■
「お前だけは、簡単に終わらせない。――全てを知った上で、絶望しながら終わっていけ」
そう言って、アーチャーは俺の頭を掴んだ / 止めろ。
ばちん、と電流が頭の中に流れ込んで / 頼むから。
押し込めていた封印を焼き切った / お願いだから。
……その扉を開けないでくれ……!!
砂嵐のようなノイズが走り、意識が暗闇の底へと落ちた。
声が、聞こえる。
「――ろう。こ――、起きな――りね。はぁ、た――だわセ――」
「わ――――した。――リ―」
微睡みの中、二つの声が聞こえる。
「う……ぁ?」
陽光が目蓋を照らしているのを感じる。
俺はゆっくりと瞳を開け――――
「っっっっっっづ――――っ!!」
――――る前に、ばがん、という衝撃が頭に走った。
それはもう衝撃というか稲妻に近い。脳髄の中で思い切り除夜の鐘でも鳴らされたかのような、そんな衝撃だ。
文字通り脳天直撃。何かもう色んなプロセスをすっ飛ばして、俺の頭ははっきりしゃっきり覚醒した。――半ば強引に。
「やっと起きたわね。馬鹿士郎。アンタ、なかなか起きないモンだから、桜が軽く泣き入ってたわよ。どうしよう姉さん! 先輩全然起きる気配がありません! このままじゃ私、先輩を襲わない自信がありませんっ!≠チて。――朝っぱらから、そんな寝取り宣言されたこっちの身にもなれ」
あはははははは。桜さん、朝から元気いっぱいですね。――笑い事じゃねぇ。
「全く、どうせ昨夜も修理・鍛錬漬けだったのでしょう。幾ら暖かくなったとはいえ、まだ夜は冷えるのです。風邪でも引いたら元も子もない。とにかく、シロウ。お腹が空いたので、とっとと朝ご飯とお弁当を作りやがって下さい」
とんとん、とセイバーが竹刀で自分の肩を叩きながら、俺を見下ろして、そんなことを言った。
……いやぁ、この一年、随分と言葉遣いが素敵になったなぁセイバー。ペットは飼い主に似るって本当だったんだ。
頼むから凛さん。セイバーに悪い言葉を教えないでくれ……!
そんな元マスターの切実なる願いを心中で呟きつつも。
「お弁当……? セイバー、また子供達とサッカーしに出かけるのか?」
首を捻りつつ、言った。
凛とセイバーは一瞬、ぴたりと静止すると。
「はぁ〜っ」
なんて、いっそ清々しくなるほど、盛大な溜息を吐いてくれやがった。
「……どうやら寝ぼけているようね。セイバー、衛宮君はまだ夢の中にいるみたい。もう一発お願いするわ」
「ええ、リン。一発でも百発でも、シロウが目覚めるまで続けましょう……!」
何だその死刑宣告。いやいやそんなことやられたら、覚醒どころか二度と目が覚めなくなりますよ……?
「ち、ちょっと待った! 今思い出す、すぐ思い出すから少し待てっ!」
起きて三分で生命の危機。我ながらダイ・ハードな日常を生きてるなぁと思いつつ、現状確認。何しろ生死がかかっているので、割と必死だ。
ぐるりと辺りを見渡す。かび臭い空気。穴の開いた薬缶やら殆どジャンク品のビデオデッキやらガラクタが転がっている。何か違和感あるなぁ、と思ったら、作業服のままで寝ていたようだ。
ああ――俺、また土蔵で眠っちゃったのか。投影品がごろごろ転がっている所を見るに、恐らくまた調子に乗ってしまったようだ。
一年前――俺こと衛宮士郎は、頭のてっぺんから足のつま先まで徹頭徹尾一流な魔術師の遠坂凛に弟子入りした。順調に……というわけにはこれっぽちもいかないが、新しいことを学ぶのは楽しい。色々試してみたいことも出来て、思わずこんな風に徹夜してしまうくらいに充実した毎日を送っている。まぁ、その悉くが殆ど失敗している辺り「本当に魔術師に向いてないんだなぁ」と思ってしまうのであるが。
まぁそれはともかく、とりあえず今考えるべきはセイバーのお弁当$骭セについてだ。
お弁当――ということは何かピクニックかデートか、遠出するようなイベントがあるってことか? いやでも学校は先月卒業し、ロンドン行きの支度で色々忙しい中、そんなことしている暇があるのだろうか。それとも弓道部関連……?
弓道部。お弁当。――――春。約束。
「……ああ、そうか」
どうやら俺は本当にどうにかしていたようだ。こんな大事なことを忘れていたなんて。
わしゃわしゃと頭を掻いて。
「そうだったな。――――皆で桜を見に行こうって、約束してたもんな」
俺は、そう言った。
凛とセイバーは「うん」と満足そうに頷いた。
何だか、感慨深くなって、「ああ」と呟いた。
窓から差し込む光は、春の陽気に満ちている。扉の外から吹き抜ける春風は心地よくて暖かい。
ああ――ここは何て優しい場所なんだろうと。
これが俺のいる場所だと。
ここが俺の場所で――本当に良かったと。
柄にもなく、感傷的に、そう思った。
■
それは、あまりにも唐突だった。
唐突に――俺の日常が、呆気なく、突然に、崩壊した。
弓道部の部員を連れ、先に花見の現場に向かった藤ねぇに合流すべく、俺と凛、セイバーと桜で家を出た直後のことだった。
坂の上。見下ろすようにして、幽鬼のように佇む異形が、そこにいた。
桜は震える声で。
「――――お、爺様……!?」
言った。
「え、まさか、マキリの当主……!? 何で今更になって……?」
「マキリの当主って、行方不明になってたっていう桜の――」
驚愕に見開かれる俺たちの瞳を、実に嬉しそうに見下げながら、その異形――間桐臓硯が口を開いた。
「さて、遊びの時間は終わりだ。迎えに来たぞ、桜。
――――聖杯戦争を再開するぞ」
「な、にを――――っ!」
呵々、と笑う臓硯。セイバーは風王結界≠構え、戦闘態勢になる。
瞬間。
「あ、く――――!」
がしゃん、と大きな音がした。地面に重箱がぶちまけられる。
見れば、後ろにいる桜が突然倒れていた。熱病に魘されたように、頬を熱く染めているが、しかし、どこか青白い。
瞳は焦点が合っていない。苦しそうに蠕動している姿は、とても見るに堪えなかった。
だが、事態はそれで止まらない。まるでドミノ倒しのように――次々と日常が崩壊していく。
「桜っ!?」
「アンタ、桜に何をしたのよ――――っつ!!」
俺と凛が叫んだ瞬間、ばつ、と手の甲に熱が走った。
途端――見覚えのある紋様が浮かび上がった。
「これは……まさか」
「――――令呪!?」
俺と凛に浮かび上がった紋様は、感じる魔力も形も、正しく一年前の聖杯戦争における参加者の証――令呪に他ならなかった。
何故――と疑問に思う暇もなく、その異形、間桐臓硯は語り出す。
「全く、お前達は――とんでもないことをしでかそうとする。よりにもよって、聖杯を――マキリ、アインツベルン、遠坂の悲願を崩壊させようなどと……」
ふぅ、と溜息を吐く。言葉とは裏腹にその表情には笑みが刻まれている。
瞳が、俺の方を見た。
「ま、お主ら程度の技量では、システムの瓦解まではいかないだろうがな。お主の父親――衛宮切嗣の仕掛けも所詮焼け石に水。大勢に影響はない。……だがな、協会が介入するのは、少しばかり不味いのよ」
……何が不味いだ。んな嬉しそうな顔しやがって……!!
ぎり、と歯を噛み締めるが、今はそれどころじゃない。凛と一緒に桜の容態を見る。
セイバーは臨戦態勢を取っているが、相手の動きが読めないのだろう。殺気も放たず、不穏な動きも見せない臓硯に対し、攻めあぐねているようだ。
だが、それならどうして桜は突然倒れたのだろうか……?
臓硯は、ただ語る。
「それでも並の魔術師程度なら、アレに届く道理はない。聖杯の基盤たるテンノサカヅキは完全。隙など微塵もないわ。――――が、あやつが来るなら話は別じゃ。今代のエルメロイならば、本当に聖杯戦争を解体しかねん」
「ちょっと……何でアンタがロードのことを知ってるのよ! それに――聖杯戦争を再開するって、どういうことなのよ! 桜を一体どうしたっていうのよっ!?」
「落ち着け、凛! お前は桜を見ていてくれ……ともかく今はアイツの話を聞くしか無さそうだ」
「士郎……」
臓硯の、白く濁った瞳を真正面から見据える。左手に浮かんだ令呪が熱くて痛い。その痛みが、これが現実であると語っていた。
「……セイバー」
「ええ、分かっていますシロウ。今必要なのは現状の把握だ」
そう言うセイバーから、数瞬前とは違う、明らかな魔力の高まりを感じる。
これほどまでの高まりは――正しく一年前の聖杯戦争以来だ。今、セイバーは間違いなく、遠坂の使い魔ではなく、サーヴァントとして機能している。
つまり。
「間桐臓硯。聖杯が――――再び起動したというのか」
確かにずっと、嫌な予感はあった。
一年前、確かに俺たちは聖杯を破壊した。全ての願いを叶える願望機は、それを叶えることなく破壊された。
だが――本当にそれで全て終わったのだろうか。
顕現した聖杯を破壊する――それは十年以上も前に、切嗣がやったことだ。
にもかかわらず、聖杯戦争は再び起こった。第四次から第五次へ、忌まわしき儀式のバトンは受け継がれた。ということは――――
「聖杯戦争には、まだ俺たちの知らない何かがある。そして俺たちは、それを見逃した。そういうことだろう、間桐臓硯」
臓硯は呵々、と笑い。
「なるほどなるほど、一年前とは違い存外に頭が回るではないか。衛宮の小倅、正解じゃよ。聖杯戦争はまだ終わっていなく、そしてたった今再開された。第四次の不完全な聖杯の発動≠ノよる余剰魔力が凡そ五十年おきというサイクルを早めたように――――第五次の聖杯の未発動≠ノよって、たった一年という早さで聖杯が起動した。至極簡潔に事実を述べれば、そういうことだ、小僧」
「――――再開って言ったな。お前の言うとおり、第六次聖杯戦争が起きたなら、再開って言葉はおかしいだろ」
そうだ。そもそも聖杯戦争には予兆がある。土地に満ちる魔力の高まり、聖杯独特の波長、そして聖痕――――だからこそ、聖堂教会から監視役、魔術協会からの派遣などの準備≠ェ出来るのだ。
こんな、突然降って湧いたように聖杯が起動するなど、どう考えてもおかしい。
困惑する俺たちは楽しそうに見下げながら、臓硯は歌うように言葉を紡ぐ。
「おかしいも何も、言葉通りの意味よ。第五次の聖杯戦争において、お主らは願いを叶えなかった。つまり、一時的に終わらせた――否、停止させただけよ。その叶えられなかった願い≠叶えるために――聖杯は再び起動した。わしが起動させた。聖杯の欠片≠埋め込んだ――マキリの小聖杯を使ってな。故に再開。これは一年前の聖杯戦争の続きに他ならないのだ」
「マキリの、聖杯――だって……?」
「それはまさか――――」
俺と凛が同時に口を開く。その視線の先に見えるのは、後方で倒れ、苦しそうに息を吐く――――
「桜じゃよ。元々、それには優秀な胎盤くらいしか期待していなかったのだがな。わしの本命は第六次。故に此度は静観しようと思っておった。それが何をしようとも勝手。少しくらい一方の夢を見せても良いと思っておった。だが――お主らが事態を掻き乱してくれたおかげで、そうもいかなくなった。お主ら程度の魔術師が何をしようと、根幹たる大聖杯は揺らがないが――――あの男が絡んでくるなら話は別よ。マキリ長年の宿願を、こんな形で打ち壊されるなどあってはならんこと」
……こいつは、桜のことを何だと……!!
ぎり、と握りしめた拳から血が滲んだ。思わず殴りに飛び出しそうになるが。
「……」
セイバーが無言でそれを押し留めてくれた。その瞳が語っている。
――いけません、と。
「――……っ!」
確かにセイバーの言うとおりだ。唇を噛み締め、何とか自分を押し留める。
ここで自分が激昂してしまえば、唯一のヒントを逃すことになる。桜を救うための、ヒントを。
そんな俺を気遣うように、肩を叩かれた。
凛だ。俺の横に立ち、臓硯を見据える。
「なるほどね。つまりアンタは聖杯が起動するための魔力が溜まるまで、今まで待ってたというわけか」
「そうよ。聖杯戦争を再開出来るのが先か、あの男――今代のエルメロイが来るのが先かは、一種の賭けだったがな。過去、聖杯戦争に参加し、システムの末端に触れた今のあやつは――少々危険に過ぎる」
「ふん、どうにも胡散臭いヤツだとは思ってたけど、まさか聖杯戦争の参加者とはね。でも、ま、概略は分かったわ。大聖杯を軽視しすぎたのは、確かに私達の落ち度ね。……それでもまだ分からないことがある。間桐臓硯、アンタ、桜に何をしたの? 小聖杯としての起動だけじゃこんな風にはならない。こんな魔力は、明らかにおかしすぎる。――――異常だわ、これ」
ドクン、と心臓が跳ねた。
嫌な予感が止まらない。覆水盆に返らず。もう何もかもが手遅れだと――そう言われてるようだった。
「どういう、ことだよ」
「……」
凛は僅かに逡巡した素振りの後、静かに告げた。
「桜から――異常なまでの魔力を感じるわ。並の量じゃない。桜という人間を上から塗りつぶすぐらい莫大で、強大な魔力よ。それこそ――聖杯級に」
「な――んだよそれっ!! 桜が一体、どうしたっていうんだよっ!!」
凛はただ黙って俯いた。は、と何かに耐えるような息が漏れる。
その沈黙を打ち破るように。
臓硯の、声が。
「つまり――――『間桐桜』という人格は死んだ、ということよ。かかかかかかかかかっ!」
コイツは。
一体。
何を言っているんだろう――――
視界が白熱する。脳髄が熱を持って焼き切れそうだ。
言葉の意味が、理解できない。現実に認識が追いつかない。
桜が――――死んだ?
あまりにも唐突過ぎて、何もかもが受け付けられない。
息も出来ない。これは、本当に――――現実なのか?
「……再開、って言ったわね。一時的に停止された聖杯……。そして、聖痕も無しに現れた令呪。つまり――――前回呼び出されたサーヴァントの魂は、そっくりそのまま、今だ聖杯の内側に残っている……!!」
「そう――わしはそこに桜を『繋げた』だけのこと。溜め込まれた魂は小聖杯へと逆流し――その圧倒的なまでの魂の格にとって、一個の人格など塵芥に過ぎず、結果塗りつぶされる。これがどういうことか、分かるか小僧?」
分からない。分かるわけがない。そんなこと衛宮士郎に受け入れられるはずがない。
あの桜が。
さっきまで一緒に笑い合っていた桜が。
もういないなどと――――
「それが狙いってことね、間桐臓硯。要するに、今回の再開された聖杯戦争は……」
「応よ。――――何も起こることなく、血も流れることもなく、わしの勝利で終結ということじゃ……!!」
……………………………………………………………………。
は、こいつ。
――――ふざけんなよ。
「間桐――――臓硯――――っ!!」
坂を駆け上がる。もう何も考えられない。暴走した回路は熱を持って走り続けるしかない。
ただ、ただ頭にあるのは。
この爺を、引き裂いてやるということだけ――――!
「シロウ! 迂闊に飛び込んでは――っ!」
知らない。そんな常識など何処かへ吹き飛んだ。
両の掌に干将・莫耶を投影、ただ思うままに斬撃を振るう。
「生きの良い小僧よ。そんなに桜が大事か」
「お前は一体、何様のつもりだぁ――――っ!!」
斬。
臓硯の体は、実に呆気なく両断された。
だが。
「馬鹿っ! それは本体じゃないっ!」
凛が叫んだ途端、その断面が、ぼろりと崩れ。
夥しいほどの――――蟲が。
「がっ――――!!」
それらが一斉の襲いかかってきた。まるで肉食魚のように、肉を求め、次々とかじりついてくる。
手に、足に、肩に、胸に、醜悪なまでに集ってくる。
「シロウ――――っ!」
瞬間的に武装したセイバーが一足、俺の元に辿り着き。
「ああぁっ!」
風王結界≠力任せに振るった。
ぶぉん、と豪速で振るわれる太刀筋は、風を生み、蟲達を吹き飛ばしていく。
だが、俺はそんなことを気にしていられない。
――――臓硯は、何処だ。
「シロウ! 落ち着いて下さい! アナタがそれでは助けられるものも助けられない……!!」
助ける? 何を?
桜を助けられなかった俺が――今更何を救うというのだ。
一体桜が何をしたというのだろう。ずっと身近で、笑っていてくれた彼女。気遣いが出来て、淑やかで、でも思ったより我が儘で――――
折角、慎二とも和解して、兄妹らしい兄妹になれたというのに。
その桜が一体どうして。
こんなにも呆気なく、訳も分からない理由で死ななくちゃいけない――――!
「間桐臓硯っ! 出てきやがれ! どうせどこからか、薄汚い目で見ているんだろうがぁっ!!」
「士郎! 落ち着いて! 桜はまだ――――死んでないっ!」
は、とした。視線の先、凛に抱かれる桜の瞳が、こちらを見ていた。
弾けた。
脇目もふらず、桜の元へ駈け寄る。
……くそっ! 足が縺れて、上手く走れない……!
なんて無様。なんて滑稽。
それでも何とか、桜の元へ辿り着く。
叫ぶ。
「桜っ!」
「――――せ……ん、ぱい」
それは、驚くほど、弱々しい、声だった。
囁きにも満たない、小さな、小さな声。
これが――今の桜の全てだというのか。
「セイバー! 私の部屋に行って、治療道具と有りっ丈の宝石を持ってきて! この様子じゃ、教会まで保たない……!」
「しかし、リン。それではアナタ達が――――」
「いいからっ! 間桐臓硯の言うとおりなら、サーヴァントは現れない! アイツ程度なら私達で十分だから――速くっ!」
「……っ」
凛とセイバーの声が、どこか遠くに聞こえる。俺はただひたすら――名前を呼ぶことしか出来ない。
「桜、桜! 大丈夫だ! きっと凛が、お前の姉さんが――何とかするからっ。だからしっかりしろ! 桜ぁ……!」
抱きしめる。
ああ、なんて俺は――――無力なんだろう。
聖杯戦争を止められず、ただのうのうと一年を過ごし、こうして今、桜が死にそうになっている。
……何が、正義の味方だ……っ! 俺は結局、何も出来ないじゃないか……!
桜は、苦しそうに蠕動した後。
「すみ……ま、せん。私、先輩方に……色々……隠し事、して、いました……」
――――それは、俺が、何よりも早く、気がつかなければいけないことだ。
正義の味方を名乗るなら。
アーチャーには決してならないと誓ったならば。
この笑顔を、日常を守りたいと願うのならば――俺が知っていなきゃならないことだ。
なのに……俺は。
「お前のせいじゃ、ない。お前のせいじゃないんだ。俺が、俺が――もっとしっかりしていれば、こんなことには……!」
力さえあれば、こんなことにはならなかったのに。
だけども、桜は、しっかりと俺の瞳を見つめて。
「いえ、きっと……これ、は必然だった、んです。もしか、すると……こんな日が、来るんじゃ、ない……かって思って、ました」
「……っ!」
「だ、から……せんぱ、い。これは、誰のせいでも、ない。私の――――」
は、と大きく息を吐いた。
鼓動が、段々弱くなっていく。生命が、終わっていく。
――――それは。
いつかの大火災で、よく見た光景――――
「いいから、いいからもう喋るな!」
桜の体を抱きしめる。強く、強く。
ああ、俺は。
これから、何を失おうとしているのか。
「せん、ぱ……い。私、先輩のこ、とが――――」
その時、僅かに桜の瞳が逸れ――凛を見た。
凛はただ何も言わずに、黙って桜を見つめていた。
そして。
こくりと――頷いた。
ふ、と桜は弱々しい――だけども、いつもの朗らかな笑みを浮かべて。
「――――あーあ。お花見、行きたかったなぁ……」
――ことり、と全身から力を抜いた。
「あ、ああ……」
俺は桜の目を見つめた。閉じられたまま、二度と開くことはない。
「っ――――桜ぁあああああああああああああああああああああっ――――!!」
叫んだ。
全身全霊、有りっ丈の声で、叫んだ。
その――瞬間。
「士郎っ! 離れて! 来るわよっ!!」
ごぉっと桜の体から、黒い影≠ェ沸き上がった。
俺の体は、その衝撃によって弾き飛ばされた。コンクリート塀に思い切り叩き付けられるが、それどころではない。
桜の下から、何か黒い帯状の影≠ェ蠢き、体を押し上げる。
三流魔術使いの俺でも――その異常、いや異様な魔力が感じ取れる。
台風のような暴風がはためき、辺りを巻き散らかした。
「何だよ、何だよコレ……何なんだよこれはぁっ!!」
「……間に、合わなかった――か」
凛は至極――本当に冷静に、その光景を見つめていた。
すぅ、と息を吸って吐く。そして、スカートのポケットから取り出したのは――――
「おい、凛! お前まさかっ!」
「そのまさかよ。小聖杯たる桜の体を『破壊』すれば――臓硯の企みは消える」
宙に浮く桜に向けて、凛は掌を広げる。
その五指には――煌々と輝く宝石が。
「止めろっ、桜はお前の妹なんだぞっ!」
「アンタこそ何言ってるのよっ! 一年前、アンタも見たでしょ! あの聖杯の中身をっ! 臓硯の願いが何なのか分からないけど――――下手すると十一年前の繰り返しよ! アンタは――衛宮士郎はそれを許せるのっ!?」
「それは――――」
それだけは。
決して。
許してはいけないことでは。
――――なかった、だろうか。
ぎちぎちと脳髄が軋む。ぎしりと心が揺れる。
黒い太陽。屍。ぐにゃりとした感触。皮膚が焼け爛れる感覚。ありとあらゆるものが腐敗していく感性。
何もかもを置き去りにして。何もかもを見捨てて。何もかもを犠牲にして。
そうして生き残った自分が、やらなければいけないこと。
贖罪、懺悔、代償。
今まで裏切ってきたモノのために――――衛宮士郎は此処にいるのではなかったか。
そのために。
今までの全てに報いるために。
あの惨状を、二度と起こさないために。
桜を。
「桜を――――殺す、だって……?」
「違うわ。アレはもう――桜じゃない。ただの死体よ。だから――――」
『壊す』のよ――と断言して、凛はその宝石を撃ち放った。
「ま――――」
俺が止める暇も無く、一直線に莫大な魔力を秘めた流星が走り――――
寸分違わず、桜の体に命中した。
夥しいほどの魔力の渦が巻き起こり、桜を中心に爆散した。
破壊が巻き起こる。コンクリートの破片が辺りに散らかされ、存在の意味を失い、全てが瓦礫と化す。
だが――それほどの破壊を受けても。
「――――桜」
「なんて、馬鹿魔力。魔術でも何でもない、単なる魔力の濃度で今の宝石を防ぐなんて――――」
桜は全くの無事だった。
周りの黒い影=\―桜の体から溢れ出る『聖杯の魔力』が濃すぎて、魔術が通らないのだ。
「これはセイバーの約束された勝利の剣≠ナもないと無理ね……!」
「おい、凛! お前、本気で――――」
「っ! まだぐだぐだ言ってるの!? いいわ! そんなに桜の死を無駄にしたいのなら、アンタはそこで見てなさい! グズグズしていると臓硯が……!!」
言った瞬間――だった。
「――――残念。もう遅いわ」
どこからか、臓硯の声が聞こえた。
桜をこんな風にした張本人、全ての元凶の声が――――
がぎん、と奥歯が欠けた。怒りで視界が赤く、赤く染まる。
「臓――――硯」
そうだ。別に桜を狙う必要なんかどこにもない。間桐臓硯の願いこそが全ての原因だというのなら――――間桐臓硯を潰せばいい。
――――喜べ少年――――
ああ、そっちの方が、何倍も簡単だ。桜を■すのと較べるまでもない。
当たり前だろう? アイツは全てを奪った。桜のいる日常を。俺の日常を。平穏を。呆気ないほど簡単に壊してくれた。
だから――これは必然だ。間桐臓硯の願いが、全てを滅ぼすものならば、俺はそれを何としても食い止めなければならない。
俺は、正義の味方になるのだから。
故に何も思い煩うことなく、何も憚ることなく、■を殺すことが出来――――
――――君の願いは、ようやく叶う――――
「は、――っ」
吐き気が、止まらなかった。頭を掻きむしる。
どうして。
どうして――こんな時に。
あの神父の言葉が、脳裏にこびり付いて離れないのか――――
「違う、俺は――……俺はっ!」
何が違うというのか。お前の最も崇高な願いと、最も醜悪な望みは同じものでしかない。
正義を行使するには、敵対する悪が必要。それはどうしようもなく醜く、卑怯で、薄汚いほど素晴らしい。
さぁ喜べ、正義の味方。
ようやく待ち望んだときだ。何の憂いもなく、桜を殺した世界の敵を思う存分、想いのままにぶち殺せ。
これはお前が望んだことだろう、衛宮士郎――――
「俺は――――桜を殺す事なんて……」
望んでいないというのか。それは嘘だ。
善と悪はコインの裏表。なればこその必然、そうであるからこその蓋然だ。
お前が『ソレ』を目指すのであれば。お前が『ソレ』だというのならば。
この結果は――当然だろう。
なぁ、『正義の味方』よ――――
吐き気が止まらない。ざわざわと全身に立ち上る拒絶感。背徳感。矛盾。撞着。
――――いつかの神父の言葉は。
こうして、確固たる『呪い』として形を成した――――
現実が遠くなる。今起きている出来事が全て、彼岸の向こうにあるように錯覚してしまう。
闇に落ちる。全てを拒絶しようとする感覚が全身を満たす。
声が。何も届かない暗闇で、声だけが響く。
臓硯の声が響く。凛の声が響く。セイバーの声が響く。
そして、桜の声が。
だ、から……せんぱ、い。これは、誰のせいでも、ない。私の――――
ああ、誰のせいでもないかも知れない。
だが、これは、確かに衛宮士郎が望んだ結末なのではないかと――――
――――駄目だ。これ以上は、駄目だ。
ここがギリギリの分水嶺だ。ここは超えてしまえば。
衛宮士郎は、どうしようもないほどに――立ち行かなくなる。
衛宮士郎が崩壊してしまう。
なのに。
じぐじぐと、内側から少しずつ漏れ出すように――――声≠ェ響く。
間桐桜を殺したのは。
他でもない。
――――衛宮士郎の信じた正義の味方なのだと。
「あ――――ああぁぁ」
そう、衛宮士郎の理想はただの綺麗事。叶えることは不可能で、何を救うかも定まらない単なる偽善。
いつか必ず裏切られる理想論に他ならない――――
――――その瞬間だった。
衛宮士郎の全てが砕かれる寸前――有り得ない声がした。
内側からではない。明確に、明らかに、自分の現実から。
「ふむ。――――どうやら非常に……愉快なことになっているようだな」
その――声が。
聞こえる響きは鈴を転がしたように可憐。毎日のように聞いていた、だがもう聞こえないはずの声が。
重く、神託のように鳴り響いた。
現実に引き戻される。開けた視界は随分久しぶりに感じた。
凛がいる。セイバーがいる。臓硯がいる。
戦闘の最中だったのか――凛の手には宝石。セイバーの剣が何故か黒く変色していた。臓硯は桜の隣にいる。桜の体を操っていたのだろうか。その事実が、どこか他人事のように思えた。
しかし、今、時間が止まったように、皆、呆然としている。
その全ての視線の先には――もう止まって動かない。動いたとしても臓硯の操り人形でしかない、間桐桜が在った。
だが、それは有り得ない。
何故ならば、今、桜は笑顔を浮かべながら――間桐臓硯の首を片手で鷲づかみにしているからだ。
「私が殺す。私が生かす。私が傷つけ私が癒す。我が手を逃れうる者は一人もいない。我が目の届かぬ者は一人もいない」
それは――――果たして、どのような秘蹟なのだろうか。
「打ち砕かれよ。
敗れた者、老いた者を私が招く。私に委ね、私に学び、私に従え。
休息を。唄を忘れず、祈りを忘れず、私を忘れず、私は軽く、あらゆる重みを忘れさせる」
「ぐ、ギィィィ――――っ! 貴様、まさか……!!」
ぼ、と臓硯の体から黒い炎が上がった。
神託のように紡がれる呪文は確かに桜のものだ。
だが。
「装うなかれ。
許しには報復を、信頼には裏切りを、希望には絶望を、光あるものには闇を、生あるものには暗い死を」
その祈りはどこまでも、どこまでも、深海のように重かった。
まるで、深く懊悩する神父のように――――
「休息は私の手に。貴方の罪に油を注ぎ印を記そう。
永遠の命は、死の中でこそ与えられる。
――――許しはここに。受肉した私が誓う」
「か――かかかかかかっ!! そういうことか! そうか、あの中には確かにいたな……!! 英霊以外の黒く淀んだ魂が!! 六十億の絶望すら喰らったか!! 何というイレギュラー、何という異端! 何という化け物!! 貴様はそうまでして知りたいか! 己の意味を! 己が存在の証明を!!
――――ならば持っていけ! 我が数百年の妄執をも喰らうがよい!! 『世界の敵』よ!!」
呵々大笑しながら炎に包まれていく臓硯。
それを見て、『桜』は確かに。
ニヤリと。
静かに――――歪な笑みを浮かべた。
「――――この魂に憐れみを=v
紡いだ、瞬間だった。
黒い炎が爆発的に燃え上がり――臓硯の体を瞬く間に焼き尽くした。
そうして『桜』は胸、丁度心臓の上から手を差し入れ。
「無論、お前に言われるまでもない」
ぐしゃりと、何かを握り潰した。
ぞぞぞぞ、と『桜』の背後から黒い影≠ェ立ち上る。
異形の黒いヒトガタを従えて――――す、と面を上げこちらを向いた。
その顔は確かに桜のもので――――
「久しぶりだな……。まさかこのような形で再会するとは思ってもいなかったぞ」
――――衛宮士郎、と。全てに澄み渡る清冽なる声で、鈴を鳴らしたような声で、言った。
「桜……!?」
「いや、違います、リン。この魂の色は……!!」
間違いない。
第五次聖杯戦争の管理者にして参加者。裏切りの神父。衛宮士郎の天敵。
正真正銘の『世界の敵』――――
「――――言峰、綺礼……!!」
間桐桜の姿を纏った、言峰綺礼は実に嬉しそうに笑った。
こうして、俺の日常は崩壊した。
そうして。
全ての世界が崩壊する――――
◇
新暦81年 七月七日 危険指定世界 黒の世界
高町なのはは最初、その声≠ェ何を意味しているのか、理解できなかった。
――――始まりの刑罰は五種。
「ぐ――――っづ」
体を犯し尽くすイメージに身を捩る。
……何なの、これ……!
周りにあるのは暗黒だ。暗黒よりも暗い暗黒の中に、なのはは独りいた。
体に力が入らない。投げ出された手足に力を込めるが、微塵も動こうとしてくれない。
思考が働かない。
頭の中にイメージが浸食してくる。ノイズが走り、何もかもが空白に落ちる。
――――生命刑、身体刑、自由刑、名誉刑、財産刑、様々な罪と泥と闇と悪意が回り周り続ける刑罰を与えよ。
じりじりと脳髄が焼かれていく。浸食していくイメージは暗黒であり闇であり悪意であり、この世の真理だった。
『断首、追放、去勢による人権排除』『肉体を呵責し嗜虐する事の溜飲降下』『名誉栄誉を没収する群体総意による抹殺』『資産財産を凍結する我欲と裁決による嘲笑』死刑懲役禁固拘留罰金科料、私怨による罪、私欲による罪、無意識を被る罪、自意識を謳う罪、内乱、勧誘、詐称、窃盗、強盗、誘拐、自傷、強姦、放火、爆破、侵害、過失致死、集団暴力、業務致死、過信による事故、護身による事故、隠蔽。益を得る為に犯す。己を得る為に犯す。愛を得る為に犯す。得を得るために犯す。自分の為に■す。窃盗罪横領罪詐欺罪隠蔽罪殺人罪器物犯罪犯罪犯罪私怨による攻撃攻撃攻撃攻撃攻撃汚い汚い汚い汚いおまえは汚い償え償え償え償え償え償えあらゆる暴力あらゆる罪状あらゆる被害者から償え償――――
……う――るさい……! 黙れ黙れ黙れ! 私が聞きたいのはアナタの声じゃない……!
目蓋を焼くのは人間というモノの本質だ。
人の罪、人の業。ありとあらゆる人間の悪意を見せられる。
悪意の総意。悪意の創意。悪意の相違。悪意の相異。
絶望が全身を犯し尽くす。性悪説のこれ以上無い証左に蹂躙される。
それはつまり。
人間は醜いという、どうしようもない確信を永劫に見せつけられているということだ。
――――え『この世は、人でない人に支配されている』罪を正すための良心を知れ罪を正すための刑罰を知れ。人の良性は此処にあり、余りにも多く有り触れるが故にその総量に気付かない。罪を隠す為の暴力を知れ。罪を隠す為の権力を知れ。人の悪性は此処にあり、余りにも少なく有り辛いが故に、その存在が浮き彫りになる。百の良性と一の悪性。バランスをとる為に悪性は強く輝き有象無象の良性と拮抗する為兄弟で凶悪な『悪』として君臨する。始まりの刑罰は――――
「うるさい――て、言ってんでしょうがっ!!」
ばぎん、とさび付いた喉を動かし、叫ぶ。
リンカーコアを半ば無理矢理回転させる。魔力抵抗が高まり、僅かながら全身に力が戻る。
がんがんと頭を焼く熱を無視し、手を伸ばした。
なのはの前方――微かに光る、その輝きに手を伸ばす。
……届け。
――――五種類。自分の為に■す自分の為に■す自分の為に■す自分の為に■す自分の為に■す自分の為に■す自分の為に■す自分の為に■す自分の為に■す自分の為に■す勧誘、詐称、窃盗、強盗、誘拐、自傷、強姦、放火、侵害、汚い汚い汚いおまえは汚い償え償え償え償え償えあらゆる暴力あらゆる罪状あらゆる被害者から償え償え『死んで』償え!!!!!!!
届け――――!
お、という音を伸ばした叫びが、空間に走り、なのははその光≠掴んだ。
瞬間。
――――助けて――――
という声が響き、そして。
脳髄に、その声≠ェ叩き込まれた。
助けて助けて助けてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテコワイ恐いコワイ恐いコワイ痛い痛いイタイイタイいたいいたいわたしここに居たいのにわたしこんなに痛いのにどうしてどうしてどうしてどうしてどうして誰も一人も独りもわたしとあなたときみとだれかを助けてくれないのもう嫌もう嫌もういやもういやもういやなにもないここにはなにもないいや全てがあるからこそ何もない全てはゼロでゼロが一で一が全てでそれこそが全てでこの悪意がこの憎悪がこの憎しみがこの憤怒が責めて責めて責めて攻めて攻めてせめてくる駄目駄目駄目だめだめだめこんなのに耐えられないたえられないたえられないたえられないお願いだからもうこんなのを私に見せないでよぅ……!
――そんな、こんなことって……!
怖気が走った。戦慄を超えた絶望が全身を泡立たせ、ふつふつと鳥肌が駆け抜ける。
「嘘だぁぁあああああああああああああ――――っ!!」
なのはは全身を振るわせ、拒絶の雄叫びを上げた。涙が零れ、暗闇に飛沫いた。
直後、レイジングハートが輝く。
暗闇と光が満たす空間の中、赤い宝珠の光が亀裂のように駆け抜ける。
みしり、と暗闇が軋み。
そして殻を破るような音が響いた。
なのはを飲み込んだ黒い影≠フ砲撃に亀裂が入り、閃光が走った。
ばきん、という音と共に、黒い破片を撒き散らしながら砲撃が砕け、その中からなのはが姿を現した。
「あ……ぅ」
なのはは息を吐きながらも、アクセルフィンで落ち行く体を安定軌道に乗せる。
ゆらりと揺らめく目の前の黒い影≠ェ、再びなのはを飲み込もうと、その触手のような腕を伸ばした。
反射的にレイジングハートを向ける。魔力光が瞬き、砲撃が撃ち放たれようとする。
しかし、ぴたりとそこで動きが固まった。
は、という音が口から漏れ、かたかたとレイジングハートが震えていた。
顔には苦悶の顔が刻まれている。眉尻が下がり、口からは息が漏れ、目には涙が浮かんでいた。
震える砲口から何も放たれないまま、黒い影≠フ触手が伸びる。
その時。
「なのはちゃん!?」
シャマルの声が響き。
『自動防衛機構:――発動します』
レイジングハートになのは自身がプログラミングした自動防衛プログラムが働き。
燐光を散らせながら燻っていた桃色の砲撃が放たれ、黒い影≠撃ち抜いた。
「あ……ああ……」
なのはの顔に、目を見開いた呆然とした表情が浮かび、その体がふらりと揺れ。
落下した。
「――――っ! クラールヴィント、お願い!」
シャマルは大地すれすれで、なのはの体を受け止め、魔法を走らせた。
きん、と二人を囲むように線が走り、空間が区切られた。
結界だ。何発もの黒い影≠フ砲撃がぶつかるが、その全ては結界に阻まれ、黒い燐光を散らしながら砕けた。
「なのはちゃん、一体どうしたの!?」
黒い影≠睥睨しながらも、僅かに顔をなのはの方へ振り向かせる。
なのはは蹲り――――は、という息の連続音の後。
吐いた。
何もかもを拒絶するように、自分自身の行いを否定するように、なのはは吐く。
「が、は・あぁ。う、うぅううううううう」
吐瀉物が大地を汚していた。全身を戦慄いていた。
なのはは胃の中のものを全て吐き出す。吐瀉の音と咆吼が混じり、拒絶の声が響く。
「なのはちゃん! なのはちゃん!! 大丈夫? 一体――アナタは何を見たの!?」
シャマルの声が、耳朶を打つ。がぁんがぁんと砲撃を結界が弾く音が聞こえる。眼前には無数に近い黒い影=B
――助けて――
ああ。
――……なんて、地獄だ。
「シャマル、さん……」
結界の維持に力を割いているシャマルに背を向け、なのははぽつりと呟いた。
顔だけ振り向いている状態のシャマルは、その顔を見た。
涙と吐瀉物に塗れるその顔に――薄い笑みが浮かんでいた。
……自嘲――ではないわね。これは――――
自虐。
そう思った瞬間、なのはは静かに事実を告げた。
「シャマルさん。
――――黒い影≠ヘ、人の魂そのものです。
絶望の魔に囚われ、今も咀嚼し続けられている人間なんです……!!」
泣きながら、笑いながら、絶望しながら、なのははシャマルにそう言った。
は、とシャマルは目を見開く。
「黒い影≠ェ――人間、ですって……!」
確認するように目の前を見据える。
おおぉぉぉおおおおおうううう。
黒い影≠フ鳴き声。
――……もしかすると、これって、鳴き声ではなく、泣き声……?
鳴き声。泣き声。嘆き声。哭き声。
その事実は。
果たして。
一体。
何を意味しているのか―――――――
イメージは弾丸。
発射され、頭部を吹き飛ばし、脳漿と鮮血が舞う。
イメージは獣。
噛み砕き、腹部を食いちぎり、内臓と鮮血が舞う。
イメージは芝刈り機。
裁断し、体中を切り刻み、骨と脳髄と心臓が吐き散らかされる。
イメージは毒薬。
飲み込ませ、食道を焼き尽くし、内臓がドロドロに溶かされていく。
つまり。
……私達がやってきたことって、そういうことなの……!?
シャマルの頬に、つぅと悪寒から来る冷や汗が流れた。
なのはは自虐の笑みを浮かべながら、目の前を見つめた。
おおおぅうううと嘆く黒い影=B助けて、と今も叫び続ける救われぬ魂。幾億の悪意に永劫に晒され続ける、視界を埋め尽くすニンゲン達。
溶かされ、それでも一つの悪意の元に動き続ける無限の残骸=B
それが黒い影≠フ正体だった。黒い影≠ヘ間違いなく――『ヒト』に他ならなかった。
今まで自分が、自分たちがしてきたことに、なのはは愕然とする。
あまりにも大きい罪の形。だが、同時に、なのははそれから逃れる方法も知っていた。
簡単な話だ。
黒い影≠ニンゲンとして扱わないようにすればいい。元より既に人間としての原型をこの上なく逸脱している。これをヒトとして見なさないのは簡単だ。むしろ、ヒトとして定義しないのが通常の思考。
けど、となのはは思う。
ぎりぎりと奥歯を噛み締め、ばきんと欠けた。
……それは、それだけは……!
しては、いけないこと。
誰かの記憶を転写された人工生命。戦うためだけに作られた戦闘用プログラム。かつての人間の遺物からクローニングされた聖王の器。体に機械を埋め込まれた戦闘用兵器。
その全てをニンゲンとして扱うのならば、それだけはしていけない。
すれば、終わってしまう。今まで積み上げてきたモノが全て無くなってしまう。
それは。
それだけは――――
「うわああああぁぁああああああああああああああ――――っ!!」
なのはは叫び、いつものように全力全開で、砲撃を撃ち放つ。
スターライト・ブレイカー。
無機質なレイジングハートの声が響き、桃色の太陽が顕現し、大気を圧し潰さんと走る。
前方の黒い影≠ェ蹴散らされ、全身を千切れさせ、破砕され、破壊され、破滅された。
黒い影≠ェ消滅していく。
ニンゲンが、終わっていく。
なのはは一生、この罪を背負っていこうと。
思い、泣き叫び、銃爪を引いた。
がきん、と薬莢が排出される音が虚しく響く。
◇
虹色のディバインバスターが一直線に大気を走り、黒い太陽≠ノ直撃する――その寸前。
アーチャーによって放たれた偽・螺旋剣≠ェ鈴の目の前で炸裂した。
壊れた幻想=\―膨大な魔力が詰まったソレに亀裂が入り、爆発四散する。
ディバインバスターを放った鈴に避ける術はない。
音を追い抜き、膨れあがった熱と風が鈴の体を打ち付ける。
……――――!
声を上げる暇もなく、鈴は吹き飛んだ。
そして――がぁんと壁に叩き付けられ、そのまま塔≠フ外へとその身を投げ出した。
落下する。
「鈴――――っ!」
景色が流れ、士郎とスバルの叫びがフェードアウトしていく。
……こりゃ、流石にヤバイかもね。
鈴は、ようやくそれだけを思う。
体中が火傷・打ち身・裂傷によって痛みで軋んでいる。左腕と肋の何本かが折れていた。
何とか動こうとするが、激痛と出血によって、まともに力が入らない。
す、と掌から杖が滑り落ちた。
意識が断続的になる。吹き抜けていく風を受けて、「冷たいな」と呟いた。
後幾ばくもしない内に、鈴は地面へと叩き付けられるだろう。数百メートル近い高さの前では、バリアジャケットも無意味。そして、落下死という運命に抗う術を、鈴は今持っていなかった。
……なのに、何も感じないのは、何でなのかしらね。
思い、笑みを浮かべた。
未練など山のようにある。死にたくないという想いに代わりはない。
それでも。
――……あの二人なら、ま、大丈夫よね。
その言葉が、全ての感情を上回っていた。
視界の遠く、離れていく塔≠フ頂上が、軋み、大きく震える。
……馬鹿みたいだなぁ、私。
は、と息を吐く。
あんなにも嫌い嫌いと喚いていたのに――いざソレを否定されると、怒りを感じるなんて。
――――私は、そんな父親を、誇りに思っている
目眩と鈍痛がフラッシュバックのように繰り返す中、鈴はその言葉を思った。
……まさか私の口から、あんな言葉が出るなんて、ね。
結局――答えなんてそんなモノなのかも知れない。
人と人が完全にわかり合えることなんていうのは幻想だ。ましてその人間が死んだのでは、なおさら。
だから問題は――その後。差し向けられた感情に、どう自分が向き合うかということではないだろうか。
呈示された正義の味方という存在に、価値を決定づけるのは自分次第。肯定も否定も、是も非も、善も悪も――全ては己の世界におけるラベリング行為にしか過ぎない。
そこまで考え、ふ、と鈴は笑った。
……そんな小難しいことじゃなくて。要するに――さ。
「好きなんだから――仕方ないじゃない。ねぇ?」
一緒に居て。一緒に戦って。一緒に話して。一緒に――笑って。
一緒の理想を歩いて。
いつの間にか、好きになってしまったのだ。衛宮士郎という存在を。
愚直なまでに一直線に生きるその姿を応援したくなってしまった。
詰まるところ、そういうことなんだろう――と鈴は思った。
……母さんも、こんな気持ちだったんだろうな。
家庭を持ちつつも、正義の味方という生き方を貫いた父。それを支えようとした母。
皆が皆、自分が思うように、ただあるがままに生き抜いた。ただそれだけ。ただそれだけだった。
何故、正義の味方を目指したのかは未だに分からない。そんな周りを顧みない理想に意味があるとは思えない。
でも、本人には何事にも変えられないほどの価値があって。そして、それを貫き通した、その人生は――――多分、尊いものなのだろう。
そして、自分はその生き方を誇りに思っていて。自分も、そんな生き方をしてみたいと思っている。
その事実は、きっと揺るぎのない、大切なモノだろう。
……そうよね。
偽善でも何でもいいよ! 私が歩くこの道の先に――――誰かの笑顔があるならば
スバル――――。
――――私は、それでいい。それだけでいい。それだけで、戦っていける
願わくば、彼女のような、父のような、母のような――衛宮士郎のような。
そんな生き方を。
してみたいと――鈴は思った。
思って、いた。
「……答えっていうには少しばかり不格好だけど――ま、いいや」
だって、こんなにも、気分が良いんだもの――――
落下していく中、鈴は笑って、その意識を閉じようとした。
――――瞬間。
「おいおい――諦めるなんて、うちのお姫様らしくないなぁ?」
声がして、鈴の直下に、ミッドチルダ式魔法陣が描かれた。
「え……?」
ふわり、と体が空中で静止した。驚きに目を見開いていると。
そ、と抱きしめられる感覚が来た。
背中を掌によって支えられている感触。顔を上げると、そこには。
「……よぉ。どうやらハブにされちまったようだな」
と笑う――鈴が所属する第1039航空部隊のもう一人のエース、ロイド・レゲットアーレンがいた。
傷だらけ血だらけの顔で、鈴に笑いかけている。蒼のバリアジャケットも、泥と血に汚れ、所々裂かれていた。
鈴は、ふ、と笑って。
「――ええ。お互い様にね」
「は、思ったより元気そうで何よりだ」
茶髪の逆毛を風になびかせ、ロイドは言った。
続いて。
「鈴ちゃーん! 鈴ちゃんのデバイス、拾っておいたからねー。貸しにしといてあげるから、今度昼食奢ること!」
白色のローブを着た、薄い栗色のショートボブの眼鏡の女性――シェルド・ハリスの声と。
「……どうやら少しは吹っ切れたみたいだな。いい目をしている」
黒色のローブの厳ついた体格、短く刈り込んだ黒髪の男性――ナオト・タナカの声が、下から聞こえた。
二人だけではない。
鈴とロイドの直下――黒い影≠ニ戦う第1039航空部隊の面々が見える。
皆が皆、ボロボロの姿だが、それでも鈴を見て笑っていた。
鈴にとって、掛け替えのない仲間達がそこにいた。
ロイドが鈴の体を抱き留めながら言う。
「さぁ、行こうか、鈴。メインステージは主役に譲ってさ。俺たちは俺たちで――きちんと脇役を全うしようぜ?」
……脇役、か。
「そうね、その通りだわ。ロイド。きっと今回の私の役割は全て終わった。後は主人公の出番だわ」
地面に降り立ち、シェルドの身体治癒魔法を受けながら、鈴は塔≠フ頂上を仰いだ。
黒い魔力が激動し、風と衝撃を撒き散らしている。
黒い太陽≠ヘ――今だ健在だった。むしろその脈動を早くしている。
……何にせよ、私に出来ることは、もう何もない。だから。
「――――任せたわよ。正義の味方さん」
見事世界を救って見せて――と鈴は薄く笑みを浮かべた。
◇
新暦81年 七月七日 危険指定世界 黒の世界=@塔=@最上階
「あぁ……!!」
叫んだ。
撃った。
走った。
打った。
砕けた。
それを繰り返す。
「ふ……!」
アーチャーがスバルに向けて掌を突き出す。呼応するように周辺の剣が抜かれていき、腕の先に集まっていく。
切っ先は正面に。漲った殺意が弾けた。
大気を突き抜けていく幾十にも列なる刀剣類。その中には伝説の中にある聖剣魔剣妖剣が混じっている。
突っ走ってくるそれらをスバルは見る。
ふぅ――と長い息を吐き、呟く。
「IS、振動破砕=c…!」
ぎちりと金色の瞳で前方を睨み、足下に展開させている蒼い羽根を羽撃たかせた。がきんという音が連続して響き、空の薬莢が地面に落ち、乾いた音を立てる。
加速した。
固有結界無限の剣製=B剣の墓標の中を、駆け抜ける。
迫る刃。振りかぶる。
お、という音共に、拳が突き出される。水蒸気が流れ、足下の幾何学状の魔法陣が不規則に蠢いた。
激突。
大気を振るわせる重低音と、耳に突き刺さる高音が、同時に響いた。
「む……!」
アーチャーは僅かに顔を顰める。
剣を引き寄せ、掴み、突き入れ投げた。
宙を突っ走っていくソレは必ず傷を付ける≠ニいう概念を持った宝具だ。
剣は刹那の内にスバルの眼前まで走り。
「はぁ――――っ!」
砕かれた。
必ず傷を付ける魔剣は、その役目を果たすことなく、欠片を散らせ、消えていく。
ふ、とスバルは息を吐いた。左半身を前に、右手を奥に持っていく。金色の瞳は真っ直ぐアーチャーを見つめている。ジャケットがはためき、鉢巻きがたなびいた。
ナックルスピナーが回転し、鉄の腕が、ちりちりと大気を削っている。
その現象の意味を、鷹の目を持つアーチャーは理解する。
「なるほど。概念は物理法則によって駆逐される。――その右拳は究極の破壊を内包しているという訳か。かなりの力業だが、しかしこれ以上の打開策はないだろう。投影物に対する天敵。それがお前の正体か、スバル・ナカジマ」
IS振動破砕=B共振による対象の破砕。超振動による分子の切断――それがスバルの振動拳≠セ。故にスバルに破壊できない物質などない。
アーチャーの投影。それは既にこの世にはない物質を、魔力で編むことによって顕現させる現象だ。
宝具ですらも真似る事の出来る究極の幻想。だが、それには致命的な弱点が存在する。
全てをイメージで構築するため、そこに綻びが生じれば、幻想は崩壊する。元々魔力によって編まれた物質だ。幾ら宝具をも模倣しきるとはいえ、それは幻想物でしかなく、砕かれ、消滅してしまえば、いかな概念を宿していようとも意味を為さない。因と果はセットだ。果がゼロならば、因もゼロになるのは自明の理。砕かれた時点で、世界から修正を受け、その宝具はなかったこと≠ノされる。概念もその存在も全て無にリセットされる。
だが、アーチャーの投影は完璧に近い。工程に無駄はなく、簡単にその因は崩壊しない。
しかしもし――全ての物質を破壊するようなモノがあれば。その前提は無意味なモノとなる。
物理法則とは世界の法則。概念の格上にあるものだ。英霊とはいえ、高々一個人が編んだ幻想程度では、概念でしかない以上、全てを破壊する≠ニいう法則に太刀打ち出来るはずもない。
これが真っ当な英霊の宝具ならば、ここまでの事態にはならない。物質として存在している以上、宝具は同格として、存在上として、物理法則を宿している。厳然として存在≠オているのだ。仮にぶつかり合ったとしても――同じ法則を宿している以上、完全にその幻想が砕かれることはないだろう。
だが、アーチャーの投影は所詮贋作に過ぎない。その全ては魔力によって編まれている。
つまりスバルの右拳に全てを砕く≠ニいう物理法則を宿している以上、アーチャーの投影は、いかなる宝具を真似たところでそれを覆すことが出来ない。
幻想に対する天敵。
絶対破壊の力。
贋作を砕く本物。
概念に真っ向から敵対する法則。
我が拳は全てを打ち貫く=B
それが、スバルの拳に宿る力の正体だ。
「――だが、その力が宿るのは右拳だけ。さて、その腕一本でどこまでやれるかな」
ふ、と皮肉気に笑うアーチャー。
ぎしり、とスバルは拳を握りしめた。
「……そんなこと言われたって、私にはよく分からないよ」
理屈なんて分からない。
ただ。
「あるのは、この拳で今までどんな状況でも切り抜けてきたという自信だけだ。この拳は――壊すためじゃなく、守るための力! 悲しい運命を打ち貫く力という確信だけだ!
――――だから、アナタの諦観も私が打ち砕いてみせるっ!!」
――アンタ、諦めたの?――
――ああ――
アーチャーは一瞬息を呑むが、再び笑い。
「よくぞ言った、我が天敵。我が絶望を砕き、お前が望む結末へと辿り着いて見せろ……!」
真っ黒な外套をはためかせ、数十にも及ぶ剣を丘から引き抜き、そして、ぶつけた。
激突する。
贋作と真作が、真正面から激突する。
◇
「おお……!」
鋼が砕かれる音と大地を踏み砕く音とスバルの叫びが連続して響く。
数十の剣が大気を切り裂き、スバルへと迫る。
それを数本ごと右の拳によって砕くが、捌ききれない何本かが体を擦過し、突き刺さり、血が飛沫いた。
それでも関係ないとばかりに、スバルは突っ走る。
叫ぶ。
「――マッハキャリバー!」
翼の道。
無機質な声と共に、スバルの足下から蒼い道が伸びた。
それは一直線に伸びたかと思いきや、途中で曲がり、そしてアーチャーを取り囲むように展開される。
蒼い道が――まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされた。
走る。足下の蒼い翼がバサリとはためき、速度が生まれる。
加速。
光と共にスバルは駆け、拳を繰り出し続ける。
砕き砕き砕き――砕き続ける。無限に射出される刀剣を、スバルは砕き続ける。
「……」
アーチャーは無言で、ただ剣を撃ち続ける。
スバルは球状に展開されたウィングロードを駆け抜けながら、八方から襲い来る剣を砕きながら、思う。
――……踏み込めない……!
スバルの得意とするのはショートレンジ。近距離戦だ。
だが反対にアーチャーが得意とするのは、弓兵の名の通り、ロングレンジ。
その間合いの差はどうしようもなく絶対だ。
無論、スバルにも――ロングレンジとはいえないが――ミドルレンジ級の射撃魔法はある。
だが――それを撃つにはあまりに隙がなさ過ぎた。射出される剣を捌くだけで精一杯。右拳で剣を打ち払うだけしか出来ない。
僅かでもそれを疎かにすれば――串刺しにされるのは明らかだ。
それを分かっていながらも、スバルは行く。
拳を繰り出し、剣を砕きながら――スバルは行く。
結果――少しずつ、少しずつ、削るようにその距離を縮めていた。
スバルが倒れるのが先か。スバルが打つのが先か。
これはつまり、そんな勝負だった。
どうしようもない絶対的な現実を前にして、無限の刃を体に突き立てつつも、愚直なまでに道を邁進するその姿。
まるで――何処かの誰かのようだった。
ぎしり、と奥歯を噛み締め、アーチャーは更に剣戟を飛ばす。本数は更に増し、右拳一本では捌ききれない。
捌ききれなかった刃が体に突き刺さった。目前に迫った剣が爆発四散し、熱と衝撃が全身に走った。
それでも――その足は確実に、着実にアーチャーとの距離を縮めている。
咆吼する。
「おぉぉおおおぉおおおおお――――っ!」
スバル・ナカジマは止まらない。
スバル・ナカジマは倒れない。
右拳に宿る信念が故に。
本物の正義の味方故に。
どんな魔剣を繰り出しても。
壊れた幻想≠行っても。
無限の剣を前にしても。
スバル・ナカジマは――止まらない。
決して、止まらない。
……これが――本物か。
打算もなく、勝算もなく。ただ人を救うために、世界を救うために、一心に駆け抜ける。
その専心は全て――誰かを救うことに向けられている。
倒れない。
このままでは、どう足掻いても、スバル・ナカジマを打ち倒すことは出来ないと、アーチャーは瞬間的に悟った。
だから。
「I am the bone of my sword」
その呪文を口にした。
黒い弓が現れ、ぎちり、と捻れた剣が番えられた。
アーチャーの必殺の一撃――偽・螺旋剣≠セ。
「……っ!」
瞬間、スバルは僅かに開いた時間の間隙を縫い、アーチャーの頭上へと駆け上がる。
ぎりぎりぎりと右腕が甲高い金属音を断続的に鳴らす。
視線がかち合う。
見上げるアーチャーの鷹の目と。
見下げるスバルの金色の目が。
絡み合い、混じり――弾けた。
スバルがウィングロードを蹴りつけ、直下へと落下する。
アーチャーは真上に射線を合わせ――――
「――――偽・螺旋剣=v
真名を解放し、その指を離した。
ご、と大気を切り裂く音が響き、水蒸気の尾を引いて――螺旋剣が空間を捻り殺しながら突っ走る。
……我が剣がお前を捻殺するのが先か、お前が我が剣を打ち砕くのが先か。
「勝負だ――スバル・ナカジマっ!」
「――――!」
螺旋剣が迫る。
全てを捻り殺さんとばかりに大気を駆け抜ける。
それを真っ直ぐにスバルは見つめ――――
「……な、に?」
左腕を振りかぶった。
「お、お、お、おぉぉおおおおおあああぁぁああああああ――――――――――――っ!!」
そして、咆吼の後、スバルはそれを振り下ろす。
右拳ではなく――――左拳を。
激突する。
魔法陣が合間に展開されるが、直ぐさまガラスが割れる音と共に砕かれる。螺旋剣は左拳を抉り――そのまま肩口まで突っ走り、左腕そのものを持っていった。
バリアジャケットが破れ、肉片と機械の破片が宙に舞い、オイルと鮮血が飛沫いた。
それらを顔面に受けながらも――スバルはアーチャーから目を離すことだけはしなかった。真っ直ぐに真っ直ぐに、スバルはアーチャーを見つめていた。
そして――爆発。
左拳の激突で僅かに逸れた偽・螺旋剣≠ェ炸裂し、爆炎の華を咲かせた。
熱と衝撃がスバルの背中に叩き付けられる。痛みが全身を駆け抜け、軋みが砕きに変わっていく。
そして、同時に。
「……――――っ!」
爆破の圧を受けて――スバルの体が加速する。
直下、アーチャーに向かって、一直線に落ちていく。スバルはそこで右拳を、みしりと軋ませ――撃ち込んだ。
ぼ、という音共に水蒸気が流れ、アーチャーに走る。
……つまり――これが狙いか。左腕を、犠牲にして……!
「……ちぃっ!」
舌打ち一つ、右の掌をスバルの拳に向ける。
……間に合え……!!
「熾天覆う七つの円環=\―――っ!」
「……!」
スバルの目が見開かれる。拳がアーチャーに届く寸前だった。
直後、紅い赤い七つの花弁が展開された。
守る≠ニいう概念と砕く≠ニいう法則が、ぶつかり合い、火花を散らした。
じじじじ、と音を立てながら両者は拮抗する。
が――次の瞬間、びしりと熾天覆う七つの円環≠ノ罅が入った。
スバルは拳を開き、まるで花弁を掴み取らんとばかりに五指を開いていた。
その五指が――少しずつ花弁の中に落ちていく。先にいるアーチャーに手を伸ばすように、徐々に指を突き刺す。
「おお……!」
張り上げた声に比例し、ナックルスピナーもまた回転数を増す。金属同士を摺り合わした甲高い音が尾を引いて響く。
ひび割れが広がっていき、そして。
掴んだ。
ばりん、とガラスが大きく割れた音と共に、熾天覆う七つの円環≠ェ砕けた。
スバルは拳を振り上げる。
しかし。
……!
それを予測していたかのように、アーチャーの左手には干将・莫耶の一翼――陰剣・莫耶があった。
アーチャーは笑い――斬撃を走らせた。
右半身を戻し、アーチャーは左の莫耶を振るう。スバルにわざと砕かせるために。
……剣を砕いた、直後の隙を――頂く。
わざと隙を作り、そこに撃ち込ませる。それはアーチャーが培ってきた経験に基づく、戦闘倫理≠セ。
剣の才能のないエミヤシロウが、格上の相手を打倒するために編み出した戦闘スタイル。
元よりショートレンジはスバルの得意とする間合いでもあるが、それはアーチャーとて似たようなものだ。アーチャーというクラス上、ロングレンジよりは不得手である――というだけ。条件が同じならば、技量が上な分、アーチャーのほうが結局の所、有利なのだ。
人類の埒外に身を置く英霊に隙はない。
だが。
「おぉ……!」
そのことをスバル・ナカジマは身に染みて知っている。
アーチャーとアサシン――二体の英霊と闘い、衛宮士郎と精神リンクを果たしたスバルは、恐らく六課の誰よりも――サーヴァントという存在について知っていた。
自分がその存在と並び立ちうるには、それしかないと。
故に。
「おおおぉぉぉおおおおおおおおお――――っ!」
陰剣・莫耶を――砕かなかった。
ばつん、と腹から左肩にかけて、大きく切り裂かれる。スバルの体が真っ赤に染まった。
体を捻り、辛うじて致命傷を避けたが、そのダメージは大きい。
腹には大きな切り傷が幾本も走り、肩や足には刃が突き刺さっており、左腕を失った肩口からは肉と骨と合成繊維と機械仕掛けの歯車が覗いている。
その全てから鮮血を飛沫いていた。最早血に染まっていない場所など存在しない。
痛覚はとうの昔に麻痺し、意識が朦朧としている。
それでも――行く。
スバルは、行く。
肉を削り、骨を砕き、命を賭けて、足りない技量の全てを血で補って。
スバルの拳が――――
「……何」
だと、という言葉が発せられる前に。
殴った。
アーチャーの顔面にスバルの右拳が突き穿たれた。
振動破砕≠ナもなく、魔力を込めた拳でもなく。
ただの打撃で――スバルはアーチャーをぶん殴った。
「アーチャー! アナタは何も――諦めてなんかいないんでしょうっ!!」
その咆吼が真なる打撃だ、と言わんばかりに、スバルは叫んだ。
アーチャーの顔が、歪んだ。
スバルは一拍も置かずに、拳を連打する。その全ては――全く魔力を宿していない単なる打撃だ。
「正義の味方も! 誰かを救うという理想も! 何もかも!! アナタは、何も!」
顔に、胸に、肩に、腹に。全身に打撃が撃ち込まれていく。
これは単なる打撃にしか過ぎず、魔力を込めた拳よりも、当然数段落ちる。
しかし、アーチャーの顔はこの上ないほど歪んでいた。先ほど、魔力打撃によって殴られたときよりも、だ。
黒い影≠ノ犯されている全身を震わせて――スバルを睨み付けている。
がぎり、と奥歯を噛み締める音が響いた。
そうして、アーチャーも同様に、拳を振り上げ――――
「貴様に――――何が分かる!」
同じように、スバルを殴った。
「っ……!!」
サーヴァントの打撃は、どうしようもなくスバルを震わせる。衝撃が全身を駆け抜け、ただでさえボロボロの体が、更に軋みを挙げる。
だが。
「分からないよ! きっと――私なんかが分かるなんて言っちゃ駄目なんだ! でも、それでも、アナタは何も諦めていないというくらいは、分かる!」
スバルは引かない。
ただ叫びながら、右腕一本で、打撃を繰り返す。
「戯れ言だ! 衛宮士郎に何を吹き込まれたかは知らんが、この現状を見て、何故そんな寝言を吐ける!!」
スバルが殴る。アーチャーが殴り返す。
「お前達の世界に突然現れ! 蹂躙し! 殺し! 殺しつくし! 挙げ句の果てに世界を丸ごと崩壊させようとしている――元凶だぞ!」
殴る。殴り返す。
「それでもだよっ! だって、アナタは――鈴の質問に諦めた≠ニは言ったけど――――」
殴る。殴り返す。
「――――諦めているとは言わなかったじゃないか……!!」
殴る。殴り返す。
「は――そんな言葉遊びに何の意味があるっ! 言葉に何の意味がある! 現に俺は――お前の仲間を殺しただろうがっ! 惨たらしく、何の感慨も抱かず、ただ虐殺しただろう!!」
殴る。ぐらり、と僅かに揺れる。
「……!!」
殴る。後方に倒れそうになる。
「言葉など――行動の前には何の意味も持たない! 俺はお前の仲間を殺した! 幾人も幾人も数えるのも馬鹿らしいほど殺してきた!! その行動の前では、お前の言葉など、所詮遊びに過ぎないっ!」
殴る。――――。
「でも」
ぎゃり、と踏み止まる。地面を踏みしめ、ぎり、と瞳を真正面に向ける。
「――――私は生きている」
「――っ!!」
殴る。
「私は確かに生きて――此処にいる! アナタが助けてくれたから! あの時、アサシンに殺されそうになる直前に、私は確かにアナタに救われた!!」
殴る。殴る殴る殴る。
「それだけじゃない! アナタは教えてくれた! 傲慢者と!! 私の――醜悪な部分を、自覚していなかったことを、教えてくれた! そのおかげで、私は今、此処にいる!! 倒れずに、こうしてここに――――!!」
殴る。ひたすらに打撃が続く。
「それに――――鈴だってそうだ! アナタはさっき鈴を殺すことも出来たはずだ! でも、そうしなかった!! 鈴は確かに――生きている!!」
殴る。ただ、ひたすらに殴る。
届け、と願いながら。
「そうだ! 本当は――――アナタは何も、誰も傷つけたくないんだ!! そうしなくちゃいけなくて、でもそれが許せなくて。だから……!!」
「――――」
「アナタはまだ――正義の味方なんだよっ! アーチャー!!」
ご、と。
一際大きい打撃が、アーチャーの顔面を殴り飛ばした。
弾かれるように、アーチャーは蹈鞴を踏んだ。スバルはぜぇぜぇと蠕動を繰り返す。
ごごご、と無限の剣の丘が揺れていた。
「自分を――自分たちを止めて欲しいんでしょ……。だったら私達と一緒に行こう。なのはさんや他の皆がいる。士郎だっている。きっと何とかなるよ――だから……行こう」
スバルは笑った。朗らかに――いつもの笑顔で、笑った。
世界が崩壊しようとしているのに。それを止めることが出来るのはスバルしかいないというのに。
それでも――スバルは笑った。アーチャーに、笑いかけた。
朱に染まっている鉢巻きが揺れていた。
それらを見つめながら。
「――――正義の味方……か。なるほど、なるほど」
ぎし、と拳を握りしめた。
アーチャーはシニカルな笑みを浮かべる。
「戯れ言だ。お前の言っていることは全て――綺麗事でしかない理想論に過ぎない。そんなに美しく、都合良く、世界は出来てはいない。お前のそれは偽善に過ぎない。そんな偽善では――――何を救うべきかも定まらない」
拳を振り上げた。その拳の先に――影≠ェ浮き出た。
ぞわりと。立ち上る蒸気のように、右拳に歪な影≠ェまとわりついた。
スバルはそれを静かに見つめ、アーチャーと対になるように拳を振り上げる。
「偽善でもいい。戯れ言と笑われても構わない。信念とも呼べないかもしれない。偽善ですらないかもしれない。単なる自己満足に過ぎなくて、私の我が儘でしかないのかもしれない。でも、この先に。一人でも良い。――――誰かが、笑っている未来があるなら。
私は、それだけでいい。それだけで私は、私の傲慢を貫き通していける」
にぃぃ――っとアーチャーの口元が吊り上がり。
「よくぞ言った、傲慢者よ!! さぁ、果たして――これを受けた後、なおそう言っていられるかっ!!」
「っ――――!!」
アーチャーが拳を撃ち出す。
スバルが拳を撃ち出す。
全くの同時。
いっそ心地よいほどの快音を打ち鳴らして――――両者の拳が激突した。
12 / ヒカリ EMIYA_T
――――誰がために鐘は鳴る。
Index of L.O.B
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