――――ゴォン、と。深い深い闇の底。どこかで、鐘の音が鳴り響いた。

 ロンドン、夜。人の気配が絶無な路地裏で、何かを啜る音が静寂を破る。
 月光すら弾く闇は、ここに、更なる黒を沈殿させた廃棄場へと成り果てた。
 「……この人、魔術師のくせにこれだけしか存在量(えいよう)がないのかしら? 不味いったら、ありゃしない」
 「そうね。まぁ仕方ないでしょ。この男、面構えからして貧相だわ」
 べ、と吐き捨てる。
 それは肉片。彼女たちが食らった魔術師の、その心臓の欠片だった。
 闇の中に佇むのは二つの影。
 金髪碧眼の少女が二人、闇の中に佇んでいる。
 つ、と片方の少女の口から朱色の一線が滴り落ちる。
 「あら、はしたないわよ。ルーツィエ…――ん」
 もう一人の少女がそれを舐めとる。
 舌先が顎から口角へと昇っていき、血を舐め、そして唇へ這わせる。
 少女は、そのまま口の中へ舌を突き入れた。
 「ん…――ぁ」
 「ふ、……っ、あ」
 少女達は月光の下で淫らに絡み合う。
 屍の側で行われる営み――――――それは紛れもなく異常であり、そして淫靡なものだ。
 「――――――ふ」
 少女の舌先が名残惜しそうに、唇から離れる。
 とろんとした瞳をしながら、ルーツィエと呼ばれた少女は、もう一人の少女を見上げた。
 もう一人の少女は、その上気した顔を見て。
 「行きましょう、ルーツィエ。赤い月の夜は近い。カーニバルが始まる前に――――まず、前座といきましょう」
 「――――はい。ルーツィアお姉様」
 そう、開幕のベルを鳴らした。
 上空には青白い月。それを崇めるように見上げて、二人は声を揃える。

 「全ては――――アリスお姉様のために」

 前奏曲の終わり。その前座が今。
 月光と共に、打ち棄てられた廃棄場にて幕を上げた。

/Count Down 4
 Calm ――獣は眠り、世界の夢を見る――


 「……」
 ベッドには小さな体の少女が横渡っている。
 その体は傷だらけで、包帯が痛々しい。意識は無く、苦しげに眠っていた。
 ベッドの横には三人の人影。
 「……一体どういうことなんだ。アンタは何を知っている? 俺を捜していたようだけど……」
 その内の一人、衛宮士郎が重々しく口を開いた。
 「――――それは」
 言い辛そうに淀むのは、白衣の女性。シオン・エルトナム・アトラシアだ。
 彼女は此処に来た理由。
 それは再び行方をくらました志貴を探すためである。
 三ヶ月前。エジプトで起こった『偽・真祖(デミ・アルテミス)』による殺人事件。その事件を最後に、志貴は行方が分からなくなった。辛うじて分かったのは、ロンドンに向かう航空機の乗客リストの中にあった『SHIKI.N』という名前だけ。
 三ヶ月間、八方手を尽くして探したが、所詮アウェイで行う一人のみの探索。その程度はたかが知れていた。
 ようやくの思いで手に入れたのは、魔術協会が隠匿していた、とあるレポートだ。
 昨年起こった『偽・真祖(デミ・アルテミス)』による初めての事件。ロンドンを震撼させた霧生朱美による連続殺人事件に関するレポートだった。
 そこに記述されていた法衣の女性と黒尽くめの男――――これは間違いなくシエルと志貴だ。そう当たりを付けたシオンは事件の当事者――とりわけ、その二人に出会った衛宮士郎――は、きっと何かを知っているに違いないと思った。
 遠坂凛とその従者、衛宮士郎。藁をも掴む思いで、彼らを訪ねたのだが――――
 「まさか、レンがこんな姿で担ぎ込まれている所に出くわすなんて……全く、幸運なのか不運なのか分かりませんね」
 ぼそり、と呟いた。
 志貴の使い魔であるレンが、どうしてこのような姿になっているのか。それは分からないが――――
 ――――確かなことは、志貴は今、危険な状態にあるという事実のみだ。
 焦る。
 元来、志貴をサポートするはずのレン。彼女がこんな姿になっている。その事実が、尚更シオンの胸を激しく騒ぎ立てた。
 だが、彼らに志貴のことを話すのは躊躇われた。
 志貴の魔眼や真祖・アルクェイドの関係、埋葬機関に遠野という名前、七夜。魔法使い。仮にも魔術協会に属している彼らに話すのは危険すぎる。
 しかし、それらを抜いて話したところで、真実味には欠ける。魔術師の基本は等価交換。全てを話さなければ、あちらも全てを話そうとしないだろう。
 (…――――私は、一体どうすれば……)
 言いよどむシオンを見かねたのか、遠坂凛が口を開く。
 「何か、言いにくい事情があるってこと、か。まぁいいわ。それはともかく、まずこの使い魔との関係を話してくれない? どうやら只者じゃないみたいだしね、この子」
 凛の言葉に、士郎が疑問の声を上げる。
 「――――使い魔? こんな小さい子供が、誰かの使い魔だっていうのか」
 「……」
 はぁ、と凛の溜息。
 「相変わらずアンタは鈍いわね。この子……いえ、この使い魔から感じる魔力は段違いよ。百年や二百年どころじゃない。恐らく千の位に届くほど生きているはず。前にも言ったでしょう? 神秘は年月が経てば経つほど増していくっていうのは常識じゃない。いつものことだけど、見た目に騙されていると痛い目に遭うわよ、士郎」
 「む」
 容赦のない凛の指摘に顔を顰める。
 士郎は目を凝らしてレンを見た。
 (……なるほど。衰弱していても、この魔力量……確かに半端な使い魔では無さそうだな)
 そう思っても、子供の姿をしている人間――――例えそれが人あらざる者でも――――傷ついているのを見るのは嫌だと、士郎は思う。
 同時に、それがどうしようもないほどの偽善だということも、また。
 (俺は……)
 その姿を凛は黙って見つめる。
 表情には、何も刻まれていなかった。
 一瞬、静寂に満たされる空間。あるのは苦しげなレンの呻き声だけ。
 それを破るように、シオンは口を開いた。
 「――――私が探している人物。その使い魔が彼女です。恐らく、彼らは……」
 す、と目を閉じ、一拍の空白を置いて、開けた。

 「久遠寺アリスを探している最中に、何らかのトラブルに巻き込まれたに違いありません」

 士郎と凛が、凍った。
 「……それ、どういうこと? 何故貴方が、その名前を――――」
 そう凛が言葉を続けようとした瞬間。
 りりり、と電話の音が、響いた。
 「……凛」
 「ああもう! 分かったわよ!」
 苛ただしげに、電話を取る。
 「はい、遠坂で――――って、ルヴィア!? アンタ――――え」
 凛が苛ついた表情を変え、緊の一文字に結ばれる。
 空気が、変わった。
 シオンと士郎の二人は、それがどんな状況なのかを理解する前に。

 「……『偽・真祖(デミ・アルテミス)』が二体、現れた……?」

 一気に奈落の底へと、突き落とされた。
 す、と。
 静かに、レンの目蓋が、開かれた。

 /interval Level "4"

 ――――When you wish upon a star
 Make no difference who you are
 Anything your heart desires Will come to you――――

 綺麗な声の歌が、心地よく耳朶を打つ。
 ふと窓から庭を見下ろすと、青い空が見えた後に、サラが花壇に水をやっているのが見える。
 「っ――――いてて」
 たかがそれだけの動きだけで、体を軋み、痛みを訴える。
 どうやら、傷は相当に深いらしい。
 サラ曰く、これで生きている方がおかしいらしい。それでも大分楽にはなったのだが。
 「……どうして、俺はこんな怪我をしているんだろうな」
 どうにも、過去のことを思い出そうとすると、靄がかかったように何も見えない。どころか、無理矢理に思い出そうとすると痛みすら走る。
 自分が誰なのか、どうしてこんなところに居るのか、それすら分からない。
 そんな状態にも関わらず、言葉や生活の仕方などは問題なく理解できる。
 つまり、自己の記憶≠フみが一切合切欠けている状態なのだ。
 全く持っておかしな状態である。
 「……変だよなぁ。健忘症にしても酷すぎる」
 健忘症、という単語がすらすらと出てくる自分に、また違和感が湧く。
 どうして自分は、こんな単語を知っているというのに、自分の名前すら思い出せないのか。
 だけど。
 「……」
 何故か、気分は落ち着いていた。
 確かに自分が誰なのか分からないと理解した時は、失墜感と絶望に襲われた。意識を失うほどの衝撃。
 それにも関わらず、今、気分はすごく落ち着いていた。

 きっと、それは。
 
 彼女の、おかげなのだろう。

 青い空。
 流れる雲。
 飛んでいく鳥達。
 花と戯れる一人の女性。
 綺麗な旋律(うた)
 ああ、世界は、こんなにも美しい――――

 真っさら自分の心に、それはとても澄んで映った。
 サラ・ハミルトン。
 今、自分がこんなに落ち着いていられるのも、彼女の献身的な介護のおかげなのだろう。
 本来なら名も分からない身元不明の人間など相手にするほうがおかしい。精々、病院や警察に放り込んで仕舞いだ。
 「……まぁ、それを拒んだのは、俺なんだけどな……」
 一人ごちる。
 そう、これだけの怪我。普通なら病院へ運ぶ。当たり前だ。疑う余地すらない、常識以前の問題である。
 しかし、それを聞かされたとき、何故か自分の中で、その選択を拒絶してしまう何かがあった。
 応急処置だけで済む怪我ではないということは分かりきっている。記憶がないとはいえ、そのくらいのことを理解出来る頭は持っている。
 だが。だがしかし。
 怪我の治療などよりも、警察や病院――――公的な機関に捕まってしまう(・・・・・・・)ことが恐ろしかった。
 理由は分からないが、少なくとも確信があった。
 もし、そうなってしまったら、俺はきっと望みを果たせなくなるという、確信という名の恐怖が。
 だから、その申し出を拒否した。
 それは異様な光景だっただろう。何せ、怪我をしている本人が『病院に連れて行くな』など気が違っていると思われても仕方ない。
 そもそも果たせなくなるという望みすら思い出せないのに。
 なのに、彼女は何も言わずに。
 『――――そうですか』
 と微笑みかけてくれた。
 その笑顔が、とても嬉しくて――――

 同時に。自分には分不相応だと、思ってしまった。

 「くそ、どうして俺は――――」
 一体、何だというのだろうか。
 自己の記憶がないことに対する不安ではない。
 早く思い出さなければという焦りでもない。
 ただ。
 ――――ただ。
 こんな暮らしを望んでいたはずという強い思いと。
 その風景の中に、居て欲しい『誰か』がいないという虚脱感が、自身を苛んだ。

 ――――Fate is kind
 She brings to those who love
 The sweet fulfillment of Their secret longing――――

 空っぽな感情を埋めるように。
 綺麗な唄が心地よく耳朶を打った。

 ――――そうして、夜になった。

 駆ける足音は二つ。衛宮士郎と遠坂凛のものだ。
 シオンとレンも、また別な場所で同じように駆けていることだろう。
 ――――ロンドンにて再発した『偽・真祖(デミ・アルテミス)』による連続殺人事件。その調査のために。
 去年巻き起こった、霧生朱美による殺人の時と同じ悪夢が、再び蘇ったのだ。
 「っ――――!」
 ぎり、と士郎は奥歯を噛み締める。
 (何で、またこんなことに……もう、俺は朱美さんのような人は見たくないのに……)
 世界を憎み、その果てに死んだ彼女。何も残せず、何も為せず、ただ一人没していった彼女。

 殺したのは、自分だ。

 救えなかった。それどころか、何も出来なかった。
 知ったのは、全てが終わった後で。
 自らに出来ることなど、彼女を止めることしか出来なかった。
 未だ、この掌には、霧生朱美を殺した感触が――――

 結局残ったのは、親しい人を殺したという、冷たい痛みだけだ。

 ぎり、と再び奥歯を噛み締める音が辺りに響いた。
 そんな士郎を見かねてか。
 「――――アンタ、また余計なこと考えているでしょ? ……朱美さんのこととか」
 凛が、的確にそう告げた。
 「……」
 士郎は何も答えない。ただ俯いて走るのみだ。
 「アンタが考えてることくらい分かるわよ。もう、三年も馴れ合いを続けて居るんだから」
 ……側に居るんだから。
 士郎に聞こえないように小さく呟き、そして。
 駆ける足を止め、真っ直ぐに士郎を見つめた。
 「凛……?」
 そろそろ覚悟を決めるときだろう。
 「アンタね、いい加減、気付きなさいよ」
 すぅ、と丹田に力を込める。
 これを言ったら、終わる。
 今までの関係は崩れ去り、全ては白紙に戻る。
 凛は、士郎が好きだ。
 恋人とも伴侶とも言えない、戦友とか相棒のような今の関係も好きだ。
 だけど。
 だからこそ。
 ――――これは、いつか言わなければいけないことだった。
 さぁ、覚悟を決めろ、遠坂凛。
 士郎を変えるには、今の関係に甘えてる自分も変わらなければならないのだから――――

 「……士郎、今のままじゃ、間違いなくアーチャーと同じになるわよ」

 「――――え」
 そんなはずはない、と士郎は思う。
 霧生朱美の事件に理解した。
 自分が為した行動――――士郎が思う正義は、誰かに宿ると。
 そして、それは側にいるはずの彼女に宿り続けると。
 だからこそ、自分はこれからも闘っていけ、摩擦することなく、その生を終えることが出来るのだと。
 例え、その正義≠ェ自らのエゴに他ならないにしても。
 それを正義≠セと思ってくれる人が居るのならば、衛宮士郎はアーチャーにはならないだろうと――――
 なのに、何故。
 この心臓は、熱を打ったように、鼓動を早めるのだろう。

 「前に言ったわよね。私が泣いているからこそ、アーチャーにはならないって。でもね、貴方は私のことなんか気にしていないじゃない。見ているのは、いつも過去。過去に残した悔恨をずっと繰り返している」

 ――――ドクン。
 心臓が、一際高く、鳴った。
 その先を、言わせてはいけないと。
 理由もなく、思った。

 「……それは呪いよ。貴方のお父さんが残した、たった一つの過ち。子供を気遣って、想って、ずっとそれを続けてきたのに、最後の最後で、本心を晒け出してしまった。その、たった一言だけが、貴方を今も縛り付けている」

 ああ――――安心した

 あの一言が、呪いだというのか。
 静かに息を引き取った直前のセリフ。それが呪いであるはずがない。縛り付けている枷などでは決してない。
 だが。
 確かに自分は。
 あの一言で――――正義の味方になる、と決意したのでは無かったのか。
 ならば、それは。
 呪いと。一体何が違うのだろうか……。

 「アーチャーはその強迫観念に突き動かされて、摩耗した。始まりも知らず、過去を見続け、決して吐き出さず胸の内に刻んで、ただ我武者羅に走り続けた。――――それが、今の貴方と、どう違うの?」

 アーチャーとの違い……それは凛が居てくれることではないのか――――
 そう縋るような目で、凛を見つめた。

 「それは違うわ。士郎。……言っておくけどね。
 ――――私は、貴方の観測道具じゃない。誰かに使われるのも使うのも、真っ平ゴメンだわ」

 「あ――――」
 打ちのめされた。
 そうだ。
 果たしてお前に否定できるのか?
 遠坂凛を、アーチャーにならないための道具として見ていたということに――――

 「確かに私は貴方をアーチャーにならせないと誓った。けどね、私が出来るのは、あくまで背中を押すだけ。決めるのは、貴方なのよ。衛宮君(・・・)。もう一度、貴方は何がしたくて、何を為したいのか。冷静に考えてみることね」
 ふ、と士郎に背を向け、凛はそのまま夜の闇に溶け込むように駆けていった。
 士郎を置いて。
 「何が、したいのか……」
 士郎もまた、凛を追うことは出来なかった。
 ただ凛に言われたことを自問するだけ。
 絶縁状を叩き付けられたかのような別れの言葉に対する想いは、今士郎の中には無かった。
 在るのはただ、自らに潜む最大の矛盾(やみ)を見破られたという事実のみ。
 自分は何がしたくて、何を為そうとしているのか
 正義の味方というのは、あくまで行動の結果として付随する称号であるということは理解している。
 何かを為そうとして、結果として正義の味方であるという評価を得るのだ。
 だから正義の味方になるためには、それになるための何か≠ェ必要だ。そこまでは分かる。
 そう。

 それは――正義の味方だから?
 そうだ。……だけどそれ以上に、アイツは止めなきゃいけないと思う。だから、行く

 ロンドンに来る前に、リリィに言った通りに理解している。
 だが。
 「正義の味方になりたいってだけじゃ、駄目なんだろうな」
 例えばだ。
 野球選手になりたいのなら、野球をすればいい。サッカー選手になりたいのなら、サッカーをすればいい。
 だとすれば、正義の味方になりたいのならば?
 正義を行えばいい。話としては、ただそれだけだ。
 だが、正義というものに、確固たる定義が無いのであれば。
 ……何をすれば、正義と呼べる行動になるのだろうか。
 それが分からない。分からない以上、自分が思う正義を行うしかない。
 切嗣もアーチャーもぶつかった壁だ。
 この選択を間違えれば、きっと凛が言ったとおり――――彼らと同じ道を歩むことになるだろう。
 「――――俺に足りないもの、か」
 『何になりたいのか』ではなく、『何がしたいのか』。
 自己の天秤が壊れている自分が、果たしてそれを見つけることが出来るのだろうか……。

 その時、ごそりと。
 闇の中で、何かが蠢いた。

 士郎と凛がロンドンを走り回っている中、シオンとレンもまた駆けていた。
 だが、士郎達と違い、シオン達は若干目的を違えた。
 「……大丈夫ですか、レン。貴女は酷い怪我をしているのだから、あまり無理はしないように」
 隣を走っている黒猫は、僅かにコクリと頷いた。
 それに満足し、シオンは再び前を向く。
 脳裏にあるのは、夕方ルヴィアからの電話の直後にあった出来事だ。


 『……『偽・真祖(デミ・アルテミス)』が二体、現れた……?』
 凛の声が緊張に固まる。
 その時。
 ――――す、と眠っていたレンの目蓋が開かれた。
 直後。
 『――――っつ!!!!』
 三人の視界に、突然知らないはずの映像が再生された。

 突き刺さる黒鍵。
 吹き飛ばされる体躯。
 月光に照らされた、代行者という名の死神。
 追い詰められるのは黒髪の少年、七夜志貴。
 橋の上で行われる処刑。
 それが完全に執行される前に。
 少年は、その身を、橋の上から投げ出した。

 ゴォ、と視界は流れ、瞬間、元の景色が戻ってきた。
 『い、今のは――――』
 士郎が戸惑った声を上げる。
 『強力な共感能力(テレパス)……違う。これは、夢=H 過去に起きた出来事を夢という形で私達に見せた……。それにしても、魔術師たる私達に、眠りに落ちているわけでもないのに、こんな強力なイメージを見せるだなんて……』
 夢魔、レン。
 その能力の一端が、イメージを焼き付けるという夢≠セった。
 他人に干渉する魔術。それは魔力を常時流している魔術師に対しては、非常にかかりにくいものだ。
 干渉という遠回りな魔術行使程度では、簡単に弾かれる。故に、暗示・束縛・強制など干渉魔術は、魔術師に対しては、あまり意味のないものだとされているが――――
 しかし。そんな常識を覆し、レンは魔術師――――それも一流と呼ばれる人間に対し、簡単に介入を行った。
 それが、どれだけ強力なものかは、最早語るまでもない。
 (この夢魔……思ってた以上に化け物みたいね……)
 冷や汗が、凛の頬を伝った。
 だが、その凛よりも動揺しているのが――――
 『今のは……!』
 予想よりも遙かに悪い事態が起きていた。
 (その可能性を考えなかったわけではない……。異端を排除する埋葬機関にとって、今の志貴は確かに邪魔でしかない。だけど、そんな今更、こんな動きを見せるなんて……!!)
 志貴は魔術師ではない。魔術に対する耐性などゼロに近い。
 ――――そんな志貴に対して、あんな強力な魔術を、中途半端にかける。それが、どんなに危険なことか、錬金術師たるシオンは十二分理解していた。
 (……下手をすれば、一生廃人――――!)
 焦燥が、シオンの身を包む。
 すぐにでも駆けつけたい衝動に駆られるが、それをすぐにに抑えつける。
 何故なら、シオンは錬金術師。突発的な衝動に駆られて、冷静な判断を見誤るのは御法度だからだ。
 しかし――――
 『……レン』
 怪我の治りを早くするためか、消費する魔力を抑えるためか、黒猫となった少女レンは、シオンの方へと向き。
 手伝って
 と。その瞳を見つめた。
 シオンは一瞬だけ、目を丸くさせ。
 『――――ええ。分かっています』
 錬金術師のありとあらゆるセオリーを無視して、レンと共に駆けだした。
 『ちょ……貴女たち、どこへ行くの!?』
 凛がそう叫んだとき、既にシオン達は扉を開けようとしている。
 『一体なんなの? 事情も話さないで、突然出て行くなんて……』
 何が起きているのか分からない凛は、困惑した顔でそう言ったとき。
 『俺たちも行こう、凛。……確かに彼女たちのことも気になるけど、偽・真祖(デミ・アルテミス)が現れた以上、じっとなんかしていられない。
 ――――もう、朱美さんのような人は見たくないんだ』
 握り拳一つ。
 決意と共に、衛宮士郎が呟いたのを、微かにシオンは聞いた。


 「……彼らには迷惑をかけてしまいましたね」
 走りながら、申し訳なさそうにシオンが言う。
 同意の声は無いが、恐らくレンもそう思っているだろう。
 (だけど、今は)
 志貴のほうが、気にかかる。
 かけられらた魔術、それ以上に、シエルから逃れるためとはいえ、あんな怪我で橋から身投げなど、危険極まりない。
 志貴が死ぬなど、シオンには考えられなかった。いや、考えたくなかった。
 「私はまだ、誓いを果たしていない……!!」
 ぎり、と奥歯を噛み締める音と共に、そう吐き出した。
 黒猫は、ただそれを横目で眺めるだけだった。
 そんな姿にシオンは気づき。
 「どうですか、レン。貴女は志貴と契約しているのですから、居場所くらい分かるのではないのですか?」
 志貴の所在を尋ねた。
 志貴とレンは契約を結んでいる。使い魔の契約だ。彼らの間には魔術的な繋がり――――霊的なパス、レイ・ラインが繋がっている。そこから流れる魔力の源を探れば、志貴の場所くらい分かるだろう。
 そうシオンは思ったが。
 「……」
 返ってくるのは、否定の表情だった。
 「そうですか……やはり、今の貴女達の状態では、互いの探知は無理なのですね」
 レンは自己回復に魔力のほとんどを注ぎ込み、志貴は魔術を使えない。
 いや、例え魔術を使えたとしても、現状のレイ・ラインでは流れる魔力量が微弱すぎて、探知は無理なのだ。
 薄々、そう理解していながらも、シオンは聞かずにいられなかった。
 こうして勢いよく飛び出してきたはいいが、実際のところ、手がかりは何もない。
 レンの探知のみが頼りだったが、それが駄目となると、最早見当がつかない。
 それでも。
 (――――こうして、動くことに意味がある……!)
 何も分からないと、部屋で閉じこもっているのならば、それは停滞だ。
 事態の流動を願うのならば、それが無駄でも、まず動くことこそが肝要。
 (それを教えてくれたのは、貴方なのですよ。志貴)
 無駄と分かりつつも、いつか二人で行った夜の探索。
 光景が、シオンの脳裏に蘇る。
 その時。
 「――――」
 レンが、立ち止まった。その姿はいつの間にか、人型に変わっている。
 「……レン?」
 その表情は、どこか、決意に満ちていた。
 眉は上がり、口は一文字に結んでいる。いつもの無表情ではない。
 ふと、思考がきた。
 「これは――――?」
 言葉以前の言葉、とも言おうか。言葉≠ニいう明確な形になる前の思考、イメージがシオンの脳内に伝導する。
 レンの思考が、シオンに伝わる。
 今の状態じゃ、確かにシキの居場所は分からないけど――――
 す、と目を閉じ。暖かなものを抱くように、胸に手を置く。

 ――――シキは生きている。ラインから伝わる鼓動は、まだ絶えていない

 そう、希望のイメージが、シオンに照らし出された。
 「志貴は、生きている……」
 レンは『今の状態では』、と言った。ならば、時間が経ち、レンが回復すれば志貴の居場所も感知出来るだろう。
 志貴が生きているのならば――――確実に志貴とは出会えるのだ。
 「良かった……。貴女がそう言うのならば、志貴は確実に生きているのですね……」
 月を見上げ、目を細めて祈るようにシオンは、そう呟いた。
 瞬間。

 真上。黒鍵が、月光と共に、雨霰とシオン達に降り注いだ。

 「――――っ!!!」
 捲れ上がるコンクリート。拉げる街灯。崩壊する壁。
 その威力。埋葬機関の奥義、鉄甲作用の威に相応しい――――!!
 「――――聞き捨てなりませんね」
 降り注ぐ月光と飛礫の中、シオンの耳に、その言葉は確かに聞こえた。
 その時、びくりとレンの身が強張った。
 (――――レン?)
 八百年の時を生きる強力な夢魔。レンが、言葉一つで怯えている。
 それは畏れだ。
 出会ったが最後。昨夜の悪夢が再現される。
 打ち下ろされるのは、死神の鎌。何人たりとも逃れることは出来ない、魔を絶つ聖刃。
 絶対的な力は、遙か高みに。行使される力は、あらゆる不浄の力を凌駕する。
 故に魔なる存在のレンにあるのは、畏れなのだ。
 そう。

 ――――ありとあらゆる魔を断罪する存在。
 埋葬機関第七位の代行者。
 『弓』のシエルが、第七聖典を携えて、シオンの前に現れた。

 「代行者……!」
 シオンは身を硬くする。
 そうだ。何故考えなかった。
 志貴を狙っているのは、シエルなのだ。
 ならば彼女が止めをさせなかった獲物を探すのは必定――――!
 「遠野君が、生きてると。貴女達はそれを知ってしまった」
 「――――?」
 シオンはシエルの言葉に違和感を感じる。
 言葉は続く。
 「やはり貴女を追っていて正解でした。シオン・エルトナム・アトラシア。……貴女を彼に会わせるわけにはいかない。
 ――――彼は、このままにしておくのが、一番だ」
 決定的だった。
 今の言葉。シエルは、志貴の現状をレンに頼ることなく知っているという事実。
 それ即ち。
 目の前の代行者は、志貴の居場所を知っている――――
 「志貴が、何処にいるか知っているのですね! 志貴は今――――!」
 思わず身を乗り出す。その行為が、どれほど危険なのか、考えている余裕は今のシオンには無い。
 返す行為は言葉を紡ぐことと。
 「……会わせるわけにはいかないと言ったでしょう。私にとって、今重要な事実は。
 ――――貴女は、そこの使い魔が居なければ彼を追うことが出来ない、ということだ」
 一本の黒鍵の投擲だった。
 その軌道は、一直線にレンへと向かっていく。
 「っ――――!!」
 慌てて、それを打ち落とそうと銃を取り出し、構える。
 だが、そんなもの。
 ――――鉄甲作用を含んだ、神速には遠く及ばない。
 黒鍵は、レンの眉間に、寸分違わず打ち込まれ――――

 その寸前。
 あらゆる悪運(バッドラック)を砕く拳が、雷のような速度で破砕した。

 「……!!!!」
 驚きの声は三つ。黒鍵を放ったシエルも、驚愕の声を隠せない。
 小柄なレンを守るようにして、立ちはだかるソレは。
 ――――紛れもなく、戦神にして守護者だった。
 その顔を。
 シオンは知っていった。
 三ヶ月前、クリストファー・クリスティとの一件で共闘した封印指定の執行者。
 悪運(バッドラック)を砕く拳の持ち主。神代の宝具を受け継ぐ伝承保菌者(ゴッズ・ホルダー)

 バゼット・フラガ・マクレミッツが、そこに居た。

 「……七夜志貴、か。その名前には、少しばかり因縁があります。代行者、それを阻むというのなら――――」
 拳を握り、一睨み。
 挑戦的な視線がシエルに突き刺さる。
 「――――この拳で、それを打ち砕いて見せましょう」

 にやりと。
 バゼットは不敵に笑った。

 全てを嘲笑うかのように、カウントダウンの針が。
 また一つ、音を立てて、廻る。

...Count down Start "4 to 3".

  * * *

 /Gear of the interval "4 to 3"

 すぅ、という寝息が聞こえた。
 彼の寝顔を見る。
 その顔はとても安良かで、どこか、子供のような可愛らしさを見せていた。
 病院には行けない、という言葉には困ったが、怪我の治りは問題なさそうだ。
 元々、私は治癒魔術にちょっとした自信がある。一般人に使っていいかどうか、少し悩んだけど、人命には変えられない。そもそも普通の応急処置では間に合わない大怪我だったのだ。仕方ないと言ったら仕方ないだろう。
 「……寝顔は、とても可愛らしいのに……」
 私は、そう呟いた。
 彼の表情は、いつも何処か陰を含んだモノばかりだ。
 過去の記憶が無く、自分が誰なのかも分からない。何をしていたのか、何をしようとしていたのか、分からない。
 とりわけ彼は後者に悩んでいるのだろう。
 何処か、いつも焦燥感に駆られているような感じが、ひしひしと伝わる。
 (――――何で私は、それをどうにかしてあげたいと思ってしまうのだろう……)
 もう止めようと思ったのに。
 あんな思いをするくらいなら、もう二度と人と関わらないように生きようと思ったのに。
 どうして、私は……。
 (でも、助けてあげたいと思ったんだもの。放っておけなかったんだもの)
 理由は分からない。
 買い物の帰り、河原で倒れている彼を見たとき、衝動的にそう思ってしまった。
 一瞬だけ、あの人≠ノ面影が重なったせいかもしれない。
 だから、彼が『病院には届けないでくれ』と言ったときも、すんなりと受け入れたのだ。
 「ハリー……私は」
 今はもう居ない、あの人の名前を呟く。
 そうだ。あの人はそう言う人だった。
 いつもいつも青臭い正義感を振りかざし、困っている人は放っておかない性分だった。
 いつかの言葉が、胸を打つ。
 ――――君が言うように、僕は間違っているのかも知れない。でもね、僕はどうしても無視できないんだ。泣いてる人、困っている人、それがどんなに偽善だとしても、自分が正しいと思ったことを裏切ることは出来ない。サラ、いつか君にも分かるときが来るよ――――
 「ハリー」
 もう一度呼ぶ。
 頬に涙が伝った。
 「どうして、貴方は、ここに居てくれないの――――」
 何度繰り返したか分からない、そんな問いを口にする。
 忘れたいのに。
 忘れたいのに。
 まだ、この胸には、彼の面影が――――
 「……」
 ふいに、彼の姿が見たくなって、机の一番上の引き出しを開けた。
 そこにあの人と私の姿が写った写真と――――一本のナイフが見えた。
 す、とそれを取り出す。
 「これ、何なのかしら……護身用にしては、物騒なものだけど……」
 今、安らかに眠っている彼の唯一の持ち物が、このナイフだった。
 単なるナイフではなく、ちょっとしたギミックが仕込まれている――――つまり、飛び出しナイフの類だった。
 しゃきん、という小気味よい音と共に、刃が飛び出す。
 随分使い込まれているようだ。
 刃は所々刃こぼれしているが、きちんと研がれているので、物を切るには問題無さそうだ。
 柄を見る。
 鉄で出来た柄。握っているだろう部分がはっきりと視認できる。それは随分と長い時間握られていたことを物語っていた。
 「……?」
 その柄に、何か文字が書かれているのを、初めて見る。
 日本語のようだ。
 自分には、それがどんな意味を持つのか分からない。
 「……これが、彼の名前かしら」
 七夜≠ニいうカタチに込められた意味。
 それが、どんなものかは分からない。
 だけど、何故か。
 ――――これを彼に見せてはいけない、と心の何処かで思っていた。
 そうなれば、きっとこの生活は、破綻してしまうだろうと――――

 「――――え」

 気付いた。
 私は、彼との生活を、失いたくないと、思っている――――!?

 「な、んで……」
 上手く言葉を作れない。
 どうして、と思うけど、だがしかし理由が出てこない。
 ああ、私は――――

 そのとき。
 ドクン、と心臓が高鳴った。

 鼓動は早まり、黒い衝動が身を包もうとする。
 「駄目……私は……」
 震えている腕。蠢く体。
 耐えられなくなって、膝を崩す。
 それでも、七夜≠ニ刻まれたナイフを離すことは、決して無かった。

.......to be continued

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