠隔操作しているようなものか。……なら突破口はあるかもしれない」
 「……士郎、アナタまた余計なこと考えてるわね? いいから今日一日くらい怪我の治療に専念しなさい。流石のアインツベルンも、こんなところでは事を起こすとは思えないし、今はゆっくり休みなさい」
 「ちょ……凛、そんなに押すな! 適当にその辺で休んでいるから……」
 「だーめ。ベッドを貸してあげるから、ちゃんと寝て休むこと。藤村先生や桜には私から連絡しておくから、士郎はゆっくり体を休めなさい」
 渋る士郎を強引にベッドルームへと押し出す。
 「分かった、分かったから、そんなに押すなー」
 抗議の声を無視して、凛は強引にベッドへと寝かしつける。
 「はい、これで良しと。打開策は私が考えておくから安心して。大丈夫。――桜や藤村先生に危険が及ぶようなことは決してさせないから」
 冬木の管理者(セカンドオーナー)として、と言葉を付け足して凛は部屋を出た。
 「――凛、それじゃ甘いんだよ」
 士郎の呟きは決して彼女に届くことなく、ただ身の内に沈み込み、澱んで停滞する。

 ――さて、正義の味方とは一体何なのだろうか。
 凛は一人そのことを考える。
 衛宮家には先ほど連絡した。詳しく事情を話すわけにはいかなかったが、桜は何となく理解したようで、大丈夫ですから≠ニ明るく返事をした。
 いつも桜には迷惑をかける。
 凛がロンドンに行っている間の管理者としての義務、館の管理なども全て桜に任せたきりだった。
 正当な召喚状が出ているのだから、放置しておいても何ら問題は無いのだが、桜は自ら進み出たのだ。
 その結果が埃一つすら見当たらない館と、滞りなく片付いている仕事だった。
 桜が居なかったら、どうなっていたのかなど想像に難くない。
 そのことに感謝しつつ、現状ではこれで精一杯であるという事実に、凛は嘆息した。
 先ほど士郎に打開策はあると言ったばかりだが、正直どうしようもないのが現実である。
 アインツベルンが、こんな昼間からドンパチを起こすとは思えないし、かといって『固有時制御』に対抗できる術がすぐに思い浮かぶかと聞かれると否だ。
 あれは特殊すぎる。『時間』という概念は魔術でも科学でも、全く確立されていないのが現状である。
 時間とは一体何なのか。
 それは魔術師にとっても、課せられた永遠の命題の一つでもあると言える。
 本質すら理解できないソレをどうして自在に操ることが出来るだろう。
 だが、それを可能にしたのが『固有時制御』だ。
 世界で流れている時間とは別に、人や物がそれぞれ持っている時間を固有時間≠ニして独立させ、それを制御≠ニいう形で確立させた魔術。
 ――そんなものに、どうやって対抗するというのだろう。
 神代の魔術師は、その程度造作も無いことだっただろうが、現代においてはそう上手くいかない。
 果たして、現在何人の魔術師がコレを使えるだろうか。
 恐らく世界中を探しても、十指もいまい。
 複雑すぎる魔術式と異端の才能が重なって、初めて再現可能な現象。
 それだけ特殊な魔術であるのに関らず、まだ時間という概念においては、とっかかりでしかない。
 極めるなど、神でもなければ不可能だ。
 『時間』に関する魔術というのは、それほど高度で複雑なものだ。
 故に、時間の魔術の頂点である『時間旅行』は魔法≠フ一つとしてカテゴライズされている。
 ――魔法。
 文明の力ではいかに資金・時間を注ぎ込もうとも実現不可能な出来事を可能とする奇跡。
 その一端である魔術に、幾ら肩書きが一流とはいえ、どう対抗していいのか皆目見当もつかない。
 有効な手段が無いとすれば、出来ることは唯一つ。
 全力攻撃=Aだ。
 用いることが出来る全ての力で、強引に倒しきることしか打開策は無い。
 だから、凛はこうして虎の子の宝石全てを装備して、そのときに備えているのである。
 だがしかし。
 全力ということは、防がれたらその時点で敗北が確定するということでもある。
 ましてや相手は切嗣だけではない。能力が未知数な魔術師が、まだ二人もいるのだ。
 おまけに一人は、イリヤスフィールの双子だという。
 月光の下、一人の少女が狂戦士を従えて冷たい視線を湛えていたのを思い出す。
 冗談じゃない。
 ギリシャの大英雄ヘラクレスを狂化させ、なお平然と立っているほどの膨大な魔力。
 イリヤスフィールが聖杯の器として生まれたのならば、リリィスフィールもそれと同等だと考えても良いだろう。
 対して凛は、確かに突出した才能を持っている。魔術回路のソレも普通とは比べ物にならないほど多い。
 だが、それはあくまで人として≠フ範疇。
 千年という果てない妄執の結果、単一の目的のために生み出された規格外の異端に、単なる人でしかない凛がどうして拮抗する実力を持つことができるのだろうか。
 故の戦略。否、戦略と呼ぶのもおこがましい、真っ向からの力押し。
 自分の準備なんて、たかが知れている。
 ならば、後は士郎の回復を待つのみである。
 あの傷がすぐ完治するわけではないが、遠坂秘伝の妙薬のおかげで、痛みは大分和らぐはずである。全く動かせないということは無いはずだ。
 嵐の前の静けさ、とでも言おうか。
 士郎が目覚めれば、間違いなく血戦が始まる。
 それまでの僅かな時間。凪が持つ特有の平穏が、今を満たしている。
 凛は思う。戦略だとか、無意味な考えは全て放棄した。――無駄だからだ。
 今、凛の思考を占めるのは、士郎のことだけだった。
 正確には彼の持つ最大の問題(むじゅん)。その根幹。
 正義とは、一体何なのだろうか?
 法哲学においても最古の問題領域とされ、未だに多くの学者が議論しているが、明確な答えは出ていない。
 一人の学者は『正義はあるべき姿に社会や人間を正そうとする信念である』と言い、また一人の学者は『各人の基本的自由に対する平等の権利である』と言った。
 なるほど、と思う。確かにそのどれもが真理であり、社会を形成する上では必要な物だろう。
 だが、衛宮士郎が掲げる正義とは全く次元違いの代物であるのは間違いない。
 学者によって唱えられている、そのどれもが自分から派生するというもの。
 ――士郎の正義に、彼自身は含まれない。
 彼の正義は『救済』という他人に与える行為に特化した信念。故に自己に返るものは何も無く、それは一つの機能を果たすだけの機械に過ぎない。
 (きかい)に過ぎない人生。其処に何の意味がある?
 何も無いのだ。一面に広がる何も無い荒野。それのみが彼に与えられた理想の果て、旅路の終。
 ヒトから逸脱した正義。
 ――それが、遠坂凛にとって正しい物とは到底思えなかった。
 全ての人々が平和でいられたら≠ニ、誰しも一度は思ったことがあるだろう。
 皆が笑顔でいられる世界。その夢想は確かに綺麗で憧れる価値がある。
 だが現実は厳しい。世界はそんなに綺麗ではなく、どうしても零れるモノが出てきてしまう。
 その摩擦。
 自我が無いならそんな生き方もいいだろう。ただ一つの目的のみを淡々とこなすだけならば、痛む心は無く何の疑問も抱かず、人生を終えることを出来るだろう。
 だが彼には確固とした『自分』がある。
 自我がありながら、夢想でしかない理想のみを持つ人間。
 ――正義とは一体何なのだろうか。
 再び凛は自問する。
 彼にとって、それは『救い』であり『笑顔』であり、――自らの『心』そのものなのだ。
 だから、その終わりから彼を救うには、何か証明が必要だ。
 衛宮士郎が生きてきた、その過程が無駄ではないと誇れるような証が。
 (しょうがないわね……。ま、私がなってあげるわよ。あんたには誰か付いていないと、駄目なんだから)
 ――それが、彼≠ニの約束だから。
 (ま、それはそれで面白そうだしね)
 満更でもない、とそんな微笑を口元に湛え、彼女は重い腰を上げた。


 それは衛宮士郎とは違う、もう一つの誓い。
 あらゆる困難を困難と思わない彼女にとって、それは容易に果たせるだろう。
 ……だが、彼女は一つ忘れていた。
 ――ここぞ、という時に大ポカをやらかすという、遺伝子レベルの悪癖のことを。

 「……しまった。こんな時、アイツがどんな行動をするかなんて、火を見るより明らかじゃない……!」
 私は一人、扉を開けたところで立ち竦んでいた。
 全ての準備が整い、アインツベルンとの戦いへ赴こうと、ベッドルームを入ったとき。
 ――衛宮士郎はそこにいなかった。
 彼が眠っているはずのベッドはもぬけの殻。ただ開いた窓から流れてくる空気が、カーテンを揺らしていた。
 その事実は彼が一人で戦いに赴いたという事実に他ならない。
 私は、どこかで安心しきっていた。
 何故ならここは私のホームグラウンドであるし、言うなれば一つの結界だ。
 侵入者は勿論、出て行く者も玄関以外から出ようとすると、当然警鐘が鳴り響く。
 誰が出て入ったなんていうのは一目瞭然だ。
 だけど、何事にも例外は存在する。
 (桜と士郎だけは、それに引っかからないのよね……。忘れてたわ、すっかり)
 私が不在としている間、家を任せていた桜は当然として、学生時代から入り浸っていた士郎も、一々把握するのも面倒だからという理由で、彼個人に対する家そのものの警戒を解いていたのだ。
 (あの馬鹿、まだ怪我も碌に治っていない状態で飛び出したわね……)
 こうしてはいられない。
 一刻も早く追いつかないと、手遅れになってしまうかもしれない。
 ならば、今私がすべきことは何か。
 そのことに思い立った途端、私の足は間桐邸へ向けて駆け出していた。

 私は間桐邸で壊れたばかりの車の修繕を行っていた慎二を再び焚きつけて車を走らさせた。
 慎二の車は安全性はともかく、スピードだけは異常に速い。
 だから、こういうときにはうってつけだ。よく捕まらないな、とは思うのだけど。
 「全く、あんだけボロボロにしたくせに、また乗っけていけとは何の冗談だよ。おまけに自ら危険の坩堝へと飛び込むためだなんてね。二回も。思うに君達は一度検査受けた方がいいと思うよ。脳とか」
 「ええぃ、いいからとっと飛ばす! 文句なら後から幾らでも聞いてあげるから。 早くしないと私達より早く脳の検査を受けることになるわよ。今ここで私が切開して直接」
 「わかった! わかったから、刻印を発動させながら頭を掴むのは止めてくれ!! ……蹂躙っていう単語を知っているか、遠坂」
 「ええ、知っているわよ。今私があなたにしていることでしょ? それが何か?」
 「……オーライ、理解したから、車内でガンド撃ちだけは止めてくれ」
 私は嘆息しながら、前を向く。
 流れる風景の先に、冬の森が見える。
 その果てに、士郎がいるのだろうかと思い、彼が傷つき倒れている姿を幻視した。
 ――そんなことは、絶対にさせないんだから。
 想いとは裏腹に、嫌な予感ばかり募っていく。
 間に合うか。
 一度目はギリギリのところで間に合った。後数分遅れただけで、私は彼の死体姿を見ることになっていただろう。
 ――今回は見ないという保証が、どこにある。
 確かに彼の戦闘能力は目を見張るものがある。
 規格外の投影、剣の技術、何事にも動じない鋼の精神力。
 一介の魔術師では、到底太刀打ち出来ないだろう。確かに人の身で、英霊となる資質があるだけのことはある。
 だが、今回は相手が悪すぎる。
 『固有時制御』を操る魔術師殺し。聖杯の器、リリィスフィール。未だ片鱗すら見せていないアインツベルンの魔術師。
 三対一。一人でも苦戦は必至という相手が三人もいる。
 ――今回ばかりは、不味いかもしれない。
 嫌な予感が渦を巻き、胸の中に沈殿する。
 「大丈夫さ。――絶対に間に合わせてみせる」
 その予感を払拭するように、慎二はそう言い切った。
 「お前と衛宮には借りがある。それを返すまでは……勝手に死なれちゃ僕の面子が立たないからな!」
 アクセルを勢いよく踏む。
 今まで限界だと思っていたスピードから、更に加速する。
 慎二の言葉。今はそれが、何故かとても頼りになった。
 「何だ。三年前にも、その言葉が吐けたのなら、もうちょっと本気になっても良かったのに」
 「は。思い上がらないほうが良いよ。……あの時からずっと、お前は僕にとって鼻持ちならない女だったんだから」
 鼻についていた嫌味を含んだ慎二の言葉を聞いて、今までと違った感情が湧いてくるのを感じた。
 ――口元に浮かぶのは、微笑。
 (まぁ、焦っても仕方ないわよね……)
 そう、私に出来ることは信じることだけなのだから。
 だけども、胸に沈殿した嫌な予感は脳裏にちらついて消えなかった。


 ――そして、その予感は果たして的中する。

 遠坂凛は森の中を駆けていた。
 慎二には、――まぁ悪いとは思ったが帰ってもらった。
 今のこの状況は、慎二を巻き込むことも十分に考えられる。
 それは、衛宮士郎の本意ではないだろう。
 だからアインツベルン城の手前で、帰ってもらったのだ。
 凛はそのことを告げたときの慎二の言葉を思い出す。
 慎二は肩を竦めて
 『やれやれ、この僕をパシリ扱いか。いい度胸しているね、君も衛宮も。ここまで僕を虚仮にしたんだ。――必ず戻ってこないと、僕はお前らを軽蔑する」
 そう言い切った。
 駆けながら、思う。
 (慎二なんかに言われなくても、首根っこ引っ掴んででも連れ戻してきてやるわよ)
 アイツにだけは軽蔑されたくない、と本人には失礼なことを思いながら、凛は全力で森を駆ける。
 景色が流れる。
 木々が視界の外に流れ、押し出されるような風を体で感じる。
 その感覚を十分に味わうこともなく、ただ急げとそれだけを思い、実行する。
 早く早く。もっと早く。
 ――嫌な予感もまた、加速して肥大化していく。
 無意識下の第六感は、絶えず警告を送り続ける。
 ”早くしないと、お前の大事な衛宮士郎が死んでしまうぞ――――
 ギリ、と不安を押しつぶすように、奥歯を噛み締める。
 予感を踏み砕くように、思い切り足を踏み込んだ。
 そのとき、木ばかりを捉え続けていた視界が、突然開けた。
 まるで森の一角をスプーンでくりぬいた様な開けた空間。
 その中心、空間の真ん中に一つの城が聳え立っていた。否、それは城跡。かつての栄華を匂わせるように中心に座している。
 ――アインツベルン城。
 それが遠坂凛と衛宮士郎の決戦場の名前である。
 結末の最後に何が待っているのか。
 自分達は、一体何処へ向かっているのか。
 問いは打撃となって、凛の心を穿つ。
 ――その結末に一抹の不安を感じ、だが今は考えるべきではないと、凛は駆ける。

 そして遂に城門跡に辿りつく。
 凛の視界に映るのは、記憶より更に荒れ果てている様に一人驚く。
 瓦礫、穿たれたクレーター、そして――血痕。
 その有様は、正に激闘の証拠でもあった。
 この現状に、凛の不安は加速する。
 (そして、この静寂は……?)
 静かすぎる。
 剣戟の音も何の声も聞こえない。
 戦いというには、音が無さすぎた。
 戦いは終わったのだろうか。
 (士郎は、何処に……?
 ――っ!)
 そのとき、凛の視界に映ったのは。

 ――血を撒き散らしながら、階段から崩れ落ちる、衛宮士郎の姿だった。

 階上に立っているのは、銀色の男。
 口元に浮かんでいるのは微笑。
 鮮血の雨を受けながら、ただ嘲笑っていた。
 「っ士郎ーーーーーーーっっ!!」
 凛の絶叫が、冬の城に響いて、こだまする。

 

.......to be continued

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