最初に感じたのは、灼熱の痛みだった。

 燃えている。
 燃えている。
 ありとあらゆる命が燃えている。
 それはさながら地獄の釜だ。
 ――――何故、と。
 自問しながら歩く。
 ��何で、僕はこんなところに居るのだろう��
 それは当然の疑問だ。いつものように学校へ行き、いつものように友人と会話し、いつものように夕食を食べ、いつものように両親にオヤスミを言い、いつものように眠りに就いた。
 なのに、どうして自分は、いつものようにいつもの場所に居ないのだろうか。
 日常は突如崩壊し、奈落の底へと突き落とされた。非日常と呼ぶには理不尽過ぎ、それを受け入れろというには理不尽すぎる。
 つまり、この世界はあまりにも理不尽すぎた。
 その問いは自らだけではない。周りが燃え果てている、その過程。全ての命がそう問うていた。世界の理不尽に対して、そして――――目の前の少年だけが生きていて、自らが朽ちているという現実の理不尽に対して。
 こんなのは夢だ。悪い悪夢《ゆめ》だ。ワタシが死ぬなんて有り得ない。オレが死ぬなんて有り得ない。ボクが死ぬなんて有り得ない。ワシが死ぬなんて有り得ない。有り得ない有り得ない有り得ないアリエナイアリエナイ。
 ――――オマエだけが生きているなんて有り得ない。
 ああ、なんて。
 悪い、現実(ゆめ)なんだろう――――――――
 
 その声を、踏みつける(・・・・・)。
 歩く。
 踏みつける。
 歩く。
 踏みつける。
 歩く。
 踏みつける。
 死の中で、歩き続ける(・・・・・)。
 生の中で、踏みつけ続ける(・・・・・・・・)
 ――――御免なさい。
 歩き続ける。
 踏みつける。
 亡くす。
 ――――ごめんなさい。
 歩き続ける。
 踏みつける。
 亡くす。
 ――――ゴメンナサイ。
 歩き続ける。
 踏みつける。
 亡くす。
 ――――ごめ

 そうして、遂に倒れた。

 感覚(め)を亡くし、感触(て)を亡くし、意識(こえ)を亡くし、自我(こころ)を亡くした。
 滅びの中で、一人生き続けて、踏みつけながら生き続けて。助けてと言われても、そんなことは出来なくて。考えることなんか何もなくて。ただ死ぬのが怖くて。こんな痛い体じゃ何も出来なくて。だから。
 自分に出来る事なんて、謝ることだけだったんだ。
 
 地獄の荒野の中で歩き続けて、そうして求めた救いは何処にもなかった。

 死に行く他人への救いも。
 それを踏み続ける自分への救いも。
 何処にもなかったんだ。
 ――――ただ、在ったのは。

 その地獄を撒き散らした張本人への救いのみだった。

 目の幅一杯に涙を流し、��よく助かってくれた�≠ニ泣いている男の姿が、視界に映った。
 何度も何度も夢に見た姿。繰り返し見たその姿は既に脳裏に刻まれ、衛宮士郎の核になっている。
 そう、核だ。
 衛宮士郎の行動原理・信念信条・夢希望本望渇望欠望熱望――――理想の出発点にして終着点。それが、荒野の果てにある男の顔だった。
 幾度確認したか分からない、その事実を。

 「……………………止めてくれ」

 ――――――――士郎は初めて、己の意志で、否定した。

 ふ、と視界が闇に墜ちる。業火も、地獄も、男の笑顔も、空間も、己の感触すら、全て虚空の彼方へ墜ちた。
 紅蓮の荒野から、暗黒の荒野へ。
 現れたのは、縁側に佇む父親。
 『ああ――――安心した』

 「止めてくれ」

 次に現れたのは、共に闘った騎士王の姿だった。

 『これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。
 ――――ここに、契約は完了した』

 そして、傷つき、倒れる彼女の姿。

 「止めてくれ」

 現れたのは、冬の城で息絶えようとしている、血まみれの白い少女だった。
 俯いていた顔を上げ、慌ててその手を挙げる。
 手を伸ばした姿は誰かを救おうとしているようで。
 ――――自らが救いを求めているようだった。
 だが、その行為は突如現れた金髪の男に遮られる。
 ぐちゃり。
 男は笑いながら、少女の心臓をえぐり取った。
 笑いながら、嗤いながら、こちらを向く。

 ほら(・・)、救えなかっただろう(・・・・・・・・・)?

 ニヤリと。狂気に彩られた嘲笑の声が、暗黒の荒野に響き渡る。
 心臓を抉り取られたはずの少女も倒れたまま、こちらを向き。

 お兄ちゃん、どうして助けてくれなかったの?

 血の涙を流しながら、そう訴えた。

 「止めてくれ……………………!!!!!」

 今まで犯してきた罪。積み上げてきた業。救えなかった数々の悔恨(かこ)が士郎を責め続ける。
 己が罪の象徴。それが次々に具現化していき。
 そして。

 ―――――――――理想を抱いて、溺死しろ。

 それらは最大の業を形作った。
 赤い外套が無風の中ではためき、苦悩の声を放つ。
 それは男の悔恨であり、同時に。
 衛宮士郎自身の心の叫びでもあった。

 『だから言っただろう。お前がその道を行く限り、オレになると。過去によって摩耗し、その果てに自身を憎むようになると』
 「……違う」
 『何が違う。お前は確かにオレを超えた。��夢幻投影�≠�可能にし、理想を更に強固に固めた。
 ―――――だが、それは所詮、オレの延長線にあるものに過ぎない。お前の信念(けん)は外層ばかりが硬く、芯が伴っていない。そんなもの、いつか折れることなんて目に見えているだろう?』

 ��お前が、この道を間違えないというのなら―――――��

 あの冬の城。最強の剣を投影したときに聞こえた声。
 この道。正義の味方になるという理想への道。
 ……オレは、間違ったのか。あの時の誓いは、既に破られてしまったのか。

 『―――――それも違う。元より、正義の味方になるための道など存在しない。故に、その道は、これからお前が見つけるべきだ。だから、��まだ�#jられてはいない。が、このままだと、それもいずれ破綻するのは目に見えているがな』

 ふ、とアーチャーが自嘲する。
 この身は未だ理想には届かず。その道は闇に溢れている。
 ばさり、と赤い外套が背を向ける。

 『体は剣で出来ている(・・・・・・・・・)、か。結局お前も、それに縛られ続けるのだな―――――』

 そう言って、赤い外套は静かに消えていった。
 呪文の詠唱。己を体現させた唯一無二のフレーズ。
 その言葉は呪いだと。そう断言して。

 ��その、たった一言だけが、貴方を今も縛り付けている��

 「―――――あ」
 否定された。
 己が全て否定された。
 今まで積み上げてきたはずの理想思想夢想空想追想―――――その全てが否定された。
 存在意義の否定。
 そんなもの、死刑宣告と何が違う。
 「―――――オレは、間違っているっていうのかよ……」
 偽善では何も救えない。借り物の理想では何も救えない。
 それでも、それを願う想いだけは間違っていないと信じて、ここまで歩いてきた。
 だが。
 結局は立ち止まってしまった。所詮、己の信念は借り物だと。須く模倣に彩られたソレに、何一つ本物が含まれていないと。
 誰もが夢見、そして見つけられなかった道。しかし自分は所詮、偽り。故に。

 ―――――故に、本物(こたえ)には、決して辿り着けない。
 そう、贋作者に何一つ本物の理想は宿らないと―――――

 「―――――あ」
 膝が崩れ落ちる。力が入らない。
 救いを求めるかのように見上げた空は漆黒。それに向かって。

 「あぁあああああああぁああああああああ―――――!!!!」

 暗闇の荒野の中、一人叫んだ。
 何をしたらいいか分からない。
 自分が何なのか分からない。
 自分が一体、何がしたいのか分からない。
 叫び、そして。
 その叫びに応えるように。
 その叫びを嘲るように。

 遠坂凛が、衛宮士郎を見下ろしていた。

 「―――――凛」
 凛の姿を見て、士郎はその腕を伸ばす。
 だが、それが届くことは決してなかった。
 パァン。
 闇しかない荒野に、音が響く。
 それは否定の音。
 遠坂凛が、伸ばされた腕を拒絶した。

 「り、ん」
 『――――私は、貴方の観測道具じゃない。誰かに使われるのも使うのも、真っ平ゴメンだわ』

 そう言って、凛は背中を向けた。
 その姿は。

 まるで拒絶しているようで。
 まるで否定しているようで。
 ―――――まるで。

 ふ、と一瞬顔だけをこちらに向ける。
 そして凛の口元が動かし、何かを伝えようとした。
 言葉は発せられない。だが、その動きは確かに。

 さようなら。

 そう、呟いていた。

 ――――――――――まるで、別れを告げるようで――――――――――

 「あ、あ、ああ、あああぁぁぁあああああああああああああ!!!!!」
 (お前に、お前まで、そう言うのか。お前にまで見捨てられたら、オレは―――――!!)

 士郎は一人。
 光無き暗黒の荒野で、幼子のように泣き続けた。
 ここは地獄。
 己が罪が暴き出され、裁かれる。断罪の空間。
 悔恨は刃となり、自身の胸を抉っていく。
 因果応報、自業自得。
 ありとあらゆる自責の念が堰を切ったように溢れだし、衛宮士郎を満たしていく。
 そして、それに終わりはない。

 ―――――再び、士郎は始まりの灼熱の中にいた。

 延々と。
 循環は永遠に。
 衛宮士郎が壊れるまで、その地獄は続いた。

 /Count Down 2
 ��Agitation ―歩む慟哭は全て激突へ―��

 interval Level "2"

 名も知れぬ青年を、サラ・ハミルトンが家に連れてきて一週間が経とうとしていた。
 とんとん、と小気味よく響くのは、包丁がまな板を叩く音。
 それを心配そうに見つめるのは、褐色の女性、サラだった。
 「―――――大丈夫だよ、サラ。そんなに心配そうに見なくても、料理くらい出来るってば。それとも、記憶もない男の手料理じゃ、やっぱ不安かな?」
 「え、そ、そんなことはありませんよ。ただ、ついこの間まで大けがしていたのに、包丁なんて持っていて大丈夫かなと思いまして……」
 黒い髪の少年は苦笑し。
 「大丈夫だよ。まだ少し痛みは残っているけど、大分良くなったし。それにね。オレ、何だか手慣れてるみたいだ。今作っている料理も―――――そして、こういう刃物にも」
 そう言って、包丁を垂直に放り投げた。
 「―――――!?」
 サラの息を呑む音。
 包丁は、くるくると回転しながら少年の手元に落ちていく。
 下へ落ちていく包丁。それは寸分違わず掌へ突き刺さろうと―――――

 瞬間、少年は目を瞑り、そのまま腕を跳ね上げた。

 「!!!?」
 「―――――そんな顔しなくても、大丈夫だよ。ほら、見てごらん」
 す、と差し出す手。その甲には、綺麗に包丁が乗っていた。
 垂直に落ちていく包丁を、少年は掌ではなく手の甲で受け止めていたのだ。
 その妙技は、まるで良くできた曲芸のよう。
 くる、と手を返し、包丁の柄を掴む。
 「だから、大丈夫。どうしてこんなに刃物に手慣れているか分からないけど……とりあえず、料理程度で怪我するようなことは無いよ―――――って、どうかした?」
 サラはふるふると肩を振るわせ。
 「っつ―――――もう! ビックリしたじゃないですか!! お願いですから、それもう止めて下さい! 心臓に悪いですよ……」
 涙目で、そう言った。
 少年は、ぽりぽりと頭を掻き。
 「……ちょっと、調子に乗り過ぎちゃったかな?」
 と苦笑した。


 「これは……ラーメンですか?」
 サラは目の前に出された丼を。目をぱちくりさせながら見た。
 「あ、知ってるんだ。ロンドンにもラーメンってあるのかな?」
 「数は少ないですけど、ありますよ。流石に作り方までは分かりませんが」
 確かにロンドンの地においても日本食―――――ラーメンを出す飲食店はある。
 ただ、それはほとんど現地人の舌に合わせて作られたモノで、日本のソレとはかなり違う。
 (……興味本位で食べたことはあるけど、食べにくいって印象だけで、そんなに美味しいと思ったことはないのよね。高いし)
 そんなことを思うが、流石に口に出すわけにもいかず。
 何も言わずに一言。
 「頂きます」
 と言って、麺に口をつけた。
 「どうぞ」
 それを微笑みながら、青年は見る。音を立てずに食べるのは、流石イギリス人と言ったところか。
 そして、ごくんと飲み込む音が聞こえ。

 「――――――――――美味しい」

 またもや目をぱちくりさせながら、感想を漏らした。
 「美味しいですよこれ。以前、店で食べたものと全然違う。見た目脂っこそうなのに、すごいあっさりしてて……私好きですこの味」
 ふ、と青年は口元を緩ませ、安堵の表情を作った。
 「良かった。オレ、どうやらラーメンだけは得意みたいなんだよ。ロンドンじゃ、まともな食材も手に入りにくかったけど……足を棒にした甲斐はあったかな?」
 言って、青年も自分のラーメンに手をつける。ずず、と音を立てて食べるのが、何とも東洋人らしい。
 そんな感想を持ちながら。
 「……やっぱり貴方は東洋、それも日本人なんですね。こっちの言葉はちょっと辿々しいのに、日本語は淀みなく喋れますし」
 ―――――唯一の持ち物には日本語が刻まれているし。
 今はタンスの奥底に仕舞われているソレを思い出しながら、サラはそう言った。
 「そうなのかも、しれないな」
 自分の中には、必要以上に日本に関しての知識がある。それは恐らく自分が日本出身であるということを指しているとみて間違いない。
 (……もうオレには関係のないことだけどな)
 この生活を続けると。そう望んだ自分には最早出身など考えても意味はない。
 この地、この家こそが自分の今いる場所で、帰るべき場所なのだ。
 そう思いこもうとして(・・・・・・・・)。
 「―――――夕方のあの二人。あれで、良かったのですか」
 サラの言葉が、胸を抉った。
 「っ―――――」
 まるで心を読まれたかのような言葉。
 一瞬考え込んでしまった自分に嫌悪感を抱き、青年は思わず口にした。
 「うん。オレは、このままでいいんだよ。もうオレに―――――過去なんて必要がない」
 だって、君が受け入れてくれたから。そんな君にオレは惹かれているのだから。
 そう言葉を作ろうとするが、しかし。
 何故か、それが発せられることはなかった。

 丼の中の濁った水面が、ゆらゆらと静かに揺れていた。

◇

 ―――――それは突然の出来事だった。

 衛宮士郎が再起不能になってから、数日が経った。
 再起不能。
 その四文字が頭が過ぎる度に、嫌悪感がシオンの身を包んだ。
 (私が馬鹿だった……自分のことしか考えずに行動した結果がこれか。今、ロンドンに『偽・真祖(デミ・アルテミス)』が来ているのなら、そちらのほうを優先すべきだった。そう―――――彼と協力して)
 そうすれば、衛宮士郎があんなことにはならなかったはずだ。可能性としては十分にあった。危険性も認識していたはずだ。
 凡百の人間なら気付かなくても仕方ないかもしれない。だが、この身は錬金術師。事態の可能性を予測し、起こるべき事象に備える。そここそが錬金術師の本質のはずだ。
 なのに、自らそれを放棄した。志貴を探すということを優先させてしまった。
 だから、これは、自分の責任だ。
 「―――――くそ」
 いつもはしないはずの悪態を思わず漏らす。
 (……私は何を焦っている。これから何が起きるというのも分からないのに)
 久遠寺アリスの顔がちらつく。
 何かを企んでいる。何かをしでかそうとしている。
 ソレなのにも関わらず、何も分からない(・・・・・・・)。錬金術師として、これほど焦燥感に駆られることもない。
 思い、しかし、この身に何か出来ることもなく。
 ただこうやって、レンと共に街をぶらつくことだけだった。
 (こんな事態にも関わらず、私は彼に会いたいと考えてしまう……何て独善的なのか)
 そう、自らを嫌悪していると。
 「……レン?」
 隣を歩いている少女―――――レンがこちらを見つめていることに気がついた。
 まるで、��気にすることはない�≠ニ言っているように。
 「分相応、ということですか」
 所詮、人に出来ることなど限られている。出来なかったことを振り返っても意味はない。今、自分に出来ることをやり遂げればいいのだ。
 ならば、こうして志貴を捜していることも、決して間違いではないだろう。少なくとも、嫌悪することではない。
 そう、レンは言いたいのか。
 「前向きなのですね、レンは。―――――私には、とてもそう考えることなど出来ない」
 錬金術師の性なのか。今更どうしようもない自らの性格を思いながら、シオンは街の雑踏を見渡す。
 それは何気ない仕草。いつも無意識に行う行為の一つ。

 だから、そこに遠野志貴の姿を見つけたときは、何かの間違いだと思った。

 「―――――!?」
 弾けたように反応したのはシオンだけではない。当然のように、レンも顔を上げ、一直線に駆けだした。
 その反応を見て。
 (間違いない……使い魔のレンがあんなにも如実に反応しているということは!!)
 志貴とレンは主と使い魔の契約を結んでいる。繋がっている霊的なパス(レイ・ライン)によって、互いの場所程度なら簡単に把握できる。
 だが、志貴とレンが代行者に襲われた直後は、負傷していたこともあり、レンは主たる志貴の場所を掴むことは出来なかった。
 レンの怪我さえ治れば、志貴の場所など簡単に把握することができると。
 そう、シオンは思っていた。
 実際には、事件の日から一週間近く経つのにも関わらず、志貴の居場所は依然として感じ取れなかった。無論、レンの傷も完治しているのにも、だ。
 レン曰く、生きていることは確かだが、パスが細すぎて場所の捕捉は不可能であるという。
 可能性としては幾つか挙げられた。
 志貴が未だに重傷を負っている場合。何らかの理由で魔力が完全に遮断されている場合。―――――志貴本人が、それを拒絶している場合。

 ��――――どのみち、彼と会ったところで、何がどうなるというわけでもないでしょう��

 代行者の言葉が、頭にちらつく。
 何にせよ、現状では志貴の場所を特定することは出来ない。出来ることといったら、文字通り足で探すことしかない。
 この大都市、ロンドンで人一人を捜すことの難しさ。そんなこと、わざわざ考えることでもない。
 シオンは、半ば諦めていたのだが―――――
 ―――――しかし、今、志貴は目の前に居た。
 迷わず、走る。
 一直線に志貴の元へ。雑踏の中、掻き分けながら、がむしゃらに。
 「し―――――!」
 名前を叫ぼうと口を開く。
 志貴は、それに気付いたのか、こちらを振り向き。

 そして、何故その視線が自分に向けられたのか分からない、といった表情をした。

 (え……)
 思わず足が止まる。
 志貴の表情は、予測していたどんなものとも違った。
 その表情。
 その仕草。
 その目線。
 まるで初めて会った赤の他人を見るような(・・・・・・・・・・・・・・・・・)―――――

 それが、シオンの胸を、抉った。

 視界の端に、それでも駆けていく小さな体躯が見える。
 レンだ。
 志貴の目は、彼に信頼を寄せているほど、痛みをもたらす。そんなナイフで胸を抉られるような痛みの中、レンは走る。
 自らの主の元へ。
 だが―――――

 「どうかしたんですか?」
 「いや、何でもないよ(・・・・・・・)」

 「―――――っ!」
 褐色の女性。そして、こちらに気付きながらも、無反応な志貴。
 その事実で、遂にレンの歩みも止まってしまった。
 褐色の女性も、レンとシオンに気付く。
 「……もしかして―――――」
 何かに驚いたような表情。
 しかし、その口から言葉が発せられる前に。
 「うん。ただの人違いみたいだ。気にすることはないよ」
 青年の言葉が、全てを拒絶するように、放たれた。
 そのまま褐色の女性と志貴によく似た青年は、雑踏の中へ溶けるように去る。
 残された二人は、ただそれを立ちつくして見ることしか出来なかった。

 ��どのみち、彼と会ったところで―――――��

 だん、とコンクリートの壁を打つ音が辺りに響く。
 人々が何事か、と思い、ざわめきが止まる。その視線が集まる中。
 「そういう、ことか…………!!」
 シオンは絞り出すような声で、そう言った。
 再び動き出す喧噪(せかい)の中で。
 その言葉は、誰にも届くことはなく、ただ静かに溶けいくだけだった。

◇

 「……これは一体どういうことなのか、説明して貰いましょうか。ミス・トオサカ」
 魔術協会直下の病院の一室で、静かにルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは切り出した。
 個室。ルヴィアが立ち、そして睨んでいる視線の先には、無表情で椅子に座り込んでいる遠坂凛が居た。
 二人の中心。そこには体中に点滴用の管を巻いた衛宮士郎が静かに眠っていた。
 す、と凛は目を閉じ。
 「どうもこうもないわ。今、貴方の目の前にあるのが全てよ」
 何の感情もこもっていない声で、言った。
 「っ―――――! では、シェロ、いや士郎は『偽・真祖(デミ・アルテミス)』と遭遇し、その結果返り討ちに遭った。そして今は、こうして昏睡状態で眠り続けているということで、よろしいのですね」
 ルヴィアもまた、感情が籠もっていない―――――いや、感情を抑えた声で、そう返した。
 凛は、やはり俯いたままで。
 「ええ……―――――そうよ」
 
 直後。殴打音が個室に響き渡った。

 ガラン、と椅子が倒れる音と、凛が壁に叩き付けられる音が断続的に打ち鳴らされる。
 「っつ……」
 ルヴィアは握り拳のまま、凛を見下ろす。
 それでも、凛は俯いた顔を上げることはしなかった。
 つ、と唇が切れ、一筋血が滴り落ちた。
 だが構わず、ルヴィアは凛の胸倉を掴む。
 「―――――分かっていたことでしょう? 彼はいつか必ずこうなる(・・・・)と! 彼の理想、性格では、いつか取り返しの付かない事態が起きると! それを止めるのが、彼と共に歩くと決意した貴女以外に誰が居るのよ!!!」
 「……」
 「どうして止めなかったのです! どうして側にいなかったのです!! 貴女がいれば、貴女さえいれば、こんなことには決してならなかったはず……!!」
 ルヴィアの激昂、弾劾は続く。
 どうして、何故と。
 激昂は問いとなり、そして刃となって、凛の胸を突き刺す。
 それでも。
 「―――――」
 凛は反論することなく、ただ為されるがままに無言だった。
 その姿が。堪らないほどに。
 ―――――ルヴィアに、嫌悪感をもたらした。
 「……貴女という人は」
 静かに凛から手を放す。
 その挙動は恐ろしく落ち着いていて。室内の温度すらも凍り付かせたかのようだった。
 こつん、と足音一つ。
 ルヴィアは項垂れたままの凛に背を向けた。
 そのまま病室の扉を開け。

 「貴女には、失望しました。二度と私の前に現れないで下さい」

 去り際に、そう言い放った。
 ぱたん、と扉を閉める。
 ルヴィアは最後まで何も言い返さなかった凛に失望し。
 同時に、瞳に焼き付いた眠り続けている衛宮士郎の姿が蘇った。
 「っ―――――どうして」
 いつかこうなるかもしれないと思っていた。
 そう、覚悟は決めていたはずだ。
 衛宮士郎が、自分の理想を追い続ける限り、取り返しの付かない事態に陥るかもしれないと。否、それは最早確定事項だ。
 彼の理想は、あまりに歪すぎる。
 幾つもの矛盾をはらんだ幻想。単独ではなし得ないが、孤独でなければ成り立たないその偽善。
 故に、彼を殺したくないのならば、抑止力―――――パートナーが必要だ。
 衛宮士郎が惹かれ、またルヴィア本人も認める遠坂凛こそが、その人だと。ずっと信じていた。
 なのに―――――

 「……どうして。どうして、貴方の側に居るのが――――――私ではないの?」

 自分なら、士郎を、絶対こんなことにはならせなかったのに。
 思うがしかし、時は決して逆行せず。
 想いは慟哭となり、そして、哀哭の涙がルヴィアの頬を濡らした。
 
 扉の向こう側から聞こえる、その嗚咽を凛は聞いていた。
 「……手加減無しか。また派手にやってくれたわね」
 殴られた左頬に鋭い痛みを感じながらも、凛は立ち上がった。
 「ルヴィア……言っておくけど、私後悔なんて、してないから」
 衛宮士郎の矛盾。今ある現状への甘え。
 その事を、いつかははっきり言わなくてはならなかった。
 そうでなければ、何も守れない。衛宮士郎の理想を叶えることも。そして、アーチャーと自分の誓いも。
 ただ、タイミングが悪かった。
 確かに、あの時言うべきことでは無かった。
 自分の中の激情に逆えらえず、思わず口にしてしまった。
 反省するとすれば、それだけだ。それだけの、はずだ。
 だが。
 今も眠り続けている士郎。そうなった原因の一つに、凛の言葉があったことも、また確かだ。
 植物人間。
 それはもう死んだことと何ら変わりない。いや、死んだほうが、まだマシかもしれない。
 故に―――――

 「……ルヴィア。私、ケジメだけはちゃんと付けるから」
 
 決意の言葉。
 士郎が意識無く呼吸する音だけが聞こえる中。
 それは教会の鐘のような清冽の響きを以て、打ち鳴らされた。

◇

 「……これから、どうしますか? レン」
 「―――――」
 ホテルの一室でシオンとレンが沈痛な面持ちでいた。
 「代行者の魔術が、不完全ながらも働いていた……ということか」
 橋から落ちる直前、シエルは志貴にとある魔術をかけていた。
 記憶を喪失……否、封印する魔術だ。
 他者の深層心理に働き、記憶に一種のロックをかける。そうすることで指定された記憶は思い出すことなく、心の底に封じられる。
 上級の干渉魔術―――――それ故、成功率はほぼ0に等しい。実戦どころか、まともに使えた代物ではない。
 だが、シエルレベルの魔術師ともなると話は別だ。おまけに直死の魔眼を保持しているとはいえ、魔術耐性が一般人のそれと大差ない志貴が相手では、成功率は格段に上昇する。
 (過程はどうあれ……代行者の思惑通りということですか)
 記憶を呼び戻すことは容易い。
 あの魔術は記憶を消すことではなく、封印させること。つまり、記憶そのものは無くなってはいないのだ。
 以前の志貴のイメージを、レンの夢によって焼き付ければ、そのショックで記憶も戻るだろう。
 だが―――――
 (……本当に、それでいいのか)
 志貴の記憶を呼び戻すこと―――――それは即ち、殺人貴だった志貴に戻すということ。
 自らの目的のみに向かい、その業によって、殺人すら厭わないモノ。
 (記憶が元に戻れば、彼は間違いなくアルクェイドを追って久遠寺アリスと対立する。何を企んでいるかも知れない相手に、それは危険すぎる)
 わざわざ志貴を死地に送り出すこと―――――それが本当に正しいことなのか。
 そして。
 何より、今の彼を、あの冷たい殺人貴に戻すなんていうことが、自分には許されているのだろうか。
 そうシオンは思う。
 「……今の志貴は、とても幸せそうでした。まるでアルクェイドと共に居た頃のように」
 「……」
 あの褐色の女性―――――誰だかは分からないが、彼女と共に歩いている志貴は、とても穏やかで、幸せそうだった。
 その幸せを、どうして壊すような真似が出来る。

 ��――――どのみち、彼と会ったところで、何がどうなるというわけでもないでしょう��

 代行者の言うとおりだ。
 今の自分には、どうすることも出来ない。精々、彼を見守ることくらいだろう。
 「レン。聞いて下さい」
 シオンは静かに、そう切り出した。
 レンがぴくん、と項垂れていた顔を上げる。
 「今は見守りましょう、彼を。どのみち、志貴は久遠寺アリスに狙われている。今の彼には、対抗するべき手段はない。だから……」
 すぅ、と息を吸い、覚悟を決めた声でシオンは言う。
 「―――――だから、私達が志貴を守りましょう。いつか彼が私達にしてくれたように」
 記憶を取り戻すことが、一慨に正しいとは思えない。記憶を取り戻しても、取り戻さなくても、志貴が今危険な立場にいるのは変わりない。だったら。
 そう、このまま志貴が幸せに暮らすというのならば―――――それも吝かではない。
 (アルクェイドや秋葉には悪いですけど……)
 「私達で、久遠寺アリスを止めます。追いてこれますか? レン」
 決意の言葉は、宣言のようで。
 レンの胸に、響き渡った。
 ��無論�=B
 そう言いたげに、レンはこくりと頷いた。それを満足げに見つめて、シオンは立ち上がる。
 「まずは、今ロンドンで起きている『偽・真祖(デミ・アルテミス)』をどうにかしないといけませんね……。あの二人に……何とか連絡を取らないと……」
 衛宮士郎と遠坂凛。
 あの時、出て行ったきり二人には会っていない。衛宮士郎が返り討ちにあったと知ったのも、協会の報告書だ。
 (あの二人には、迷惑をかけた……。だが、非礼を詫びている状態ではない、か)
 レンを拾ってくれたこと。突然押しかけたのにも関わらず、何も事情を説明せずに出て行ったこと。
 どれもこれも非礼を詫びなければいけないことだらけだ。
 あの時、出て行った状況が目に浮かぶ。
 ��……『偽・真祖(デミ・アルテミス)』が二体、現れた……?��
 遠坂凛が口走った言葉。それに思わず反応して―――――

 瞬間。ある嫌な予想が頭を過ぎった。

 (待て。二体、だと?)
 時計塔から受け取った報告書。衛宮士郎が返り討ちにあった『偽・真祖(デミ・アルテミス)』は双子であったと、そう書いてあった。だから今まで二体の『偽・真祖(デミ・アルテミス)』は、その双子だと思いこんでいた。
 だが。
 (そもそも何故、二体現れたと報告があった? 双子の姿を見た? 違う。それならば、きちんと双子と記載するはずだ……)
 それは特異な死体が、二つあったからだ。犯行時刻は、ほぼ同時だと思われる時に、二人の人間が体の一部をえぐり取られて死んでいたからだ。
 (二つの死体に、二つの『偽・真祖(デミ・アルテミス)』……そうだ。そうでなくては数式が成り立たない)
 だが、衛宮士郎と遠坂凛が発見した『偽・真祖(デミ・アルテミス)』は双子だった。つまりそれは、二人で一つということ(・・・・・・・・・・・)。
 そこから導き出される結論は―――――

 「―――――双子の他に、もう一体、正体不明の『偽・真祖(デミ・アルテミス)』が居る……!!?」

 魔術協会が今血眼になって探している『偽・真祖(デミ・アルテミス)』は双子。しかし、それ以外にも驚異は居たのだ。協会の目をくぐり抜けている『偽・真祖(デミ・アルテミス)』が。

 「行きますよ、レン。どうやら、事態は私達が思っていた以上に厄介なのかも知れません……!!」

 シオンとレンは、その足を、外へと向けて駆け出そうとしていた。
 日が落ち、闇が辺りを満たす夜になろうとしている、ロンドンの街中へと。

◇

 凛はロンドンの夜を切り裂くように駆けていた。
 目的は無論、『偽・真祖(デミ・アルテミス)』を見つけ、斃すこと。
 (仇討ち……ってわけじゃないけどね。せめて、あんたがやろうとしたことを最後まで、成し遂げたいと思う―――――)
 それが、自分に対するケジメなのだと。
 それが、士郎に対するケジメなのだと。
 そう、凛は思っていた。
 故に凛は駆ける。
 自らの身すらも顧みず、ただ一人で。
 いつも傍らに居た相棒は、今はもう居ない。
 その事実に、思わず涙しそうになるが、しかし。
 ―――――ルヴィアに殴られた頬の痛みが、それを許してくれなかった。
 (失望した、か。そう言われても、仕方ないのかも知れない。それでも私は―――――)
 後悔はしていない、と固く心に言い聞かせた。
 後悔なんてしたって始まらない。
 過去の悔恨ばかり見ていても何も始まらない。
 いつだって未来を切り開くのは、自らの意志なのだから。
 あの夜。あのとき。

 ��見ているのは、いつも過去。過去に残した悔恨をずっと繰り返している―――――��

 そう断言したのは、他でもない遠坂凛なのだから。
 だから自分は過去を振り返らないで、生きていこうと。せめて自分が彼の道しるべとなるべきなのだと。
 例え、士郎が居なくても、そうするべきだと。
 それこそが、ケジメ。今自分に出来ることの全てだった。

 「そう―――――久遠寺アリスは、私が止める。それで文句ないでしょ? 士郎……」

 そのためにロンドンで今起きている『偽・真祖(デミ・アルテミス)』を見つけ出す。
 今頃魔術協会も動いているはずだ。バゼットも今はロンドンにいると聞く。
 (そうね……まずはバゼットと合流することが先かし―――――!?)
 そう思った瞬間。

 久遠寺アリスの結界が発動したのを、凛は肌で感じていた。

 「な―――――!?」
 (まさか、この場面で、久遠寺アリスが動いた!?)
 否、今まで張られていなかったのがおかしかったのかも知れない。
 自分の見積もりの甘さを呪うと同時に。
 「っ―――――!!!」

 金色の髪をした『偽・真祖(デミ・アルテミス)』の双子が、凛の前に姿を現した。

◇

 凛が双子と遭遇したと同時刻、代行者シエルもまた、久遠寺アリスの結界を感じ取っていた。
 「……人気が、一切消えた。なるほど、これが噂に聞く久遠寺アリスの結界ですか。流石ですね。擬似的な空間の割り込み……これなら魔術協会といえども完全な捕捉は無理でしょう」
 人気が無くなったロンドンの一角で、シエルはぽつりと呟いた。
 じゃきん、と金属音。黒鍵を取り出す。
 それはシエルが戦闘態勢になったことを意味する。
 無言で、その黒鍵を。
 ―――――何も無い、虚空に投擲した。

 「……その業(わざ)は、驚嘆に値します。だが、私の目を誤魔化すには少々力が及ばなかったみたいですね」

 自惚れでも慢心でもなく、シエルはそう言い放ち。
 黒鍵は、虚空に突き刺さった(・・・・・・・・・)。
 夜空の突き刺さった黒鍵。その先端から、夜空が割れ―――――
 ―――――久遠寺アリスが姿を現した。
 「……」
 アリスは何も言わず、ただ冷徹な目でシエルを射貫くだけだ。
 その、常人なら卒倒しそうな殺意の前で。
 「余程、遠野君の記憶を無くしたことが、ご立腹のようですね。やはり、貴女の計画には彼が必要……ということですか」
 ニヤリ、と。シエルは不敵に笑った。
 「……ええ、そうよ。彼は私の計画の要。だからこそ、何年も前から、仕込み、計画していた。なのに」
 ぎ、とアリスの目に更なる殺意がこもる。
 「―――――なのに。教会の犬ごときに邪魔をされて……ええ、こんなに不快なことったら無いわ」
 そう言って、アリスの姿が一瞬にして消え。
 シエルの眼前に現れ、魔力を帯びた掌打を放った。
 それを。
 「犬、と言いましたか」
 シエルは、同じく掌打で受け止めた。
 夜空に魔力光が迸り、辺りを青白く照らし出す。

 「何と呼ばれようが構いませんが―――――貴女には此処で倒れて貰います、久遠寺アリス」
 「よく言った。私の計画の邪魔をする者は殺す。後顧の憂いは、今此処で断ち切らせてもらうわよ、醜き神の犬め」

 夜空に爆音一つ。
 久遠寺アリスとシエルの戦闘が、その始まりを告げた。

 歩むいく者全ては激突する。
 その果ての悲劇を嘲笑うかのように。
 カウントダウンの針が、また一つ。
 ―――――カチリと。
 その音を響かせた。

...Count down Start "2 to 1".

* * *

 /Gear of the interval "2 to 1"

 深い深い、微睡みの中にいる。
 夢とは、今まで自分が経験してきたこと。それを基にして作られると聞いた。
 ならば、自己の記憶を一切持たない自分にとって。
 彼女の姿が夢に出てくるのは、必然であったのだろう。

 ��――――When you wish upon a star
 Make no difference who you are
 Anything your heart desires
 Will come to you――――��


 夢の中のサラは一人、花に囲まれながら唄っていた。
 それはいつもの旋律。いつもの声。
 綺麗な綺麗な、夢想を讃えた幻想歌。

 ��――――If your heart is in your dream
 No request is too extreme
 When you wish upon a star
 As dreamers do――――��

 星に願いを懸けるとき

 誰だって

 心を込めて望むなら

 きっと願いは叶うでしょう

 心の底から夢みているのなら

 夢追人が縋るように

 星に願いを懸けるなら

 叶わぬ願いなどないのです―――――

 wish upon a star(ほしにねがいを)。
 そう唄う彼女は、とても美しくて、そして何故かとても哀しかった。
 ああ、サラ。
 君は一体。

 何を思い、何を願って、この唄を口ずさむのか―――――――――――


 ぱちり、と目が覚めた。
 時計の針がかちこちと鳴っている。
 まだ針は一周していない。真夜中というには早すぎて、夜というには遅い時間帯だった。
 そんな中途半端な時間に目覚めた自分に疑問を抱きつつ。
 「……水でも飲んでくるか」
 青年は喉の渇きを癒すために、台所へと、その歩みを向けた。
 途中。何故だか、タンスの上段が目に入った。
 (サラは時々、遠い目をして、あそこを見つめるよな。一体何が入っているんだろう……)
 見たいと思う好奇心が湧くが、しかし。
 「っ――――――!」
 それ以上に、見てはならない(・・・・・・・)という忌避感が、それを上回った。
 見たら、戻れない。
 今手の中にある、この平穏な暮らしが音を立てて崩れるだろうと。そう青年は確信していた。
 (――――――考えるな。そのことは、考えてはいけない)
 夕方現れた、紫色の髪をした女性と黒い小さな少女。
 あの二人を見たときから、何故か自分の中の違和感が膨れあがっていく。
 自分はこんなところで何をしているのか(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。
 焦燥感にも似た違和感が、しこりのように青年の胸にわだかまっていた。
 「くそ……!!」
 それら一切合切の思考を振り切って、台所へと階段を下りる。
 瞬間。
 ごとり、という音がサラの部屋から聞こえた。
 「――――――サラ?」
 不振な音に、思わず部屋の扉を見つめる。
 耳を澄ませると、苦しげなサラのうめき声が聞こえた。
 (何か、あったのか!?)
 ドグン。
 心臓が跳ねた。
 記憶を失い、治療をしてくれた。そして、その自分を受け入れて、共に暮らしたいと言ってくれた。
 その彼女が、今苦しげに呻いている。
 居ても立ってもいられなくなり、青年はノックも無しに扉を開けた。
 ――――――開けて、しまった。

 直後。
 金色の瞳と髪(・・・・・・)をしたサラが視界に入った。

 「な――――――」
 肌はひび割れたかのように、無数の線が刻まれており。
 普段の彼女とは似ても似つかない禍々しい雰囲気すら漂わせていた。
 「……サ、ラ?」
 「が――――――ぁ、く。駄目……この人だけは……」
 苦しげに呻き、そして。
 サラの目は青年の姿を捉えた。

 瞬間、青年は。
 訳もなく、殺される(・・・・・)と。そう心の底から思った。

 「――――――」
 その青年の姿を、サラは直視して。
 「お願い……」

 見ないで。

 言った瞬間。
 尋常あらざる力で青年の首を絞めていた。
 「がっ――――――」
 何故。どうして。
 そんな疑問すらも一瞬にして崩壊、あるのはただ目の前に迫る死のみが脳内を満たす。
 意識が朦朧としていく中で。
 ――――――心の底で、こうなることを確信、そして同時に。
 期待していた(・・・・・・)自分に、気がついた。

 所詮、手にした平穏は偽りで。
 そもそも平穏など、自分に分不相応なのだと。
 もう一人の自分が囁いた。

 ――――――殺人鬼が、覚醒のときを、今か今かと待ち望んでいる――――――

.......to be continued

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