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 ――――率直に言おう。今日はバレンタインである。

 二月十四日。バレンタインデー。
 269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ヴァレンティヌス(テルニのバレンタイン)に由来する記念日であり、世界各地で男女の愛の誓いの日である。
 世界各国では宝石や薔薇などの贈り物を互いに渡しあい、双方の情愛を確認する日だ。
 さて、そんな風習が欧米などである中、こと日本という国は異端であった。
 贈り物がチョコレート一色なのである。おまけに基本的にやりとりは女性から男性へ、という異端ぶりだ。
 日本にとって、半ば神聖視されているきらいがある、一年で一度の特別な日。客観的に観測すれば、三百六十五日の内の一日であり、休日と言うわけでもなく、あくまで尊い偉人が殉じた日であり、特に特別というわけでもないのだが。
 ちなみにこの日、日本におけるチョコレートの年間消費量の実に四分の一が消化されたりするわけである。製菓会社にとっても特別な日というわけだ。
 そんな事情はさておいて。とくかく日本のうら若き乙女達にとって、この日は特別であり、決戦の日なわけである。
 それは、白陵大付属柊学園3−Bの女子でも同じであった。

マブラブ オルタSS
『One day / Happy days Happy life 』

 朝。いつものざわめきを持つ校舎だが、今日は些か様子が違った。
 妙に浮ついた空気の中、鑑純夏が歩いていた。
 だが、その表情は物憂げだ。前日に徹夜してチョコレートを完成させたことを考えれば、十分に異常と言えるだろう。
 「純夏。そんなに気落ちするでない」
 「そうですよ。タケル様は先にご登校なさる、と仰っていただけでしょう? なら何も心配することはありませんわ」
 そんな純夏に声をかけるのは、御剣姉妹――御剣冥夜と御剣悠陽――である。
 「うん、そうだよね……。頑張ってチョコ作ったんだもん。貰ってくれなきゃ、困るよ」
 そう言ったが、純夏は悪い予感が拭えなかった。
 それは決して、両隣で励ましてくれる姉妹が、全国から一流のパティシエを呼び寄せて、全長三メートルにも及ぶ『超特大☆御剣特製愛情タップリチョコレートケーキ(中央には武と冥夜と悠陽の顔が掘り込んである)』のことではない……いや確かにそのことも幾ばくかは占めているが、ともかくもそのことで気を病んでいるわけではない。
 ましてや。
 「――――御剣。白銀は」
 「純夏さぁん、タケルさん知りません?」
 登校してきたばかりの彩峰慧、珠瀬壬姫両人からの質問でもない。その横で妙にそわそわした委員長こと榊千鶴が何か言いたげそうにこっちを見ていることでも、ない。
 (――――皆分かりやすすぎ)
 そういう純夏が一番分かりやすいのは常のことであるが、ともかく此処で一番の問題となっているのは。
 『わりぃ。今日はちょっと用事で、早めに登校しなきゃならねぇんだ。ということで先に行ってるから! じゃ!!』
 と珍しく早起きしたと思ったら、矢次早に家を出た白銀武の言動にあった。
 その顔は冷や汗だらけで、どこか焦っているようにも見えた。
 ――――妖しい。
 幼馴染である純夏は、率直にそう思う。
 何かもう、誰がどう見ても、その挙動不審っぷりは致命的なまでに怪しいわけであるが、目撃したのが自分だけということもあり、武の怒涛の勢いで押し切られてしまったのである。
 (――――思えば昨日、冥夜ちゃん達のチョコ見たときから様子がおかしかった気がする)
 昨日、百メートル先まで、ずらりと並んだ高名な菓子職人が、これまたどでかい移動型キッチンで、更にどでかいケーキを作っているのを目撃したときだった。
 タケル様用ケーキ建設予定地≠ニ書かれた看板を見た武が。
 『――――勘弁してくれ』
 そう、珠の汗を浮かべて呟いていたのを、確かに純夏は耳にした。
 「まぁまぁ、皆さん。タケル様の下駄箱には靴が入っております。なので、ご登校なされているのは間違いないかと」
 悠陽が言うとおり、確かに白銀武の靴箱にはスニーカーが入っていた。それは間違いなく武のものだ。
 (むぅ。アレは確かに私が前にプレゼントしたスニーカー……)
 と純夏は思うが、まだ不安は拭えない。
 ……ここで悩んでいても仕方ない。教室に行けば、全ては分かるし。
 うん、と気合一発。
 「とりあえず、教室いこ」
 純夏の一言で、妙にそわそわした一団を引き連れて、教室に向かった。……まぁ御剣姉妹は常の如く絢爛風靡、威風堂々であったが。
 ガラッッツ!といつも以上に力を入れて開かれたドアは、がしゃん!!という轟音と共にその身を軋らせた。
 「ちょっと! 鑑さん! 力入れすぎ! 学校の備品をなんだと――」
 「タケルちゃん! 居る!?」
 我らが学級委員長、千鶴の説教をばっさり切って、そう純夏は声を上げた。
 そんな騒ぎを起こしたのにも関らず、教室内のクラスメイト達は喧騒を絶やさなかった。何人かが『やれやれ、また白銀か……』と肩を竦めるだけ。慣れとは、かくも恐ろしいものである。
 キョロキョロと教室を見渡すが、案の定、武の姿は何処にも無かった。
 (ふん。HRまでトイレで時間を潰す気? ――そうはいかないわ。タケルちゃんにチョコレートを一番に渡すのは私なんだからぁ!)
 他の皆も同じような考えなのか、一同揃って、男子トイレへ向かって驀進しようと――――

 「ああ、白銀? 私、玄関で見かけたわよ。でも何でか知らないけど、すぐに中靴で外出てっちゃった。変な白銀」

 したが、柏木晴子の一言によって、ピタリとこれまた揃ったように、動きを止めた。
 「皆おっはよー、タケル居る? ねぇボクね、手作りチョコ持ってきたんだよ? いやぁ、作り方よくわかんなくて苦労したよー。ジャングルではカカオの実なんて、そのまま食べるからさー」
 その一同の後ろから事情を把握できていない、鎧衣美琴の呑気な挨拶が響く。
 
 「――――に……逃げた?」

 実に六人分もの声が綺麗にハモった。

  ◇

 ――――さて、問題。俺は学校をサボって一体何をしているのでしょうか。
 「んなもん、俺にも分からん」
 どさりと、白銀武はその身を地面に預けた。草と土の匂いが武の鼻腔をくすぐる。
 風が吹く。気持ちがいい。
 柊町を一望できる学園裏の小高い山。通称裏山。一本の大きな木の下、そこに武は寝転がっていた。
 一時間目を知らせる鐘の音が聞こえる。
 (あーあ、完璧にサボリだなこりゃ)
 まりもちゃん。御免、と心の中で担任の教師に謝った。最も、こんな不誠実な謝罪では彼女は許してくれそうに無いが。
 ……でも、しゃあねぇよな。
 昨日を思い出す。最早三桁にも届くであろう菓子職人と、天を貫かんとばかりに高く作られていくチョコレートケーキ。おまけに『世界のパティシエ、謎の大失踪事件!?』というニュースのテロップ付きだ。その騒ぎが全て一人の少年のためである――というのは何かの冗談にしか聞こえない。
 (あれを俺に食わせようとしてるんだよなぁ……冥夜も悠陽もやりすぎだ)
 「つか、やりすぎなのはいつものことだけどな」
 そもそも毎日の昼食でさえ、学校をひっくり返すような騒ぎが、間々ある日常である。これが聖バレンタインという日になれば、大騒ぎどころではないのは目に見えている。
 最早、生命の危険すら感じた武は、こうして裏山にて身を隠しているわけだが……。
 (まぁ、その気持ちは、何て言うか、嬉しいけど)
 だけども武の体は一つだけである。正直に言うと、もたない。
 全くもって贅沢な悩みであったが、当人としては割りと深刻な悩みである。ぶっちゃけ、生命の危機すら感じたことも一度や二度ではない。
 ざぁ、と風が吹く。
 柊町を一望出来る裏山は絶好の昼寝スポットだ。それに加え、天気も晴天。二月というのに、この陽気は眠気を誘うものが在る。
 「――――ま、偶にはこういうのも悪くはない、か」
 純夏達には悪いけど、と呟き、武はまどろみの中に落ちていった。

  * * *

 ――――そこは煉獄だった。

 死があった。否、死しかなかった。
 血、人であった肉塊、細切れになった人体、苦悶の声、怨嗟の想い。――――鉄の腕と、抗いがたい天災じみた脅威。
 断片的に浮かんでくるイメージ。それは正に悪夢の体現。
 ああ、だけど、それでも。
 そこに湧いてくるのは暖かな光。まるでパンドラの匣に残った希望。
 絶望が支配しているような、暗い地獄の釜の中でも。

 そう、守りたい日々は、確かに在ったんだ――――

* * *

 ゆさゆさ。ゆさゆさ。
 「む、ぅ――――点呼はまだだろ。だ、からもちょっと寝かしてくれよ……霞」
 「――――っ」
 ピタリ。誰かの息を呑んだ声。
 ――止まった。どうしてか、その事に違和感を感じ、武は目を覚ました。
 「ふわぁああああああ。――――って霞?」
 大きい欠伸を一つかました後、今更のように武は言った。どうやら自分が何を言ったのか、よく覚えていないらしい。
 そこには何故だか、驚きに目を見開いている社霞が居た。
 「え、と。……どうした?」
 「あ――――」
 霞は泣いていた。胸に込み上げる感情を押さえ込むように。だがしかし、それでも溢れてしまう感情が涙となって頬を伝う。
 数秒経って、ようやく自分が涙を流していることに気付いたのか、ごしごしと目尻を指で擦った。
 「いえ……何でもありません。目に、ゴミが入っただけですから」
 言って、霞はいつもの柔らかな笑みを武に返す。
 「――――?」
 ドグン。心臓が脈動する。頭にノイズが走る。俺は、この笑顔を、別のどこかで見たことが――――
 (……全く。霞の笑顔なんて、今まで何度も見たじゃないか)
 ぶんぶんと頭を振る。それでノイズは跡形もなく消えた。
 ――――多分、寝起きで前後不覚になっていたんだろう、うん。
 そう自分に言い聞かせ、霞の方へ向く。
 「っと。霞、よくこの場所が分かったな……。つか今何時だ?」
 誰にも見つかりたくない一心で逃げ出した武だが、特に焦ることも無く、現状を確認しようとする。
 さもありなん。社霞は『白銀武一向の面々』の中では、一番の常識人なのだ。少なくとも武はそう認識している。幾分無愛想であるが、感情を全く見せない彩峰慧より、十二分に感情豊かと言えよう。
 そんな訳で、もし見つかったとしても、霞なら問題は無いだろう、と武は認識していた。
 ……どういう問題かは頭が痛くなるので考えないようにする。
 霞は、ごそごそと包みを開けると、弁当箱を二つ取り出した。
 「お昼休み……」
 「そうか。もうそんな時間か……随分寝たんだなぁ」
 「……どうぞ」
 そう言って、弁当箱を差し出す霞。毎度の『白銀武争奪昼食戦争』(命名:3−Bの面々)に参加している霞は、いつも武の分の弁当も作ってきているのだろう。
 「おう。いつも悪いな、霞」
 「いえ」
 それを嬉しそうな笑顔で受け取る武。それを見た霞の頬が僅かに朱に染まる。
 (寝ていても腹は減るんだよなぁ……。『どうしてお腹が減るのかな?』とは実は結構深い言葉なのかもしれない)
 と、そんなどうでも良いことを考えつつ、控えめだけど可愛らしい、実に霞らしい弁当箱の蓋を開けた。
 目に飛び込んできたのは。
 「おおおお、鯖の味噌煮かぁ! 霞のコレは絶品だからなぁ!」
 思わず、感嘆の声を上げる武。
 「……そんなことないです。冥夜さんや純夏さんに比べれば、私なんて……」
 照れ隠しか、顔を俯かせながら、霞はそう抵抗の言を紡いだ。
 だが、その抵抗は残念ながら武には意味が無かったようだ。
 「何言ってんだよ? そりゃ確かに豪華さじゃ冥夜と悠陽の弁当……っつーか弁当なのかアレ? ともかく値段では流石に劣るかもしれないけど――――俺は、好きだぜ。コレ」
 なんつーか、心に響く味なんだよなぁ、と漏らし、納得したようにうんうんと頷く。
 「……ありがとう、ございます」
 照れ隠しなのか、霞はいそいそと弁当を食べ始める。
 それを見た武も同時、鯖の味噌煮に箸を付けた。
 「うん! やっぱり美味いよ、霞。ここの所、胃のもたれる飯ばっかだったからなぁ。あいつら、実は俺を肥え太らせようとしてるんじゃねーだろーな。で、十分に太ったところで、きっと食べるんだぜ。俺は豚か。……うーん、染みるぜ、この味」
 ぱくぱくと正に烈火怒涛の勢いで弁当を平らげていく武。
 それをいつもの笑顔で見守る霞。
 うむ。天下泰平、世は事も無し――――
 「じゃねぇ……そういえば、俺追われているんだった……」
 霞の弁当を食べ終え、一息ついた途端に遅い来る現実。かくも現実とは無情なものである。喝。
 「なぁ霞。純夏たちの様子ってさ……どうだった?」
 恐る恐る聞く武。全く肝が座って無い男である。通称ヘタレ。
 多少、困惑するような顔をして。
 「皆さん、すごい剣幕で探していましたよ。特に純夏さんなんて『あんにゃろ〜、見つけたらタダじゃおかないわ。具体的にはドリルミルキィパンチで三ゲージ溜める』って言ってました」
 「フルゲージコンボかよっ! それってぶっちゃけハメだよねハメだよね。しかもかなり悪質な。あの野郎、お約束とばかりにフルゲージ専用超必使ってくるつもり満々じゃねぇか! ――――締めに。K.Oしてんのに超必してくるとかマジありえねぇ」
 間違いなく死にフラグである。
 益々頭が痛くなってくる武に、ふと霞は暖かな微笑を漏らした。
 それはまるで子を思う母親のような――――
 「……はい。武さん。初めて作ったものですけど、受け取ってもらえますか?」
 「え」
 ちょこん、と霞の小さな掌に乗っているのは、これまた小さい――だけども可愛らしくラッピングされたチョコだった。
 「あ、そうか。今日はバレンタインだった」
 それで今の今まで、というか現在進行形で逃げ回っているのだが。しかし、その事実を忘れていたのが一重に純夏たちの常識はずれな騒動のせいだと思うと仕方ないかもしれない。
 「おう、ありがとう霞。ありがたく頂くとするよ」
 武はさっそくとばかりに、霞のチョコを口に入れる。
 最早情緒もへったくれも無いが、これが白銀武の人となりである。まぁ、この子供染みた無邪気さに、彼女達≠ヘ惹かれているわけであるが。
 霞も慣れたもので、そんなことは露ほども気にしていない。
 「うん、美味かったぞ。初めてとは思えない」
 「――――ありがとう、ございます」
 僅かに頬を赤らめ、霞は立ち上がった。
 「あれ、もう行くのか?」
 「――――授業が始まりますから」
 ああ、もうそんな時間か、と武は思う。
 「……これから、どうするんですか」
 「うーん。今更っていう感じするし、今学校行ったら大騒ぎになりそう。つかなる。そうなったら、まりもちゃん泣くぜ。絶対。今日は此処でのんびりしてるよ」
 「そうですか」
 そのまま去っていく霞。
 武はその背中を見ながら、横になる。と、満腹になったからか、さっきまであんなに寝ていたのに、睡魔が襲いかかってきた。
 (全く、食っちゃ寝とは堕落している……)
 そうは言っても眠いものは眠い。
 意識が眠りに落ちていく中――――
 「……多分、純夏さんも来ると思いますよ。――私達にとって、此処は特別な場所≠ナすから」
 ――――そんな霞の声が、武には聞こえたような気がした。

* * *

 ――――そこは地獄だった。
 援護射撃も無い。艦隊射撃も無い。いつもの隊長の指令も無い。部隊の人数も、当初と比べれば半分以下になった。
 あるのは、脅威。異形のモンスターだけだ。自分達を押し潰そうと四方八方から、その量を際限なく増やしていく。
 こちらの武器は己の技量と、鉄の腕。そして――――背中を預け合える、仲間だった。
 そう、仲間が居たのだ。こいつらとなら、この困難なミッションもこなせる、という絶大な信頼を寄せた仲間が。
 だけどもその唯一の仲間すら無くなっていく。絶対に守りたいと思っていたモノが、指の間から零れ落ちていく。
 ――――それでも進んだ。彼らが残していったモノだけは守らなければならなかった。この手にある、彼らから渡されたモノは決して譲れなかった。
 それは信念か、それとも思想か。何なのかは分からない。それでも俺は守らなければならないと思ったんだ――――

 ――――人類を、無礼《なめ》るな

 ああ、それでも。それでも零れ落ちてしまう。最後に残った一欠けら。それすらも目の前の脅威は奪い取ろうとしている。
 ……やらせない。
 何があろうと、これ以上はやらせない。
 自らの背には、文字通り『世界』が掛かっているのだから。
 それは、本当に最後に残った欠片。皆――――ありとあらゆる人から渡された唯一無二の想い。
 この思いだけは。
 この想いだけは。
 手放しては、いけないものだ。
 そう、例え何かを犠牲にしたとしても。
 それが、自分の、命よりも大切なものだとしても。
 ああ。だから。
 だから――――

 だから/(震える指先)
 俺は/(託された想い)
 この手で/(■■を)

 ――――引鉄を、引いた。

 全ては終わった。脅威は去り、人々は皆歓喜に打ち震えている。
 『――――!!!』
 そう、世界は救われたのだ。つまり、大団円。ハッピーエンドだ。
 『あぁぁ――――ああ!!!』
 人々は俺達を賛美し、仲間達に敬意の念を贈るだろう。
 『あ■ぁぁ■ああ■あ■!!!』
 これ以上無い結末。これ以上ない幕切れ。それは自らも望み、そして仲間も望んだこと。
 なのに。
 なのに。
 俺は。
 目の前の俺は。

 『ああああああぁぁ、■■ぁぁあああああああああああああああ!!!』

 どうして、涙を流しながら、絶叫しているのか――――――――

* * *

 「――――武ちゃん、大丈夫?」

 「ぇ――――あ」
 武が気付いときには、もう日が沈む直前だった。
 夕と夜の境界線――夕闇。太陽は沈みかけ、星が微か、頭上に瞬いていた。
 肌寒い風が、頬を撫でる。
 「お、れは――――」
 その時、頬に何か、冷たいものを感じた。
 武が顔に手を這わせる。
 ――――涙だ。
 いつの間にか泣いていたという事実が、冷たさとなって、手の中にある。
 「何、で……?」
 前後の記憶が全く無い。記憶の糸を手繰らせるように、武は脳に思考を走らせる。
 (確か、昼……霞と弁当食べて……んで、眠くなって。それから……何か夢を見たような、気が――――)
 ずきん。
 頭痛がした。
 確かに夢を見た、という確信があるのだが、それが何だったのか、全く分からない。
 (何だか、すごく悲しい夢を見ていたような気がする……)
 まるで靄が掛かったかのような頭。
 と、そこで漸く。
 「大丈夫? 武ちゃん……すごくうなされていたよ」
 目の前の視界に、純夏が映っていることに気がついた。
 「――――純夏? 何時の間に、お前……」
 後頭部に柔らかい感触がある。
 どうやら、武は純夏に膝枕をしてもらっているようだ。
 誰かがそこにいるという確かな存在感。
 暖かくて。暖かくて。
 そして、その暖かさが、目の前にいる幼馴染だという事実。
 それが何故だか。
 「――――あ」
 堪らなく、嬉しくて。
 再び武は涙を流した。
 「ちょっと! 武ちゃん! 本当に大丈夫!? 何だか様子がおかしいよ? 何処か痛いの?」
 純夏の声が、武の脳髄に心地良く響く。
 (ああもう。一体何だってんだよ、こん畜生!)
 こんなのは自分らしくない、と上体を起こし、頭を振る。
 「いや、大丈夫だ。何か寝起きで可笑しくなってたみたいだ」
 一言、そう口にする。
 それで頭の中はクリアになった。
 「……ふぅ。落ち着いた。ところで、純夏。お前何でこんなところにいるんだよ。授業はどうした授業は」
 「はぁ、授業なんてとっくに終わってるよ。何処にいるかと思えば、こんなところに寝てるなんて……」
 呆れた、と一言付け足して、再び溜息を付く。
 「む。しょうがねぇだろうだろ。元はといえば、お前らが無茶なことやろうとしたんだから」
 「それにしても逃げなくてもいいじゃない。皆心配してたよ?」
 「うぐ……」
 それを言われると武は反論できない。
 幾人にも迷惑を掛けたのは事実なのだから。
 だから、武は大人しく謝ることにした。
 「――――御免なさい」
 「うむ。よろしい」
 神妙な顔で純夏は頷き、すく、と立ち上がった。
 そして武のほうへ手を伸ばし。
 「帰ろ、武ちゃん」
 満面の笑顔で、そう言った。
 一瞬、武は呆気に取られた。
 何故だか、先ほどの感情がフラッシュバックする。
 悲しい夢。赤い断片。そこにある確かな存在感。日常という名の暖かさ――――
 それら全てを飲み込んで。
 「……おう」
 武は差し伸べられた掌を握り返した。
 純夏はそれを満足気に見つめて、言う。
 「うん。皆にちゃんと謝るんだよ。家で待ってると思うから」
 「はいはい、わぁーってますよ」
 パン、とズボンを払い、立ち上がる。
 その時、純夏は思い出したように。
 「あ」
 と言って、鞄を漁りだした。
 そして、一つの包みを取り出し。
 「はいコレ。バレンタインのチョコレート。武ちゃんのことだから、どうせ今年も……って流石に今年はゼロじゃないか。
 でもさ――――」
 そう言って。

 「――――貰って、くれる?」

 笑った。
 それは全く以て、いつもの笑顔。特別なものでも何でもない。いつでも武の側にあった鑑純夏という存在だった。
 いつもの日常。
 いつもの笑顔。
 ――――いつもの純夏。
 それが、何だか嬉しくて。
 「……ふん。しゃーねぇから、貰ってやるよ。どうせ、やる奴なんて他にいないんだろ?」
 思わず武は、にやついてしまうのだった。
 「あー、何よそれー。失礼しちゃうわねー。言っておくけど、義理だからね。ぎ・り!」
 「はいはい。わぁーってますよ。どうでもいいけど、早く帰ろうぜ。腹減ってきた」
 「どーでもいいって何さ! ふーんだ。帰ってから今日のこと説明してもらうんだから! もちろん、皆一緒にね!」
 「うげ。……今から言い訳考えなくちゃな」
 「言い訳って……ちょっと! 武ちゃん! ………おまけにそれ学校の上履きじゃん。あーあ、どうするのさ。そんなに汚れちゃって」
 「ううむ。ま、どーにでもなるだろ。せっかくだから俺は裸足で校内を駆けてやるぜーーー」
 「何それ。訳わかんないよ」

 夕日差す下りの坂道。
 伸びるのは二つの影法師。
 それは長く長く。寄り添うように。じゃれ合うように。
 かつてあった過去と今ある現実を飲み込んで、これからの未来を作っていく。
 世界は時間という歯車を廻しながら今日も動いている。
 自分を慕ってくれる人が居て。
 自分を思ってくれる人が居て。
 自分を見守ってくれる人が居て。
 ――――世界はいつものように廻っていて。

 ああ、何て幸せな人生(ひび)なんだろうと、朱に照らされる世界で、武は思った。

『One day / Happy days Happy life 』
――――<了>





 後日談。

 「武。今日は何処に行ってたのだ」
 「タケル様。今日は一日中、一体どちらへ?」
 「ターケールー、今日は一体何処へ行ってたの?」
 「武さん! 今日は何処にいたんですか? 心配したんですよぉ〜」
 「……白銀君。学校さぼって、どこで油売ってたのかしら? 委員長として是非お聞かせ願いたいわ」
 「……――――やるね」

 「おおおおお前ら近い近い近い!! ああそこ息を吹きかけるな耳たぶを噛もうとするな!!! いやもう何て言うか――――御免なさい」

 「「「「チョコ食べてくれたら許してあげる」」」」

 そこには総勢七個(勿論三メートル強のチョコレートケーキ含む)がずらりと並んでいた。
 「――――俺、もしかして死ぬんじゃないか」
 ああ、愛が痛い。死を覚悟するほどに。


 更に後日談。


 カッチコッチ。かっちこっち。カッチコッチ。かっちこっち。
 「……………………………………………………………………………………寝れない」
 昼間あんだけ寝たのだから当たり前である。

 ちなみに。
 武はその後一ヶ月はチョコレート恐怖症に悩まされたとか。

 それも幸せの形なのだろう。……たぶん。

 END

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