――いつまでも笑っていられた。ただ、それだけで。
寒気が身を包み、白色の吐息が夜の闇に拡散する。そんな中を私は歩いていた。
耳に流れるのは一つの旋律。静かで、それでも力強い音の連なり。
私は、間違えた。
何を、なんてそんなの分かりきっている。
自分だ。目の前に確かに存在していたチャンス、契機。それをものの見事に打ち砕いてしまったのだ。他ならぬ自分が。
――ああ、此処は寒い。まるで身を裂くようだ。
何が正しいのか判っていて、それでも何もしなかった。悪いのは自分だ。そのことに、是非は無い。
――虚ろな闇が空洞に流れる。ひゅうひゅう、と音を立てて。
意志は絶対だ。そこに行こうとする目的意識。確立する自己の立場。ならば、自ずとやれることとやらなければならないことは見えてくるはず。
――闇は己に囁く。まるで傷に塩を塗りたくるように、自意識を攻め立てる。
だというのに、それをしなかった。私が自分で、自分の立ち位置を破壊してしまったのだ。意図的な後退。飛散する目的。刹那の堕落に溺れる醜いアヒル。
この世に真性なる悪があるとするならば、私のソレを悪と呼ばず、何を悪と呼ぶのだろうか。
底に溜まり、澱んだ意識は闇を呼ぶ。
まるで瘧だ。闇は熱を持ち、私に囁き続ける。
――お前が悪いと。お前は何もしなく、そんな人間に存在意義など無い、と。
やめて、と思わず叫んだ。そこにあるのは拒絶の感情のみ。否定する材料が他に無いのだから、武器は己の意識だけ。
理論武装していない否定など、何の力も持ちえない。そんなものに足掻く力は宿らない。
信念? 信条?
は、やめてくれ。そんなものを持ち出しても、何の意味も無い。それが通じるのは順調に事を進めている人間だけ。いわゆる天才だ。 順調に進めた人生だからこそ持ちえる幻想。
この圧倒的な現実の前には、そのような奇麗事など通じない。
成功者は意志と実力で、物事を成し得た。所詮、信条や信念などという言葉は、成功者が振り返ったときにしか宿らない概念だ。マクロな視点と過去の振り返りを持って、ようやく姿を見せる『生きた証』。
――想いが力を得るのは、御伽噺だけだ。幻想は幻想のまま、現実には成り得ない。
ある人は「次から頑張ればいい」と言い、ある人は「今から頑張ればいい」と言った。
じゃあ、『次』とは何だ? 『今』とはいつだ?
光に居る人間にはソレが分からない。彼我の境界線は遠く、闇に堕ちたモノのことなど見えるはずもない。
落ち続けた人間。次こそ、次こそ、と思いながら結局何もやらなかったという事実。溢れる自己嫌悪。何でやらなかったという悔恨は、遂に取り返しのつかない所まで肥大化した。
もう
なにがただしくて
なにがわるいのかも
わからない。
何もかもを拒絶するしかない人間にとっては、掛けられる現実の全てを否定する。――なら行き着く所は必定だ。そこは、更なる闇に違いない。
自己嫌悪は留まることを知らず。螺旋軌道を描き、思考を雁字搦めにする。同じところをぐるぐるぐるぐる。まるで檻だ。自己嫌悪の檻に閉じ込められて、私は何処にも歩き出すことが出来なかった。
――ひゅう、と一際大きい寒風が吹いた。
思わず縮こまる。冬の寒さは身に染みる。どうしてこんなに寒いのか、という理不尽な感情は、しかし押さえ切れず。世界を憎むような目つきで夜空を見上げ――――
――――そこには目も眩むような、満天の星空が在った。
「あ――」
知らず、涙を流した。理由なんか分からない。ただ案山子のように、呆と立ち尽くしていた。
耳に流れるのは音の旋律。荘厳で、壮麗な、人間と世界を賛美する唄。
誰かが夢を集めて 誰かがそれを壊して それでも世界を彩ろうと 全ての花は咲くのだろう――――
――――遠い国で また 涙は落ちて
視界が、歪む。星達はそれこそ蜃気楼のように。けれども確かに其処に存在する。
ああ、きっと、私は許されたかった。此処に居ていいのだ、と。自分のような駄目な人間でも、存在して良いのだと。
だけど、それは誰に出来るわけじゃなくて。それが出来るのは自己嫌悪に塗りつぶされた自分だけだ。なら未来永劫許されることは無いだろう。
――それでも、許してくれる存在が、あったんだ。
此処に生きる――それは、世界から容認されていることに他ならない。
パーソナリティの存在。確固とした自意識が、未だに私にはある。物事の正否などは、既に無価値。
成功したこと。
失敗したこと。
……堕落したこと。
それら全てひっくるめて、世界は私という存在を容認してくれている――それが何故だか、とても嬉しいことなんだと気付いた。
ああ、そうだ。きっと、生きていくっていうのはそういうことなんだ。
今思っていること。今考えていること。今しようとしていること。
それらを繋ぎながら、私達は生きている。
其処にきっと、是非なんか無いんだ。
善悪を決めるのは、いつも自分。何が正しくて何が悪いのかなんてどうでもよくって。――世界はいつだって、私を肯定してくれていた。
涙が溢れる。視界が歪む。雫が落ちる。
ああ、なんて、綺麗な夜空――――
星降る夜空はあんまりにも綺麗で。まるでプリズムのようだ、と思ってしまった。
「ねぇ、名前も知らない貴方。私、在(い)きていて、いいのかな――――?」
呟いた声は、どこにも届かず。しかし、満天の星空に溶けていった。
……日々を生きよう。それがどんなに醜くたって。それがどんなに惨めだとしても。
それでも、世界は私達を許してくれる。
結局、人間は、自分に出来る範囲のことしか出来ないのだから、それで出来なかったのならば仕方の無いことなのだ。
それが悪いだとか正しいだなんていうのは、私達が決めること。本当は物事の境界線なんて何処にも無いんだ。私達は誰だって、光と闇を追い越していく。
やれること。出来ないこと。――やらなかったこと。
それら全部ひっくるめて、今という日々がある。なら、私がやるべきことは、それに善悪を決めることじゃなくて、繋いでいくこと。
今を繋げて、明日を作ろう。明日を繋げて、未来を作ろう。
――そうすれば、まだ見えない日々に出会えるかな……。
願わくば、その日々が優しいことを祈らん――――
私はいつまでも、いつまでも星空を見上げていた。
――私と貴方が、其処に居る。
ただ、それだけで、笑っていられた。
ただ、それだけで。
短編『プリズムの夜』
――――<了>
解説)
ACIDMANの「プリズムの夜」を独自解釈で小説にしてみた。……中々に難しかったです。
是非、BGMとして「プリズムの夜」を聞きながら読んでみてください。