......Prelude of Pandra's song
Episode.6 <Side
: Fate & 月姫>
霧の街、ロンドン。街は闇に沈み、冷厳なる月の光が辺りを照らしている。
――――その、夜の帳を、一つの銀閃が切り裂いた。
ひゅん、と飛散していくソレは、正に豪速。弾丸と何ら変わりない速度で迫る銀の閃光は、予定調和のように七夜志貴の腹部に突き刺さった。
衝撃が全身を貫き、街灯に叩き付けられる。
「がっ――――!!!」
血が口角から滴り落ちる。その全身は傷だらけだった。あちこちに裂傷が目立ち、そして腹部に突き刺さったソレは明らかに致命傷だ。
痛みと失血による目眩に気絶しそうになる意識を引き絞り、腹部から銀の刃を抜く。
――――黒鍵。
その、銀の刃は、教会の代行者が使用する、聖なる神の加護を受けた剣だった。
だん、と音一つ。
志貴の目の前に、小柄な体が転がった。
「っ!! レン!!!」
苦しげに身を捩るのは、志貴の使い魔、レンだった。その身は志貴と同じく傷だらけだ。いや、致命傷がないだけ、レンの方がマシかもしれない。
「くそ……」
悪態を一つ、同時に志貴は吐血する。血まみれの姿を見下ろして、ぎりと歯を噛み締める。
(俺は、こんなところで這い蹲っているわけにはいかないんだ……)
全身を激痛に苛まれながらも、志貴は立ち上がった。
このままでは駄目だ。
こんな所で倒れていては――――殺される。眼前に迫ってくる死神に。
その鎌は、ぴたりと志貴の喉もとに突きつけられているのだ。
ぞぐん、と全身が総毛立つ。
殺される。
殺される。
そう、
コツン、と。
死神が、闇の淵から、その姿を現した。
「…―――シエル、先輩」
右手に数本の黒鍵を携えた、黒い法衣服と青みがかったショートカット。
聖堂教会、埋葬機関第七位『弓』のシエルが其処にいた。
「……だから言ったでしょう。シスターカレンの所で大人しくしていなさい、と。私だって、こんなことはしたくないのですから」
そう口にするシエルはしかし、冷酷なる無表情で志貴を見つめる。
言葉を続ける。
「状況から考えて、間違いなく久遠寺アリスの計画に組み込まれている貴方を、このまま放置しておく訳にはいかない」
数本の黒鍵を握った右手に力を込める。
噛み締めた奥歯が、ぎりと音を立てた。
「そう、なのに貴方はそんなことお構いなしでアリスを追う。全てアリスの手の内で踊っていると知りながら――――正直、貴方の存在は邪魔なことこの上ない。……そう、元々貴方がアルクェイドを追うこと自体、私は反対だったんです」
言葉が終わるやいなや、シエルは右腕を振るう。
風を切る音と同時。
「がっ――――!」
何本もの黒鍵が志貴の体に突き刺さった。
四肢に刃が食い込み、鉄甲作用による衝撃が全身を貫く。骨が軋み、血が吹き出した。
(は、やすぎる……くそ。この怪我じゃ、とてもじゃないが躱すことなんて……)
少しでも回避運動をしようと、身を捩る。だが、そんな動きではとてもじゃないが、代行者という悪魔じみたモノから逃れることなど出来はしない。
「今までは大目に見てきましたが、これ以上勝手はさせません。例え、その四肢をもいででも、大人しくして貰いますよ――――
シエルの無表情を宿す瞳が、冷酷に光った。
その様は正に代行者。教会が誇る埋葬機関第七位の姿だった。
「く……」
体から黒鍵を引き抜く。そしてシエルのように、黒鍵を五指に挟み込んだ。
思い切り振りかぶる。
「――――俺はっ」
ぎしぎし、と志貴の体から軋む音がした。全身が千切れるような激痛と衝撃に顔を顰める。だが、そんなことはお構いなしだ。そのまま全身を捻り、力を一点に集中させる。
「七夜って、言ってるだろう――――――――!!」
閃光三つ。
夜を切り裂くように、一直線に走る。
だが。
「……そうですか。なら――――」
金属音が連続して鳴り響く。
シエルのその動きは正に高速を越えた瞬速。
――――志貴が投げつけた三本の黒鍵。それは、シエルのたった一本の黒鍵によって、全て弾き落とされた。
冷酷な瞳は、少しも揺らがず。ただ宣告を一つ、告げる。
「その、七夜の名を、忘れて貰います」
ゴガン、とコンクリートの地面が砕け散る。
シエルの身が、志貴の視界から完全に消えた。
「!?」
それを確認したと同時、志貴は右に横にステップ。だが、その動作は傷のせいか、どこかぎこちなく、鈍い。
その程度で教会が誇る埋葬機関から、逃れることなど出来るはずもなかった。
「――――!!」
志貴が地面へ足を付けたと同時、シエルは既に志貴の眼前にいた。
ド、という巨大な殴打音。
掌打が志貴の腹部に深く沈み込んだ。
「が、は――――」
肋骨が悲鳴を上げる。文字通り、音を立てて、志貴の体が軋みを上げる。
肺の空気を残さず吐き出させられ、志貴は橋上へと投げ出された。
ガン、と。鉄のレール――――欄干が音を立てる。
「がはぅ、はぁ、は、ぁ――――く」
欄干に苦しげに寄りかかる志貴。
その音に気付いたのか、レンがうっすらと目を開けた。
「っ!! ――――!!!!」
傷ついた志貴を見て、焦り、這いずるようにレンは駆け寄る。
「レ、ン……!」
志貴は手を伸ばす。それはまるで救いを求めるように、救いの手を差し伸べるように、レンへと向けられた。
だが。それら一切合切を絶たんとばかりに。
――――コツン、と。
シエルの足音が辺りに響いた。
夜の大気よりなお冷たい瞳が、志貴を冷酷に見据える。
瞬間。
す、と志貴に掌に向け。そして、同時に魔術陣が発光した。
それは魔力の猛り。魔術の行使。
自ら嫌っている魔術の展開。それが意味することは――――
(先輩は……本気だ。本気で、俺の記憶を消そうと……!)
ぞくりと。悪寒が、身を包んだ。
今まで積み上げてきた全てが、崩れ去るような感覚。
色んなモノとの決別。
結婚式。
大切な人の笑顔。
優しさ。
思い出。
記憶。
――――約束。
忘れないと誓った、その全てを――――
「……忘れなさい。全て忘れて、貴方は……妹さんの所へ戻るべきだ」
志貴に向けて、その魔術が、放たれた。
ぎちり。
脳髄が軋んだ音が、志貴には聞こえた。
「が、ぁあああああああああああああ!!!」
浸食されていく何か。身を喪失するような絶対的な空虚。抗うように身を振る。
走馬燈のように記憶が走り、そして同時にフェードアウトしていくように消えいく。
それは止まらない。志貴は魔術師ではない。魔術に抗う術など持っていない。
故に。自身の未来には。
――――おおよそ考えられる、最悪の結果しか残っていなかった。
消えていく。消えていく。
今まで積み上げた全てが――――
「させ、る……かぁ――――――!!!」
だが。それら一切合切を、志貴は意志一つで振り切った。
「ぎ――――!」
ぎち、と握り潰すように頭部を抱え、奥歯を噛み締める。
全身全霊。
自らが使える全てを動員して、記憶の消失に足掻く。
失って、たまるか
ただそれだけの想い一つで、シエルの強力な魔術にレジストする。
そして。
――――立ち上がった。全身の傷から、血を垂れ流し、激痛に蹈鞴を踏む。それでもなお、全てを投げ打つように志貴は立つ。
そして、苦しげに頭を抱えたまま、志貴はシエルを指差した。
「……いいか、先輩。もう一度言う――――」
じり、と足を後退させる。その行動が意味することは――――
「っ――――遠野君! 止めなさい!!」
焦り、シエルは急ぎ駆け出すが、しかし間に合わない。
ニヤリと。
志貴は血だらけの顔で、静かに笑い。
「――――俺は、七夜だ」
橋の上から、その身を空に、投げ出した。
大きな水音が一つ、闇夜に木霊する。
「――――っ!」
レンが、それを追うように、欄干に縋り付いた。身に刻まれた傷の痛みも気にせず。その小さな躯で、ただそれだけしか出来ないイキモノのように、がむしゃらに駆け寄る。
「あ、あ、あぁ、ああああ―――――」
現実を拒絶するように嫌々と首を振る。普段決して漏れることのない嗚咽が、小さな喉から響く。
そして。
「シキ―――――――――!!!!」
有り得ざるレンの叫び声が、月光の下、鳴り響いた。
「……遠野君。貴方は――――」
波紋が残る、水面を見つめながら。
黒い
ゴォン。ゴォン。
アレグロの鐘が鳴る。
鳴り響く。
鳴り響く。
鳴り響く。
ロンドンを彩る紅蓮の炎。
――――その、カウントダウンを
アレグロの鐘は、強く強く、鳴り響く。
パンドラの唄〜前奏曲
第六話『対極共鳴』
/Count Down 5
Lost ――そしてナイフは欠け落ちる――
「……はぁ。全く、いつもながら凛は強引だよな」
夕暮れの街、大きな買い物袋を二つ、両手に抱えながら衛宮士郎は溜息を付いた。
つい一時間前までの出来事が、脳裏に浮かび上がる。
『あんた、暗すぎ』
『――――は?』
ばさり、と眼鏡姿の凛が夕刊から顔を出し、突然口火を切った。
『幾ら久遠寺アリスのことが何も分からないけどさ、いつまでもそんな辛気くさい顔をしてたら、こっちも気分が悪くなるわ』
『……そう、か?』
『そうよ』
ずばりと断言する凛。
いつも思ったことを包み隠さずに話すのは、彼女の美徳の一つである。
そんなことくらい、長年連れ添ってきた士郎には理解出来ている。出来ているが――――
――――士郎は自身の気持ちが沈むのを、止められなかった。
自分たちがロンドンへと舞い戻ってきた理由。
それらは全て、久遠寺アリスを止めるためだ。
にも関わらず、その動向や目的なども一切分かっていない状況。
それは何か起こる、と理解していながら、何も出来ない無力感だ。それが、士郎の心に焦燥ばかり駆り立てる。
ロンドンに戻ってきて、バゼットから様々な情報を聞いた。久遠寺アリス、
結局俺は、事態が起きてからじゃないと、何も出来ないのか……
聖杯戦争から三年。自分なりに努力してきたつもりだが、結局。何も変わってはいない。あの頃、セイバーや凛に助けられてばかりの自分と。
その事実をまざまざと見せつけられているようで、士郎はそのことが、堪らなく嫌だった。
力だけが正義とは思わない。だがしかし、それでも力によって救われる命が存在するのも、また事実だ。そう、十三年前に自身が切嗣に救われたときのように。
全ての理不尽に抗う力を
そう願っていても、この手にはいつも無力感しか残らない。想いとは裏腹に、現実は常に痛苦にも似た脱力感を伴った。
己の左腕を見つめ、睨む。
投影魔術の痕が、黒々と焼き付いており、それが余計に無力感を煽った。
焼け付く肌。白に染まっていく髪。
まるで
そんなことを思っていると、凛から先ほどのような言葉が放たれたわけである。
『そんなに暗い顔をしていたか、俺?』
『うん。暗い。ドン引きよドン引き。ルヴィアや綾羽達も心配してたじゃない。良く悪くも、アンタは皆の中心なんだから、悪い空気を振りまくのは止めなさい』
『…――――』
皆の中心、というのはともかく、確かに不安というのは伝染する。久遠寺アリスのことは気にかかる。だが――――そのせいで、周りに心配をかけるなど、最低だ。
『そんなこと、ないぞ?』
無理に笑う。
だがしかし、それでもその笑みは、どこか陰を含んだモノだった。
『ああ、もう。アンタ顔に出やすいんだから、そんなんじゃ余計に周りに迷惑をかけるだけよ。いいから、そこら辺でも歩いてきなさい。一人で適当にスーパーでもブラついていれば、少しはマシになるでしょ』
『はぁ……でも、今日の食事当番はり――――』
『いいから! とっとと行ってきなさい!』
がぁーと吼える凛。その様子ではこちらに有無を言わさないようだ。
全くいつものことだが、言っていることも確かに事実だ。不器用な自分では、この不安を隠し通すことなど出来はしないだろう。
なら、新鮮な空気を吸って、気分転換するのいいかもしれない。
――――それが無意味だと知りつつも、士郎は凛の提案に頷いた。
「は――――」
士郎は空を見上げながら、もう一度溜息を吐いた。
それは決して陰を含んだものではない。
(確かに、気分転換にはなったかな……)
今日の夕食は何にしようかとか、この食材は新鮮か、などという思考がほとんどを占め、余計なことを考える暇が一切無かったせいだ。まぁそれは士郎本人の趣味もあるが、それ以上に、この辺を疎かにすると自分の相方の逆鱗に触れること間違いなしという事実の方が大きい。。
過去、そのせいで要らない怪我を負ったことが幾度もあった。
……アレを見たら鬼も裸足で逃げ出すこと間違いなし。
最早、食に関する判断は、生死を分ける死闘のソレと何ら変わらない。おかげで、それは本能に染みこんでおり、気分転換には持ってこいの作業であった。
(――――それも情けない話だけど)
苦笑しつつ、士郎は茜色に染まった夕日を見る。
確かに、気分転換にはなっただろう。だが、それは一時的なモノだ。決して問題が解決したわけではない。
久遠寺アリス。
姉同然であった霧生朱美を殺し、そしてアインツベルンの嫡子たるリヒャルトを殺した。そして、世界を混沌に導いている張本人。
……私を止めたいなら、ロンドンへいらっしゃいな。貴方達も招待してあげましょう、赤い月の夜――その演劇の舞台に
招待、と言っていた。何か、企んでいることなど、最早自明の理だ。
全世界で起こっている『
そして、赤い月=B
人間の
それは月の満ち潮にも似た、魔術師にとっては基礎中の基礎、当たり前の知識だ。
赤い月≠ニは、世界の
吸血鬼が最も力を得る夜であり、恐らくそれは『
数ヶ月に一度訪れるという夜を、わざわざ久遠寺アリスは指名したのだ。間違いなく、何かあると考えるのが当然であろう。
赤い月≠フ夜は、近い。
魔術協会も、そのことに気付いており、そのための予防策を幾十にも張り巡らせている。普段、仲の悪いアトラスの錬金術師にも協力して貰っているという。そして、同時。聖堂教会もまた、久遠寺アリスの動向に目を光らせている。
今のロンドンは異常だ。魔術師、錬金術師、代行者――――普段、決して交わらないはずの勢力が、ロンドンに集結しつつある。
久遠寺アリスにせよ『
そう――――斃される。
「――――っ!」
吐き気が胸の内からこみ上げ、ドクンと心臓が吼える。
人のカタチをしたものが朽ちいくということ。
人のカタチをしたものが殺されるということ。
黒い自分が、胸の内から問いかけ、穿つ。
――――それは、果たして、見過ごして良いモノなのか、と。
久遠寺アリス。『
自我がない単なる獣ならば、こんなにも躊躇うことは無いだろう。冬木の街で戦った、
だが、彼らには確固たる
それを証明するような人物が、士郎の頭を掠める。
霧生朱美。
悲劇に狂い、世界が憎いと泣いた、一人の女性。
それを化け物と。一括りに蔑み呼ぶことは、士郎には出来ない。
ならばもし、同じような境遇に彼らがあるとするならば。――――それを殺すことは、果たして正しいのか。
いや、士郎とて理解しているのだ。
この世に善も悪もなく。在るのは想い一つだけだと。
だからこそ、切嗣は悩み、アーチャーは摩耗したのだ。
誰かのためと。自分が守ったということを覚えてくれる人が――――凛という傍らにいる人が在るのならば、自分は決して迷わないと思った。
それでも、いざこうして問題に直面してみれば、また自分は悩んでしまう。
(……駄目だな。これじゃ、ただ凛に縋っているだけだ――――)
凛にはそれが分かっているからこそ、こうして『気分転換してこい』と言ったのだろう。
自分が生きた証。それは決して人に縋ることで生まれるものでは無いはずだ。
それは理解している。そんなことは、あの時。霧生朱美を殺すと、決意したときに。
ただ、今はそれが何なのか分からないだけ――――
「……」
結論は出ないまま、夕日は沈む。
士郎はそれを見つめ続け――――そして日が完全に沈んだとき、橋の下、河原の影に『ソレ』を見つけた。
「――――――?」
初め、『ソレ』は何でもない只の襤褸切れだと思った。元はそれなりに綺麗なモノだったのだろうが、今はもう見るも無惨に摺り切れてボロボロになっている。
そして、その襤褸切れには―――――
―――――赤い血が、付着していた。
「―――――……!!!!」
一気に、血が沸騰した。
魔力で水増しした視力で、射貫くように『ソレ』を見る。
『ソレ』は、小さな少女だった。
ふわりとした漆黒の服。白い肌。小さな躯。大きな瞳。
普段、陽の下で見るのならば、さぞ美しい少女だろうと思う。しかし、漆黒に沈み、そして摺り切れ傷だらけになっている今では、それはとても弱々しく、見る影もない。
「――――」
びきり、と頭の何処かで音がした。
倒れている小さな体。
――――助けてくれと願う誰か。
赤い血。
――――襤褸切れのように死んでいく誰か。
それを。
――――それを踏みつけて生き延びる、自分の姿。
いつか、見たような、気がする。
一瞬。
あの地獄が、脳裏に蘇った。
だ、と駆け出す。買い物袋が地面に落ちる音が聞こえた。
思考が漂白される。
何もかもが忘却の果てに飛ばされる。
まるで過去に逆行していくような感覚の中。
――――意識は、その、始まりの姿を捉えた。
倒れている自分。
見上げた空は赤く。
そして、涙を流す、男の顔が――――
(ああ、そうだ。俺は、切嗣のように、倒れている誰かを救いたくて――――)
正義の味方を、目指したのだ。
あの時、自分が救われたように。自分もいつか誰かを救えることが出来たら。
それは、どんなに――――
だから今は疾駆する。
目の前に倒れている誰かを助けるために、全霊を以て駆け抜ける。
――――士郎は、今こそ。
◇
それは、全く以て、偶然だった。
確かに必然である要素もあった。しかし、それは要因の全体から見て、所詮微々たるもので。
つまり――――遠坂凛とシオン・エルトナム・アトラシアの両名が出会ったのは、完全に偶然だったのだ。
「全く、士郎ったら……」
凛のその声は怒りともいうよりも、何処か焦燥のソレを含んでいた。
紅茶を口にするが、全然美味しくない。
凛は、いつものように淹れたはずなのだが。
(これも士郎のせいよ……もう。いつまでもウジウジと……)
かちゃり、と普段よりも少し、大きな音を立てて、カップを置く。それを聞く者は凛の他に誰もいない。
それが、何故だか、悲しくて。そして、気付く。
(分かってるわよ。これが、八つ当たりだってことぐらい)
そう、悲しい。
凛とて理解しているのだ。士郎の懊悩の原因。それが、簡単に決着の付く問題ではないことだと。
凛、私を頼む――――
「……ごめんね、アーチャー。私、ちょっと自信無くなってきたわ」
士郎に着いていくと決めた。それを曲げるつもりはない。
だがしかし、それでも挫けそうになる。
士郎が直面している問題はあまりにも大きすぎて、どうしても打倒出来るとは思えないのだ。
答えはなく、思考と苦悶は二重螺旋を形作る。
それにもかかわらず、彼はそのまま突き進もうとする。身を剣にして、一人吹雪に立ち向かうように。
――――それが、凛には悲しかった。
どうして自分に話してくれないのだろう。どうして一人で抱えてしまうのだろう。
霧生朱美の一件。そしてリリィスフィールの一件。それで少しは近づけたと思ったのだが――――
(一緒に行こう≠チて、言ったじゃない……)
悩んでいると。一言でも自分に漏らしてくれればいいのだ。
俺はどうすれば正義の味方≠ノなれるのだと。一言、そう。
そうすれば、凛も胸を張って言える。それが正しいのかどうかは問題ではない。問題は、答えのでないものを自己だけで解決しようとすることが問題なのだ。
答えのない問いを、自己だけで解決することなんて間違っている。
否。その方法では、そもそも解決することなど出来はしない。
そう、そのような無限循環に陥るような問題は、あらゆる意見を見聞きし、そして経験によって――――それが自分だけのモノだとしても――――初めて答えが出るのだ。
裡に閉じこもっていては、解決など出来るはずもない。
だから、悲しいといえばそれが悲しかった。
共に歩むと決めたのに。自分に話してくれないことこそが――――
その時、一つのチャイムが、屋敷に響き渡った。
「――――? 誰だろ。こんな時に……」
単なる宗教勧誘だったりしたら、全力で追い返してやる、と不機嫌オーラを撒き散らしながら、玄関へと向かった。ちなみに、以前しつこい宗教勧誘を一蹴したとき、この屋敷はブラックリストに載っているので、そんなことはまずあり得ないのだが。
ガチャリ、とノブを捻り、ドアを開ける。と、そこには――――
「……ミス・遠坂ですか? 衛宮士郎、という方はこちらにいらっしゃるでしょうか?」
――――すごい、美人がいた。
少々紫がかった透くような髪と、瞳。滑りが良さそうな綺麗な肌。端正の整った顔。
その、どれもが十人を十人、振り向かせることが出来るだろう。
まぁ、全然合っていない(凛から言わせれば趣味の悪い)コートと、その下にある白衣が、それらを台無しにしていたのだが。
(また変わった子ね……にしても士郎のヤツ、いつこんな可愛い子と知り合いになったのかしら……)
アイツには何か女を引きつけるフェロモンでもあるんだろーか、と凛は思う。
むむーと不機嫌な顔のまま、口を開き
「――――挨拶もまともに出来ない方に、話すことなど何もありません」
と、一刀両断した。
目の前の美人は、それを意にも介さず
「これは失礼しました。――――私はシオン・エルトナム・アトラシア。アトラスの錬金術師です」
頭を下げ、優雅に言った。
「アトラシア? ちょっと待って、アトラス協会の次期会長が、一体私達に何の用――――?」
凛の言葉を遮るように、シオンは一枚の絵はがきを差し出した。
見るとどうやらそれは結婚式の招待状だった。幾分か、色褪せているので、それなりに前のモノなのだろう。そして中央には眼鏡をかけた黒髪の青年と、モデル顔負けの快活そうな金髪の美人が写っていた。
その、金髪の美人に、どこかで見たような違和感を感じたが、それはシオンの言葉によって掻き消えた。
「人を、探しています。――――そうですね。貴女でも構わないでしょう。この絵はがきに写っている男性を、何処かで見たことがありませんでしたか? 今は眼鏡をかけて無くて、代わりに、白い包帯を巻き付けています」
「……また随分と変わった趣味の人を探しているんですね」
と、思考を巡らす。しかしそれは一瞬だ。
眼鏡の代わりに包帯、という怪しげな格好を見たことがあるなら、そのインパクトは決して忘れられないものだろう。
記憶の中に、そんな衝撃は無い。
だとしたら、答えは一つだ。
「残念だけど、私には心当たりはな――――」
そこで、ふと気付いた。
以前、ロンドンでの霧生朱美の事件において、確か、士郎がそんな人物に会ったと言っていたような気がする。
「知っているのですか? なら教えて下さい。彼は今どこに――――」
シオンは、どこか焦燥を感じさせながら、凛に問うた。だが、凛は居場所など聞かれても分からない。ただ、士郎の話の中に出てきたような気がする、という、その程度の話だ。
それでも即答出来なかったのは、一重にシオンの必死な態度があったからだろう。端から見ると冷静沈着なのだが、その実、焦って仕方がないという気持ちが、滲み出ている。
その態度が凛に即答を許さなかった。彼女は恐らく、この写真の男を――――
「凛! 治療を頼む!」
と、余計なことを詮索してしまう前に、士郎の声が飛び込んできた。
見れば、シオンの後ろに、士郎が息を切らせて何か≠抱えていた。それが何なのか、凛が確認する前に――――
「――――レン!?」
シオンの驚きの声が、響いた。
――――そう。遠坂凛とシオン・エルトナム・アトラシアが出会ったのが偶然であるのならば。
レンとシオンの邂逅もまた、同じ偶然なのだろう。そして士郎との出会いも。
偶然に偶然を巻き込み、世界は歯車を廻していく。
或いは、この偶然がなければ。
――――先にある悲劇も、また無かったのかも知れない。
カウントダウンの針が、ガチリと。
廻った。
...Count down Start "5 to 4".
* * *
/Gear of the interval
"5 to 4"
――――When you wish upon a star
Make no difference who you are
Anything your heart desires
Will come to you――――
歌が聞こえる。
深い深い闇の底で、一筋の光が差し込むように。柔らかく包む日差しのように。
意識がゆっくりと浮かび上がる。
――――Like a bolt out of the blue
Fate steps in and sees you through
When you wish upon a star
Your dream comes true――――
星に願いを。
そう綴られる声が、優しく自分を引き上げていく。
目蓋に光が差し込む。闇の世界がフェードアウトしていく。
うっすらと、自分は、目を開けた。
「う……」
朝、だろうか。
小鳥の囀り。差し込む光。
何だか、久しぶりに、目を開けたような気がして――――
――――凄い、違和感に囚われた。
「あ、え――――?」
其処には普通の光景があるだけだ。
綺麗に畳まれた衣服と、包帯だらけの体。綺麗で清潔なシーツに、控えめだけど可愛らしい絨毯にタンス。
それは普通の光景。普通の光景だ。
それなのに、どうして自分は。
かたん、と音がして扉が開いた。
目を向けると、そこには褐色の肌と綺麗な銀髪をした女性が、トレイを持って、立っていた。
それを見て。
さっき聞こえたあの歌は彼女のものか、と不思議に納得してしまった。
なぜなら、あの歌はとても綺麗で。
――――目の前にいる女性もまた、美しかったから。
そう。純粋に綺麗だと。どうしてか久方ぶりに、そんな感情を揺り起こした気がする。
「目を覚ましたのですね……具合はどうですか? 酷い傷だったんですよ貴方」
控えめな微笑を湛え、小さな音と共に、トレイを俺のすぐ側に置いた。
「酷い……傷?」
ずきりと。
脳髄にノイズが走ったかのようなに痛むが、しかし、自分の思考には何も浮かんでこなかった。
文字通り、何も。
「えぇっと。私、サラ・ハミルトンって言います。
――――貴方の名前は?」
「俺の名前……俺は――――」
ざぁっと全身が総毛立った。まるで冷水を思いっきり浴びせられたかのよう。墜落していく疾走感。どこかへ落ちていくという意志の失墜。ぷつぷつと全身が泡立つ。恐怖感が全身を駆けめぐる。
震える唇が、言葉を繋いだ。
「――――
陽炎が立ち上り、大気が撓む。全てが捻れて、現実感の一切合切が崩壊する。
グラついていく視界の中、脳裏に過ぎったのは、彼女の歌だった。
――――
そう歌う彼女の声は綺麗で――――そして、何故だかとても哀しかった。
.......to be continued
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